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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 愛媛県産業の復興

 鉱工業生産の復元

 第二次大戦終了直後の日本経済は、産業全般にわたり壊滅的状態にあった。愛媛県経済も極度の混乱の中で、生産活動はほとんど停滞していた。工場の多くは軍事へ転用されたり廃棄されたうえに、その後の戦災によって著しく生産能力を減退させていた。例えば、県織物工業の終戦直後の設備能力を企業整備前に比べてみると(表産5-1)、綿紡績では三六%、綿スフ織物工業は五六%、タオルは一六%の水準に低下していた。それでも虚脱状態から脱した県経済は、軍事工業を民生工業へ転換しながら徐々に立ち直りつつあった。昭和二一年三月には、愛媛県はインフレーション激化のなかで、重要物資の確保と物価の安定を図るための「必需物資生産増強対策要綱」を発表して三二社を指定し、さらに同年六月に六〇社を追加して資金及び資材を優先的に割り当てた。また、同年四月には四国地方商工局の指定工場として、繊維・肥料・機械の各工場が重点的な援助を受けた。しかし、復興は企図したようには進捗せず、物資不足とヤミ物価の高騰が続いた。
 昭和二四年二月現在における生産設備の復元状況を繊維工業についてみると、ガラ紡が大幅増設で三五〇%の復元を果たした外は、なお五〇%から八〇%の復元率であった(表産5-1)。その他の多くの業種でもしだいに回復しつつあったが、資材・燃料あるいは電力などの不足により工場設備の稼動率は低く、早急な生産増強は困難な状況にあった。ただ、製紙業では、機械すき製紙工場の新設が続き、戦前二九工場から五〇工場に増え、大王製紙も二二年一二月から操業を開始した。生産量は戦前の三倍に増加した。洋紙の払底から仙貨紙も増産され静岡に次いで全国第二位となった。また、昭和二四年にはスフが戦前最高時を回復し、硫安も戦前最高生産量を上回った。これら繊維・化学工業を中心に、資材入手難が緩和するにつれて全国を上回るテンポで生産量は増加し、昭和二四年の愛媛県の工業水準は、戦前(昭和九~一一年平均)の九七%に回復した(表産5-2)。
 しかし、いわゆるドッジ・ラインにそう金融引き締めによって、昭和二四年後半から中小企業のうちに経営困難におちいるものが続出し、企業倒産・人員整理・滞貨累積などが産業全般に現れた。とくに繊維業・製紙業・木材関連業では深刻な不況におちいった。

 食糧生産と農地改革

 一方、農村経済を見ると、終戦直後は食料不足による農水産物価格の高騰によって、一時的に異常な好況に恵まれたこともあったが、食糧生産力の回復テンポは全国よりも鈍かった(表産5-2)。表産5-3に見られるように、全体としての農業生産量は決して少ない方ではなかったけれども、主食の移出余力はなく、急激に増大した人口を支えるためには、むしろ県外移入に依らなければならなかった。昭和二一年度産米は、過去五年間平均を幾分上回る増収で、県外消費地からの農水産物の大口買い付けもみられた。しかし、翌二二年には病害中や旱害により大幅減収となり、約二〇万石の供給不足を生じ、二二年初夏より遅配が各地に広がった。一万五、〇〇〇石の県外移入と一六万五、〇〇〇余石の輸入食糧の放出で、遅配欠配を脱するという状況であった。昭和二三年七月二〇日には、「食糧確保臨時措置法」が公布施行され、事前に生産・保有・供出割当が決定されることとなった。二三米穀年度(昭和二二年一一月~二三年一〇月)、二四米穀年度とも前年度のような遅配は生じなかったものの、米麦の県外移入と輸入食糧の放出によって、県内産出量の不足を補充しなければならなかった。
 もともと耕地面積は少なく、昭和二一年の一戸当たり耕地面積は五・五反で、全国平均八・七反の七割以下の零細規模であった。農家数は、昭和二〇年一三万三、三九〇戸から昭和二五年一四万六、一三五戸へ著しく増加した。しかも、農地改革によって、小作農は改革前(昭和二〇年)全農家戸数の二七%(三万三、八七三戸)から六%へ、小作兼自作も七%に激減し、逆に自作農は四万五、〇〇〇余戸から九万余戸(六二%)へ、自作兼小作は二万四、〇〇〇余戸から三万五、〇〇〇余戸(二四%)へ激増した(表産5-4)。農地改革の結果、自作農や自作地が著しく増加したことは、農業生産力の増進に大きく寄与したことはいうまでもないが、その反面で平均経営規模は四・九反とさらに零細化し、五反未満農家が六〇%を占め、その多くはその後、一層の兼業化を進めることとなった。

 回復から発展へ

 昭和二五年六月に朝鮮戦争が勃発し、特需を含む輸出ブームによって、ドッジ不況から脱出した日本経済は、糸へん産業や金へん産業を中心に活況を呈し、鉱工業生産は昭二五年一〇月に戦前の水準を回復した。愛媛県経済はそれを上回る回復を見せ、県鉱工業生産は昭和二五年には二四%の伸びを示し、戦前水準を優に突破した。さらに翌二六年も三八%の生産増大を記録し滞貨は一掃された。同年の工業生産の内訳と全国的地位をみると、繊維工業は年産額五四三億円で県工業生産額の五二%を占め、スフ及びタオルの生産は全国一位、人絹糸・綿糸・スフ織物は四位、綿織物は五位であった。次いで化学肥料を中心とする化学工業は年産額一六六億円(工業生産額の九%)で、硫安は全国一位の生産高であった。金属工業(同九%)ではニッケル・金が全国一位、アルミ・銅は二位であった。食料品工業(同八%)は和酒・水産食料品・菓子・澱粉・缶詰など多岐多様である。紙・紙製品では和紙が全国二位、金封水引は一位であった。製材及び木製品は、戦時中は北海道に次いで第二位にあったが、昭和二二年度は四位に落ちその後漸次回復した。その他、新居浜市を中心とする機械工業、松山の農機具工業、南予の蚕糸業、沿岸部の造船業なども息を吹き返してきた。
 しかし、昭和二六年夏には世界的な動乱ブームは早くも終局に向かい、わが国においても輸出不振・輸入滞貨の累積により、繊維問屋や貿易商社の倒産整理が相次いだ。愛媛県経済も動乱ブームの反動を受けて、県鉱工業は昭和二七年には二割の操短を余儀なくされ、生産の伸びは対前年比五・四%増にとどまった。一方、農村でも食料事情の好転につれて、農産物価格の上昇は鈍化し農家経済は悪化した。
 動乱ブームの後は、いわゆる「消費景気」が訪れるが、国際収支の悪化を転機に、二八年秋以降再び金融引き締め政策がとられ、日本経済は一層深刻さを増してくる。愛媛県の繊維工業は化繊を除き三~五割の操短で、とくに中小企業の経営は悪化し大企業による系列化が進展した。中央大手問屋筋の倒産のあおりを受けた今治タオルは四割の操短、宇摩地方の器械製紙は二八年から二九年にかけての一年間で工場数が三分の二に減った。この期に大企業は、重化学工業を中心として設備・技術の近代化を図り、生産合理化を強力に推進した。二九年下期には欧米の景気好転につれて輸出が急増し、日本経済は景気回復の糸口をつかんだ。三〇年には「数量景気」で好況に転じ、愛媛県では、繊維や製紙においても新たな設備投資が始まるなど景気は回復し、農林水産業でも豊作豊漁に恵まれて、三〇年の生産所得は二五年の約二倍に拡大した。

表産5-1 繊維工業復元状況

表産5-1 繊維工業復元状況


表産5-2 戦後農工業生産の推移

表産5-2 戦後農工業生産の推移


表産5-3 愛媛県主要農産物生産高(終戦前後)

表産5-3 愛媛県主要農産物生産高(終戦前後)


表産5-4 農家及び農地概況

表産5-4 農家及び農地概況


表産5-5 工業大分類別工場数・従業員数・生産額(昭和26年)

表産5-5 工業大分類別工場数・従業員数・生産額(昭和26年)