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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 復興期の産業構造

 産業別就業構成

 昭和二〇年臨時国勢調査によれば、愛媛県人口は一四五万三、八八七人で、昭和一五年に比べ約二七万五、〇〇〇人も急増した(表産5-6)。その産業別構成は、第一次産業就業者が六〇%に増大し、その分だけ第三次産業のウエイトが大きく低下した。第二次産業は実数は増えたが構成比は変わらない。終戦直後の食糧難の下で、疎開帰農や復員、引き揚げなどで農漁村は人口が流入し急激に膨張した。農業・林業・漁業いずれも就業者、構成比ともに増大した。一方、商業従事者の減少は、戦時中の企業整備に加え、終戦後四~五年間は著しい物資不足から物価統制が行われ、未だ自由な商業活動が回復していないことを反映している。第二次産業部門では、建設業が戦災復興のため幾分の増加がみられる。製造業は、戦時中に労働人口が強制的に動員されていたが、戦災による工場被害は甚大であった。それにもかかわらず製造業就業者が増加しているのは、物資不足から何でも生産すれば儲かるという時代を映して、経済活動が製造工業にかなり集中していたことを示している。このように、終戦直後の愛媛県は就業構成から見れば、有業者の六割が農業に依存する農業県であった。ただ、これを生産額構成から見ると、表産5-7のように、県工業生産額は県内総生産額の五五%を占め、全国第一五位の工業生産力を有する工業県であったということもできる。
 昭和二五年になると、愛媛県の人口はこの三年間でさらに六万八、〇〇〇人増えて一五二万一、八七八人となった。零細規模の県農業は膨張した農村人口を十分収容することができず、経済が復興するにつれ農家の二・三男は漸次他の産業に移り始め、農業就業者は停滞してきた。水産業も、国際間の漁区制限とくに朝鮮・中国水域の閉鎖や濫獲による魚群の減少などで従事者は減少した。その結果、第一次産業従事者は全体の五六%に低下した。一方、商業は二四年ごろから統制を解かれる物が増え、二五年には再び商業活動が活発となってきた。卸小売業従事者は一挙に倍増し、サービス業も順調に拡大して、第三次産業は二四%を占めた。第二次産業では、建設業が復興建設と公共事業の増加で就業者を大幅に増やし、製造業も微増して、鉱業従事者の減少にもかかわらず、第二次産業就業人口は五万人弱増えた。
 昭和三〇年には、この五年間に農業就業者が三万七、八〇〇人余減少し、林業の引き続く増勢にもかかわらず、第一次産業は五〇%の水準を初めて割り込んだ。逆に、第三次産業は各部門とも拡大して、ついに三〇%を占めるようになった。積極的に産業合理化を図った第二次産業の就業者は、わずかながら着実に増加傾向をたどり安定的に約二〇%の構成比を保っている。
 参考までに、昭和二六~三〇年度の愛媛県内純生産の産業別構成の推移をみておくと(表産5-8)、この時期には、第一次産業と第二次産業が約三〇%で並び、第三次産業が四〇%を占めていて、三部門間にそれほど大きな開きはみられなかった。構成比の変化も、サービス業に拡大傾向がみられるものの、農業と製造業とも横ばいで推移し、その後の急激な産業構造高度化の兆しはまだみられない。ただ、そのことに愛媛県産業構造の後進性が、はやくも現れ始めているということもできよう。

 工業構成の変化

 愛媛県工業は、これまで伝統的技術ないし県内資源を基調とする地場産業と、県外資本を中心とする近代工業が併存しながら発展してきた。地元資本による地場産業には、大規模企業はほとんどなく中小企業が大半を占めていた。三島・川之江地区・周桑郡の製紙工業、新居浜の機械工業、今治・八幡浜地方の綿布・タオル、松山地方の絣・窯業・陶磁器、中南予の木竹工業、全県に散在する食料品工業・水産加工業などである。これら地場産業のうちタオル・綿織物・紙・パルプなどの一部は、近代産業へ脱皮を遂げ一層の成長を続けるが、多くの零細産業はその後、急速に衰退の途をたどることになる。
 一方、数少ない大工業のほとんどは県外資本によるもので、住友が古く別子銅山の開発を起源として、新居浜地区に精錬所・肥料工場・アルミ精錬などの一連の重化学工業地帯を形成してきた。また低廉な労働力を求めて、海上交通の便のよい内海臨海部に紡績が、水利の地にスフ・人絹工場が進出していた。朝鮮戦争による特需ブームのなかで、これら大企業において工場の再開・拡張や設備の新設が積極的に行われ、加えて昭和工業株式会社(昭和二六年)、大阪ソーダ松山工場(昭和二七年)などの工場誘致が行われて、化学繊維・化学・産業機械などの生産が急激に増大した。昭和二五年を一〇〇とした鉱工業生産指数は、三〇年には二〇〇に、すなわち生産規模は二倍に拡大した。なかでもパルプ及び類似品製造業(二七〇・六)、輸送用設備製造業(二六三・六)、化学(二五四・二)が目立って大きな生産拡大を遂げた。
 その結果、昭和二六年から三〇年にかけて工業構成にかなりの変化が生じ、重化学工業と軽工業の地位は逆転した。繊維工業は、昭和二六年以降、海外市況の悪化や需要構造の変化などにより低迷し、この間に出荷額ウエイトは三一%から一九%へ急落した。それにともなって軽工業全体も五一%から四六%へ低下した。逆に重化学工業のウエイトは四九%から五四%へ上昇し、朝鮮戦争を転機とする重化学工業化路線の展開を示している。

表産5-6 愛媛県の産業別就業者数の推移(昭和15年~30年)

表産5-6 愛媛県の産業別就業者数の推移(昭和15年~30年)


表産5-7 終戦直後の産業別生産額

表産5-7 終戦直後の産業別生産額


表産5-8 県内純生産の産業別構成

表産5-8 県内純生産の産業別構成


図産5-1 愛媛県工業出荷額の推移

図産5-1 愛媛県工業出荷額の推移