データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 就業構造の変化

 就業人口の動向

 昭和三〇年代以降、日本経済は目覚ましい高度成長を遂げ、同四八年末の石油ショックを契機に低成長に移行した。この間に産業構造は、第二次産業の比重が著しく増大し、なかでも重化学工業が急速に発展した。だが、石油ショック以後、第二次産業の比重は頭を打ち、代わって第三次産業の比重が急速に高まりサービス化の方向を強めている。愛媛県経済も基本的には、このような全国的傾向をたどりながらも、その成長テンポ及び産業構造変化の方向には幾分の相違がみられる。この節では、昭和三〇年から五五年に至る二五年間の愛媛県における産業構造の変化を見てゆくことにしよう。
 まず、就業人口の推移を国勢調査に基づいてたどっていくと表産5-10のようである。全国の就業者数は増加率に多少の変動があるものの一貫して増勢をたどり、この二五年間に約一、六五一万人(四二・二%)増加した。これに対し愛媛県の就業人口の増加率は、どの期をとっても全国を下回り、とくに昭和三〇~三五年は〇・七%減少、四五~五〇年には女子就業者の大幅減により二・八%減少するなど、この二五年間を通しての増加テンポは緩やかであった。その結果、この間の就業者数の伸びは、六六万〇、一六五人から七一万五、四二一人へとわずか五万五、二五六人(八・四%)の増加にとどまった。これを産業別にみると、第一次産業が昭和三〇年の三二万八、七一一人から五五年の一三万一、五五八人へと六〇%も減少した。反対に、第二次産業は一三万三、五九一人から二一万八、九六九人へと六四%増え、第三次産業も一九万七、八二八人から三六万四、三九五人へと八四%増えた。
 続いて、五年毎の時期別に就業動向をみておこう。昭和三〇~三五年には、農業を中心に第一次産業が五万二、五〇二人(一六%)も減少した。これに対し、建設業やサービス業などで大きな伸びがみられたものの、全体として就業者数は微減した。三五~四〇年には、農業就業者が高齢化・女性化を進めながらも減少テンポをやや鈍化させ、同時に第三次産業就業者が六万人(三一%)増加したので、就業者総数は八、〇〇〇人余増加した。四〇~四五年には、みかんの新植ブームなどを背景に、農業就業者の減少率が他の期に比べて低く、また製造業及び卸・小売業やサービス業での増加が大きかったので、全体として就業者総数は最も大きな増加(四万一、三二三人、六・二%)を示した。この期には雇用者ばかりでなく、これまで減少を続けていた商工自営業者が初めて増加に転じたことも、経済の高度成長ぶりを示すものといえよう。
 昭和四五~五〇年には、経済が高度成長から低成長へ転換したのに伴って、人口の大都市集中傾向もとまり、愛媛県人口は昭和三〇年以来の減少傾向からようやく増勢に転じ、この五年間で四万七、〇〇〇人の増加をみた。それにもかかわらず就業者数は二万人弱の大幅減少となった。これは人口の高齢化や就学率の上昇などの要因に加え、経済面では、みかんの生産過剰・価格暴落・米作減反などにより農業労働力が急激に排出され、農業就業者が五万二、〇〇〇人も減員するという激しい農民層の分解が進んだこと、他方、これまで大規模臨海工業建設や農村工業導入などにより、余剰労働力を吸収してきた製造業が、石油ショックを境に急速に衰えたうえ、サービス業など第三次産業の伸びも鈍化したためである。五〇~五五年には農業の減少テンポも半減し、その減少分をちょうどサービス業の増加分が補い、卸・小売業も一万八、〇〇〇人増えるなど、第三次産業部門の伸びが顕著であった。一方、第二次産業では不況下の厳しい雇用調整によって、製造業就業者がわずかながら初めて実員減となった。軽工業で従業者は増加したが、電気機械の大幅増を除いて、重化学工業部門の大規模事業所で軒並み減少した。それでも、景気がやや持ち直したことを反映して、就業者総数は三万人の増加となった。

 産業別就業構成の変化

 次に、愛媛県における就業人口の産業別構成変化の特徴をみるため、やや詳しく全国との比較において把えておこう(表産5-11)。
 まず、注目されるのは農業の比重が一貫して相当のペースで低下を続けながら、なお全国に比較して高いウエイトを保っていることである。農業比重の減少ペースは、昭和三〇~四〇年には全国よりも緩やかであったが、高度成長のピークから転換期を経て低成長にかかる四〇~五〇年には、一二・六ポイント減と全国(一〇・ニポイント減)以上の縮小を遂げた。五〇~五五年は全国を上回るものの縮小テンポは著しく鈍化した。結局、農業の比重は三〇年の四三・七%から五五年の一五・六%へと三分の一に凋落した。農業の減少ペースに対応して、第一次産業部門の比重も低下の一途をたどり、四〇年には第三次産業に、五〇年には第二次産業にも凌駕された。五五年には、ついに二〇%を割り込んで一八・四%となった。しかし、五〇年までは毎期六~七ポイント幅で縮小してきたのに比べ、五〇~五五年は三・四ポイント減と縮小テンポは急速に鈍化した。また、全国では第一次産業に属する産業の比重がすべて低下傾向にあるのに対し、愛媛県では漁業・水産業が四五年以降堅調に推移し、五〇~五五年には実数・構成比とも増加しているのが注目される。
 第二次産業では、建設業が全国と同様に期を追って増勢を強め、五五年には全就業者の一割を占め、この二五年間で二倍強に拡大したのが目立っている。製造業は、工業開発が積極的に推進され始めた高度成長前半期の三〇~四〇年には、三・一ポイント比重が増大したが、その拡大幅は全国(六・七ポイント増)を大きく下回っている。全国の場合、この期に六九・三%の伸びをみせ、四〇年には農業に代わって最大の比重を占めるようになった。愛媛県では、主要特化業種である石油化学工業などを中心に生産を大幅に伸ばしたものの、製造業就業者数は、この一〇年間で二万人余の増加にとどまった。四〇~四五年には二万五、〇〇〇人余増加し、ようやく工業開発の雇用吸収効果が現れてきたといえよう。しかし第一次石油危機をはさんで低成長期に入った四五~五〇年には、製造業の比重は二〇%の水準で停滞してきた。それでも五〇年には全国に一〇年遅れて、農業を抜いて第一位の比重を占めることとなった。むしろ全国の製造業の比重は四五年をピークにそれ以後は縮小傾向にある。愛媛県では五〇~五五年に構造不況により、就業者数が減少に転じたのを反映して構成比も低下した。このように愛媛県における製造業の比重は、高度成長期には、全国に対し数年の遅れを伴いながら拡大し、低成長期には全国並みの縮小を遂げた。そのため全国との格差は依然四~五ポイント残されたままとなっている。
 第三次産業部門では、ほとんどの産業が比重を増大させてきた。卸小売業は、三〇年以降小売業が停滞を続けるが、卸売業が順調に伸びて四〇年に一五%に達した。その後は大衆消費時代の倒来の下でやや拡大テンポを速め、五五年には、二〇・三%へ増大し農業を抜いて第二位の位置についた。また、サービス業は、期を追って拡大テンポを速め、構成比は三〇年の九・六%から五五年の一七・八%へと倍増に近い膨脹を示した。この時点で農業を抜いて県下第三位の産業となった。金融・保険・不動産業は、この間に二倍強に拡大したが全国よりかなり低い比重にとどまっている。愛媛県の第三次産業の問題点として、組織サービス業の比重が低く、概して規模零細であることが指摘される。それでも、第三次産業就業者の動向を従業上の地位別にみると、四〇年以降は雇用者の割合だけが上昇し、自営業者及び家族従業者の割合は低下傾向をたどっており、第三次産業の近代化につれて規模の拡大が進んでいることがうかがえる。とはいえ、愛媛の第三次産業は、戦後一貫して比重を増大させながらも、昭和三〇年当時から全国より五ポイント低く、この間の展開は格差をほぼそのまま持続して行われた。五五年時点においても全国を四・五ポイント下回り、サービス経済化の進展が相対的に遅れていることを物語っている。