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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 砥部焼の発達

 販路の拡大

 窯元は明治維新で、唐津役所・瀬戸物役所などが廃止され、製品を自由に販売できるようになった。明治初年には旧来の飯茶碗・皿・鉢・酒器など日用品の生産が中心であった。明治一〇年(一八七七)を過ぎると錦絵の高級美術品が焼かれるようになった。
 販売先は、旧松山藩領内へ多く出荷されることになり、郡中商人から松前商人を中心に取り引きが盛んになってきた。松前商人は砥部焼を帆船(わいた舟)で四国・中国・九州の漁村や沿岸の町村へ、その販路を拡大していったのである。松前には帆船五〇隻、陶器商店四〇軒があったといわれる。松前町にある住吉神社の境内には、明治二〇年(一八八七)の同神社改修の折、砥部焼窯元の寄付者の芳名を印した記念碑がある。
 明治一八年向井和平は城戸徳蔵と図って、長崎の商人小村徳平と商談をととのえ、初めて白磁・染付の茶碗類を満州安東県へ出荷した。これが砥部焼輸出の始まりである。その後、清国商人との間に取り引きが結ばれ、満州・北支・上海へと漸次市場が拡大された。向井和平・城戸徳蔵の両氏は益々輸出を盛んにしようとして、明治二一年下浮穴郡と伊予郡の製陶家に説いて陶磁器組合を設立することになった。明治二三年向井和平は淡黄磁に彫刻を施して販売したところ、クリーム色の上品さが好評を博し、アメリカ合衆国にも輸出されるようになった。
 明治三九年(一九〇六)には、神戸市栄町の貿易商池田貫兵衛(大洲市新谷出身)と取り引きを始めた。池田は三島・砥部の製品を一手に買い入れて輸出することになり、東南アジアへ進出して成功し、それ以来砥部焼は東洋市場に確固たる地盤を持つに至った。
 海外に輸出された砥部焼は白磁・染付磁器の型絵染付を中心に、飲食器特に茶碗(伊予ボール)が多かった。淡黄磁・錦絵磁器の精巧な花器・装飾品は欧米にまで出荷された。

 原料利用の変遷

 文政元年(一八一八)向井源治が川登余毛の川底に白色の岩層(川登石)を発見するまでは、外山砥石の屑石が使用されてきた。明治八年(一八七五)白潟秀三郎により万年石が開発された。この万年石は鉱域が広く、扇谷・万年・障子山西方にまで続き、数十メートルの岩層をなし品質・鉱量ともに川登石より優っていた。搬出に便利で、比較的水車にも近いため、万年石を主として利用するようになった。万年の人々は陶石採掘に従事する者、渓流に水車を築造して陶土を製する者が続出した。明治中期から漸次増加して、大正の好況期には一一か所の水車場があった。砥部焼に良質の原料を豊富に供給し続けたのは、この万年の水車業者であった。
 釉薬については磁器創業当初から苦労してきた。明治初年、守本勇治は高野川(現双海町)で釉石(高野川石)を発見した。陶祖杉野丈助以来使われてきた三秋村(現伊予市)の三秋石をしのぐものであった。この高野川石は品質が良好で、採掘も容易なためこの石がもっぱら使用されることとなった。明治二三年(一八九〇)城戸徳蔵は釉薬に石灰石を応用することを始め、従来行われてきた木灰の類は使わなくなった。砥部焼独特の淡黄磁は釉薬に楢灰を灰汁ぬきせずに用いたので、焼成にも特別の技術を要してきたのである。
 彩画材料は磁器創業ごろから染付けが多く、それには呉須が使用された。藩政期には長崎経由で中国産の天然呉須を購入していた。明治になってからは呉須にかわって、酸化コバルトなどの金属酸化物の合成品が主として用いられている。しかし、天然呉須の方が良質といわれる。

 生産の仕組み

 製造工程をみると、陶磁器原料には素地用と釉薬用とそれに付加される補助材料とがある。作業の主なものは素地用原料の操作である。製造工程は次のような順序で進められる。

  土練→成形→乾燥→素焼→下絵付け→施釉→窯詰→本焼→窯出し検査→上絵付

 窯は元文年間(一七三六~四一)陶器の焼かれていた当時から、昭和三八年(一九六三)重油の倒焔式窯の普及するまでほとんど登窯で生産された。傾斜地を利用して造られるため、丘陵地の多い砥部地方は好適な条件を有していたのである。登窯は大別して大登窯・小窯・美濃式窯に区別され、そのうち大登窯が最も多く、次は小窯、美濃式窯は少なく三か所に過ぎなかった。
 砥部焼に関係する陶工は、窯場と窯場の外に働く者に区別される。明治二七年(一八九四)ごろの職種を『下浮穴郡砥部磁器業誌』でみると、
 〈窯 場〉
  成形工(二三一人)、陶画工(一〇人) 女絵付工(一一六人)、土濾人(三六人)、手伝人(二〇〇人、内男一〇〇人・女一〇〇人)、築窯師(五人)、窯焚人(三二人)、焼道具師(三〇人)、下男(三〇人)、陶器選師(一八人)、荷造師(二〇人)
 〈窯場外〉
  陶石採掘人、陶石運搬人、水車番、石粉運搬人、木伐、割木運搬人、木割人、製品運搬人、各種請負人、各種仲介人

以上である。陶工人数は、窯場で合計七二八人となる。当時大登窯で最も大きかった下向井工場で、男女合わせて約五〇人いたといわれる。これと同規模の工場が一三軒あり、このほか小窯も少々あった。窯場外の労働者は窯場と同数ぐらいといわれるから、七〇〇人余となり、推計千数百人、町内全労働者の過半数以上が製陶業に関係していたことになる。
 明治一八年(一八八五)の『愛媛県統計概表』によると「磁器表」として素焼窯が下浮穴郡に一五、伊予郡一である。本窯は下浮穴郡九二、伊予郡九、南宇和郡三、錦窯が下浮穴郡二となっている。下浮穴郡のものはすべて砥部焼の窯元と考えられる。製造物価(価額)は下浮穴郡をみると染付けが最も大きく、一万二、九五九円、次いで無地が五三一円、錦手四〇〇円、雑二六三円、計一万四、一五四円となり、愛媛県計が一万八、一一五円であるから、その七一・五%を占めている。
 明治二九年の『愛媛県農商工統計年報』の「陶磁器業工場一覧」では、下浮穴郡の砥部村の工場所が一二工場、同原町村(ともに現砥部町)二工場、伊予郡北山崎村(現伊予市)三工場の計一七工場の持主名、創業年月、職工人員、蒸気力・水力の別の記載がある。最大の工場は向井陶磁器製作所で向井和平の経営になり、文化一〇年(一八一三)の創業で職工員男二四、女一〇人、計三四人、水力機関数(水車)三か所である。創業年月の古い工場は伊予郡北山崎村の全国陶磁器製造所の寛政元年(一七八九)であり、砥部村では寛政一二年の城戸陶磁器製造所となっている。

表工2-3 愛媛県における陶磁器累年比較

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