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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 和紙漉業の発達

 伊予和紙の沿革

 楮を原料として紙を漉くことは、各藩山間部農家の副業として次第に盛んとなり、これらの地方の農民の生活を潤すことになった。小規模な生産にとどまっていた紙漉業が著しく発展をとげるようになったのは、各藩の財政が窮乏し、紙を藩の特産物として保護奨励するようになってからであった。有名なのは、宇和島藩の仙(泉)貨紙をはじめとし、大洲半紙及び西条奉書などである。
 仙貨紙は泉貨紙とも書く。戦国時代に南予を支配した西園寺氏の遺臣、兵頭太郎右衛門(慶長二年〈一五九七〉没)が長宗我部元親に滅ぼされたので、出家して泉貨と号し、野村(現野村町)の草庵(安楽寺)に身をかくした。彼はこの間に苦心して、厚紙を漉くことに成功した。この紙は楮皮を原料とし、トロロと称する葵科植物の根汁を加えて凝させ、二枚の生紙を合わせて製造したもので、紙質も強く帳簿・折本・経文などに、また丈夫なために図面・合羽・包紙などにも使用された。
 やがてこの紙は近郷の山間農家の家内的副業としてつくられるようになり、彼の号をとって仙(泉)貨紙と呼ばれた。土佐半紙の祖と仰がれた新之丞が宇和郡日吉(日向谷)村の出身であることを思えば、おそらく南予地域にひろく紙漉業が行われていたと考えられる。また仙貨紙のつくられた範囲は宇和郡の東北部にあたる野村組・山奥組(ともに現東宇和郡)、川原組(現北宇和郡)の各地域をはじめ、その北方に位する喜多郡及びその南方にある土佐(高知)国の高岡郡にまで広がっていた。
 宇和島藩は泉貨居士の功労を追賞して、文政八年(一八二五)より画像を紙役所に所蔵し年々祭礼を営み、慶応二年(一八六六)末裔である七兵衛を召し、永代庄屋格に列する特典を与えたという。

 仙貨紙

 宇和島藩では、仙貨紙及び半紙の製造が農産物の少ない山間部の産業として非常に有望なことを知り、大いに保護奨励した。元和元年(一六一五)にまず楮元金の融資をしたことに始まり、延宝三年(一六七五)に野生の製紙原料であるキガンピのある山野の伐採を禁止し、さらに元禄元年(一六八八)に特定の商家二七軒にも資金を貸与して、その製品の買い上げを取り扱わさせ、これらを大坂の蔵屋敷に送って販売した。次いで藩庁では紙類が他藩へ移出されることをおそれて、民間における藩外との取り引きをすべて厳禁し、販売権を独占することになった。
 享保一八年(一七三三)の記録によると野村組・山奥組・川原組の紙漉九〇四人、藩納入の年産四、〇〇〇束となっている。その上、元文四年(一七三九)に製品高に応じて口銭をとっていたのを株札に改め、毎月株銀を徴収する方法をとり、収入の確立をはかった。文化年間(一八〇四~一七)になると藩は専売制度をしき、泉貨方役所(本局宇和島・支局野村)・半紙役所(本局宇和島・支局魚成村-支所予子林村・近永村)をおいて、すべての事務を管理することとなった。農民に楮苗が供給され、毎年の楮皮の産額を調べて漉き上げた紙は全部藩の手に集めることにした。この時、役所では一反歩(一〇アール)につき楮苗一、二〇〇本を貸与し、その償還にあたっては無利息、無抵当で三か年の間据置き、四か年目から向こう五か年賦で還納させたという。
 こうして紙漉業者は原料の供給・資金の貸し付けを受けて保護されたが、市場との交渉の途はまったく塞がれてしまった。楮皮・紙類の買い上げ価額は、その年の八、九月ごろより冬至前までに売りさばいた価額を平均し、さらにその後の経済界の動向を推測した上で決定された。
 仙貨紙の紙質は堅牢で、永く保存する帳簿の類に適し、虫害が少なく声価を博していた。小野武夫編の『日本農民史料聚粋』(第二巻)に「往年大塩平八郎の乱に、大坂府下の商家火災に罹るもの多がるが、中に或一商家の常に此の泉貨を以て帳簿を製したるものありしが、火勢猛烈避く可からざるを期し、書類を悉皆井水に投じたり、爾後三四日を経過し揚げて之を検するに、独り泉貨紙を以て製せる帳簿類に限り聊かも毀損することなかりしかば、転益々四方の信用を得るに至れり」とその効用を述べている。
 仙貨紙の商標は、「宝」「山」「星」「万」「吉」「見」「井」の七号に分かち、さらにこの七号を分け各「ウ」「ワ」「ジ」「マ」「オ」「サ」「メ」「カ」「ミ」の九階として、総て六三点に細分していた。最上等の「宝」号は高額で、需要者が乏しいため生産がほとんどなく、「山」号は多く京都にて経本に用いられた。「星」「万」「吉」は染工の形紙、反物の包紙に、「見」「井」は需用が最も多く、張文画・傘・九倍子粉袋などに供されたという。
 なお、吉田藩の宇和郡上川村(現広見町)の畦地類吉(明治二三年〈一八九〇〉没)は嘉永年間(一八四八~五四)に泉貨紙を改良して、類吉紙と称せられる良質な仙貨紙を造り、明治二五年の第四回関西連合府県共進会において、その功を表彰して、賞を授与されている。

 大洲半紙

 大洲藩の紙漉業は宇和島藩の仙貨紙に刺激されて始まったと考えられるが、盛んになったのは、元禄年間(一六八八~一七〇四)に越前(福井)の人、宗昌が新しい技術をこの地方にもたらしてからだといわれる。同藩では楮苗を土佐藩より移入して、農家にその栽培を勧めるとともに、石州半紙(石見国=島根)の技術を導入してその改善をはかった。
 宝暦年間(一七五一~六四)に入り、藩はこの紙漉業に利益が多いことをみて、専売制の実施に着手し、まず楮役所を喜多郡五十崎村(現五十崎町)と北平村(現河辺村)に設置した(明和八年〈一七七一〉とする説もある)。領内で生産された楮皮をすべて、この役所に納入させ、民間における相互の売買、他藩への移出を厳禁した。農民が紙漉工となって生産した製品は、内ノ子町の六日市(現内子町)と中山村(現中山町)、小田郷の寺村(現小田町)の紙役所にすべて納付させた。これを藩の御用船で大坂の中之島にあった藩倉に収納せられた。ここで大洲半紙として販売せられたが、良質であったので高く評価され、佐藤信渕(一七六九~一八五〇)の『経済要録』(一八二六)に「今の世に当て、伊予の大洲半紙は厚く且つ其幅も優也。政に大洲半紙の勢ひ天下に独歩せり」と記されている。
 こうして藩庁は紙漉業の奨励につとめ、楮苗の支給、原料の買い入れに際して資金の乏しい農民に貸し付けの便宜を与えた。紙漉業の発展にともない、同藩の楮皮の生産は一万丸(一丸は六締)に達し、その収入高は知行高の八割にも及んだと伝えられている。最初は山間部農村の副業として出発した紙漉業が、ついに同藩の重要な収入財源となったので、藩の保護・奨励はますます積極的になった。また紙漉業の隆盛に伴い楮皮の不足をきたし、土佐(高知)領に官吏を派遣して原料の移入をはかり、その額は年々五、〇〇〇丸にもなった。
 なお、『大洲随筆』(宝暦末年〈一七六一~六四〉以降、大伴享により編述)によると、岡崎紙があり、色紙・短冊・懐紙などを藩主はもとより、将軍家にも献上され、諸国の列侯に愛用されたという。岡崎家の秘法であり、一般庶民には普及しなかったようである。

 西条奉書

 西条藩の紙漉業は、宇和島・大洲の両藩のそれと比較すると、はるかに遅れて発達したと考えられる。小松藩では藩主の一柳直治の時に小西伝兵衛(享保二〇年〈一七三五〉没)が大洲領から招かれて、住宅などを与えられ、紙漉に従事したのに始まるという。西条藩でもこれより以後に、紙漉業の有利なのに着眼し、その発展に努力するようになった。
 この藩の石鎚山麓地帯の西野川・東野川・中奥・大保木・黒瀬の五か村を中心に多くの楮を産出した。この入口にあたる氷見村(ともに現西条市)と、東方の千町山・藤之石山・荒川山の三か村にも多く産したので、その出口となる大町村(ともに現西条市)に楮役所(楮皮座)が設置された。この役所では楮皮の収納を取り扱うとともに、楮苗の供給・資金の貸与の事務も行った。紙漉業は城下町の南部にあたる新町を中心とした地区であった。この付近一帯は、加茂川の伏流水が自然に湧出しており、新町泉をはじめとして多数の泉がある。ここで良質の西条奉書が漉かれた。文政年間(一八一八~三〇)ごろから藩庁では、この地に紙役所を置いて、製品の収納・資金の貸し付けなどを扱った。
 西条紙漉の中でも西条奉書は良質をもって知られ、浮世絵版画の用紙に使用せられ「伊予正」と呼ばれた。浮世絵の擢り上げ和紙は、質がよく耐久力のある丈夫な、またつきのよいことが必要であり、西条奉書は最もその条件にかなったものであった。したがって江戸では、浮世絵の版元からの需要が多く、そのうえ高価に売買された。同藩では奉書の価値が高く評価せられたので、その製法が他国にもれることを恐れて、業者の数を制限し、厳重に監督した。
 紙漉業が宇和島・吉田・大洲の各藩の場合に農家の家内的副業として行われたのに対し、西条藩では専門的な技術を持つ特定の業者がいた。『西条誌』によると天保年間(一八三〇~四四)には、新町に紙方役所一棟・紙蔵二棟・楮蔵二棟・紙漉長屋一八軒の建物があって、盛んに紙漉業を営んでいたという。紙漉工は一棟に二株、三株ずつ住居して、合計三六株とされていた。
 なお、幕領の桑村郡国安村(現東予市)においては、天保年間、田中佐平が、紙漉技術を習得導入し、西条藩の石田村(現東予市)でも、文久二年(一八六二)森田重吉が抄紙場を建てて、改良普及したといわれている。宇摩郡の紙漉業は宝暦年間(一七五一~六四)に始まるといわれ、天保一二年(一八四一)には今治藩の三島村(現伊予三島市)に紙役所が置かれている。