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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

2 綿替木綿から伊予木綿へ

 綿替木綿の創始

 蒼社川が運んだ花崗岩の風化した肥沃な沖積土は綿花栽培に適していた。当時、今治平野は全国でも有数の綿花生産地であった。これを原料に早くから綿織物が生産されたが、商品化するのは瀬戸内海の物資交流が盛んになる一八世紀以降である。
 享保年間(一七一六~三六)に今治の商人柳瀬忠治義達は白木綿が大坂地方によく売れるのを知り、地方殖産興業のため実綿と綿布を交換する「綿替木綿」と呼ばれる生産システムで、小幅の白木綿の製造販売に乗り出した。綿替木綿というのは、実綿五〇〇匁(一、八七五グラム)の実綿から二反の綿布が織られるが、このうち一反分を実綿代とし、残りの一反分が婦女子の収入代金として支払われた。当時消費した原綿は、今治近在で生産したものでは不足をきたし、大部分は大坂・讃岐(香川)・備後(岡山)地方より買い入れたようで、その総量は地方産の一〇倍に達したと推算されている。『今治拾遺』によると、安永元年(一七七二)に、茶・出綿実・入綿・家代銀に十分の一税「歩一」が、また翌二年には、出入米・出入麦・出入大豆・出入綿に同じく「歩一」が課せられた。綿花・木綿織に税を新設したのは、税の収入源として注目されたことによるもので、また木綿織の発達を意味している。
 なお、この創始説に対し、農民の原生的独立小経営は文政年間(一八一八~三〇)までが一般的で、このころから綛糸制が始まり、天保年間(一八三〇~四四)に至った小経営が解体して綿替制による資本家的家内労働が支配的に成立したとする説(篠崎勝「今治綿業マニュファクチュアの成立」)がある。また、宝暦年間(一七五一~六四)に今治の町人楠岡某が、京都で呉服商を営んでいたとき、ある人の注文で今治で織られた白木綿を送ったところ需要に適し、以後販路を求めたのが始まりとする説『今治町郷土誌』もある。

 伊予木綿の端緒

 白木綿は世にいわれる伊予木綿の始源である。天保年間が木綿織のピークで、深見理平・阿部平造・八木治平らが木綿商として活躍して覇を競った。なお、この時期には、大三島及び越智郡島嶼部にもこれが発達し、大三島野々江(松山藩領)の天保一五年二月の『御用日記』によると、三、〇〇〇反の木綿織が大坂に積み出されている。
 その後も次第に発達して伊予有数の物産となり、藩財政に大きく貢献した。藩も種々その保護奨励をした結果、嘉永年間(一八四八~五四)にはその産額年三〇万反に達したという。
 安政二年(一八五五)二月、柳瀬忠治義広が祖先の業を再興して、盛んに綿替木綿業を営んだので、藩主は祖先義達の創業の功を多とし、義広の歩一銀を免ずる待遇を与え、同四年義広を綿替木綿商の世話方に任じている。
 さらに、万延元年(一八六〇)深見理平は越智郡津倉村(現吉海町)に支店を設け、深見惣平に管理させた。島民を勧誘して木綿を織らしている。
 綿替木綿は、その地質が堅牢で実用的であったために、需要が漸次増加し販路も拡張されて、伊予木綿の声価は他産地の木綿をしのぐに至った。一時は大坂市場にその名声を博したが、その後粗製濫造の弊風をかもし、万延年間(一八六〇~六一)・文久年間(一八六一~六四)ごろには沈滞をよぎなくされた。藩ではこれを憂い種々研究の結果、ついにこれを藩の監督下に置き、名誉の挽回に努めた。文久年間大坂の木綿問屋のうち、今治関係の宇佐美利平外一七名を指名し、これに国産品の木綿の取り扱いを命じ、また、今治においても藩に功労ある者や資力豊富な者など一八人の商人を指定した。株と称してその取り引きを特許とした。営業者は一株につき銀一〇〇匁を運上として藩に納入させた。これによって白木綿業は大いに振興し、明治初期年産四〇万反に達し、この運搬用として一五〇石積の船四隻を使用したという。当時伊予木綿の商標には、今治藩主の紋章梅鉢崩しが使われた。
 慶応二年(一八六六)二月の御勘定所よりの命が『今治市誌』にある。

 御領中木綿之儀第一之国産に而前々上方に於て気請もよろしく候、近頃丈・巾・よみ等不足に付積送り之木綿不捌けにて別て評判を失ひ就而は直段も格別下直に付、大坂表得意問屋共種々心配いたし候段、猶又当時上方木綿丈・巾・よみ等よろしきもの諸向相改候所、折柄故当所積登之木綿丈・巾不足に付而は、刎もの同様に取扱ふて格外直段引下候趣き依之此度改而、左之通織方之儀大坂間屋共より願出候、右之通之次第に而は国産之主意不相織元に於ても不為之事に付定の丈・巾入念候様申付政間一同可得共其意候
   一、三尺九寸以上尋 (一尋三尺九寸以上といふ意 一反は七尋であった)  一、九寸三分已上  一、目方百十匁已上
  右之通端々迄不洩様可触示者也 寅慶応二年二月十日  御勘定所