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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 製蝋業の発達

 木蝋の盛衰

 明治になり時勢の変遷は、石油の輸入と明治四年(一八七一)の断髪令の打撃を受けた。優秀な製品で知られた喜多郡の木蝋は明治二年には白蝋百斤(六〇キログラム)三〇円以上、生蝋百斤二五円だったものが、暴落して一〇円と八、九円台になった。そのため廃転業するものが続出した。農家も櫨樹の植込みを止めたのみならず、大樹を伐採する者がでた。その後海外輸出の途があることがわかり、喜多郡出身の池田貫兵衛・河内寅二郎らは神戸に喜多組という貿易商社を設立し、外商との取り引きに努めた。価格も上昇し、白蝋百斤一五、六円、生蝋百斤一二、三円となった。愛媛県の木蝋は大阪・神戸の外国商人の手により九州の製品と混同して中国の上海に輸送され、さらに、各国へ再輸出されたという。
 喜多郡内子町の芳我弥三衛は、明治二六年アメリカ合衆国のイリノイ州シカゴ博覧会に出品して褒賞を受けている。その当時の経営規模は、使用者六七人、一か年の産額一五〇万斤(九〇〇トン)、価格二二万五、〇〇〇円と記録されている。また、明治三三年(一九〇〇)フランスのパリ博覧会でも銅メダルを受賞している。
 明治七年の『府県物産表』によると、木蝋二七万五、三一二・六八貫、一一万五、三四三円四九二、晒蝋三万六、〇五〇斤、三、二七一円、蝋燭一六万七、二九四斤、一万七、一七一円八三銭、鬢付油六万八、四一九斤、九、九五五円三六銭となっていた。明治二〇年の『愛媛県農商工統計年報』では、木蝋製造家が全県で三六九戸余あった。喜多郡一〇九、西宇和郡七四、北宇和郡四三、東宇和郡三九、下浮穴郡三四と続いている。喜多郡では生蝋が一一万九、三三五貫(四七・五トン)、晒蝋一二万六、〇七六貫(四七二・八トン)、代価二六万〇、二九八円と他郡を圧倒している。県全体では四二万三、八一七円であった。製造戸数では明治三五年の生蝋三三二、晒蝋八〇、計四一二戸がピークで、以後は漸減している。生蝋業者は櫨実の産に近い喜多郡と宇和四郡が中心で、晒蝋業者は喜多郡内子町に集中していた。
 明治二八年(一八九五)には、第一回全国木蝋業者大会が大洲町で開催され、さらに、第二回が内子町で開かれた。当時の喜多郡内の晒蝋の生産は国内生産の四〇%を占めていたので、阪神・長崎などの貿易商はたびたび大洲・内子町へ訪ねてきたという。

 生産の仕組み

 生蝋の製法は明治末年には喜多郡長浜町の岩村某が機械化した。水圧式で一か年分を一か月で処理したので、在来の立木式製蝋業者が破産したという。それまでは元文三年(一七三八)広島から大洲藩に伝わったといわれる立木式搾油方法が各地で行われていた。北九州は横木式であるが伊予では立木式であった。
 晒蝋方法も北九州のアンペラ晒しに対し伊予は箱晒式であった。箱晒式の元祖は内子町の芳我弥三衛である。内子地方の晒蝋業者は明治初年に白蝋の価格が騰貴してから盛んとなった。明治末年には内子町に二七軒、天神村(現五十崎町)・五十崎村に二軒、大洲町に六軒、喜多郡で六〇軒余もあった。
 生蝋製造法は櫨の実をカル竿(ブリコ)で分離して実を細かくひいて粉拵えをする。粉櫨を甑に入れ蒸熱を加えて鉄鉢に入れる。二五斤(二〇キログラム)が一回分で、これを苧で作ったイゴに包んでその上に玉石をのせ、樫の長さ九尺、幅一尺三寸、厚さ五寸五分位の大樌をのせ、矢と称する樫の長さ一尺八寸、幅五寸、厚さ五寸の木を双方から打ち込んで圧搾すると鉄鉢の下部から油状となって流出する。これが一番蝋である。矢を打ち込むのは天井から吊した槌を、釣鐘を突く様につくのである。二五〇~三〇〇斤の粉拵えを一人役とした。蝋の搾油率は斤垂れといって、一貫目から一斤(六〇〇グラム)とれるのが普通で、良質のものは、一、二斤位垂れたという。
 伊予晒法は生蝋を大釜に入れて先ず溶かす。これを大桶に移して爽雑物を沈澱させ、これにアルカリ液を混和して十分に攪絆する。生蝋を少量ずつ冷水中に落下すれば、蝋液は急に冷却して不規則な白色の小片となって凝結する。これを砂利又は蝋花という。篩納で生蝋を掬い取り簑の上に拡げて水気を切る。この第一回の作業を荒煮又は青だしと称する。水気を切った蝋花は長方形の干箱に入れて、丸竹の干棚(蝋棚)に並べて約二週間日光に曝す。そして再びこれを釜でたき、今度はアルカリ液を混ぜないで、前と同じく冷水に落として蝋花を作る。これを中煮又は中焚きという。また日光に一週間位曝すと大体白くなって終わる。白く曝した蝋は三たび釜で溶かして大桶に移せば、比重の差で不純物は沈澱する。これをおりといい、三回目の蝋焚きを上げと称する。摂氏五五度内外に冷却するのを待ち、口付の小桶に汲み取り、角型の白蝋皿に注ぎ入れて製造工程が完了するのである(村上節太郎『愛媛県の櫨および製蝋地域の地理学的研究』)。

 製蝋組合の設立

 宇和島藩での販売方法は製産場で取り扱っていた。明治維新後この製産場が廃止されたため、粗製濫売の悪弊が生じてしまった。明治四年(一八七一)ごろの宇和島藩の『藩政一覧』によると蝋百万斤の産があった。海外輸出をするためには、製品の均一化と組合の設立が望まれた。東宇和郡卯ノ町(現宇和町)の清水経三はこの弊を憂い、西宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)の平田喜平外二、三人の有志と図り、明治一七年(一八八四)一一月を以て組合設置を計画した。当時木蝋集散地は大阪であった。木蝋の商権は常に大阪商人に握られていた。これに対抗するために、西宇和郡製蝋家が結合することになった。明治一八年二月甲部製蝋業組合を創設し、郡内の全体を結合することに努めていた。品川商務局長の巡回指導により、目的を達するためには、その規模を拡大すべき旨の勧告があった。発起人達の努力の結果、四郡連合が明治二一年九月になり、同一〇月連合組合規約が確定することになった。外は大阪仲買問屋などの弊害を絶ち、内は製蝋の粗製濫売の憂いを除く端緒を開いたという。なお、喜多郡では、内子町に明治四〇年(一九〇七)一一月晒蝋製造業者による伊予晒蝋同業組合が設置認可を受けている。

表工2-6 愛媛における生蠟及び晒蠟の生産累年統計

表工2-6 愛媛における生蠟及び晒蠟の生産累年統計