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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 産業部門別生産額の発展傾向

 恐慌下の農業衰微と工業の停滞

 第一次大戦後の諸恐慌から第二次大戦期にわたる愛媛県の産業構造の変化を、まず産業部門別生産額構成の推移を通して概観しよう。ただし、この期間は価格が激しく変動したので、表産4-8に示した生産額は、必ずしも生産量の増減変化を十分に反映していないことに注意を要する。部門別生産物価額の実数については、『資料編社会経済上、産業構造』生産物価額累年比較参照。
 第一次大戦ブームの頂点にあたる大正八年(一九一九)に、生産物総価額中、工産物価額が五〇%を超えた。生産物を第一次産業部門(農産物・畜産物・林産物・水産物)と第二産業部門(鉱産物・エ産物)とに分けてみると、四五・三%対五四・七%で、第二次産業比率は全国平均よりやや高く、県鉱工業の進展ぶりを示している。しかし、翌九年の反動恐慌において綿織物・製糸・紡績を主体とする県工業は大打撃を受け、大正一〇年には工業生産額がピーク時の六五%まで落ち込んだ。生産額は、その後も低迷を続け構成比も五〇%ラインを割り込んだままであった。また、農業も農産物価格の暴落によって、生産額は大正一〇年にはピークの六五%水準に減退し徐々に構成比を下げていった。工業と農業の不振によって、大正後期には水産物・林産物・畜産物の比重が高まった。
 大正末年ごろから工産物生産額は下げ止まり横ばいを続けていたが、農産物価額は大正一四年に一時的に回復したのを除けば停滞ないし漸減傾向にあった。生産額構成は、昭和元年には工産物が再び五〇%を回復し、それ以後も上昇を続けたのに対し、農産物の比重は昭和三年以後三〇%以下に落ち込んでしまった。ここに工産物と農産物の発展傾向に明らかな差異が現れた。第一次大戦中の急減のあと、ほとんど変動なく推移してきた鉱産物が昭和に入って急増し、生産額の新しい山を更新した。景気動向と連動しない動きは、本県における比重の高さとともに注目すべき特徴である。
 昭和恐慌の谷となった昭和六年には、すべての部門にわたって生産価額が急減し、県内総生産価額は一億五、一五四万円まで低落した。これはピークの大正八年三億一、二一五万円の半分にも足りないものであり、恐慌の傷がいかに大きなものであったかが想像できよう。とくに農業生産の減退はすさまじく、生産額は最高時の三分の一まで激減した。また、昭和六年の農・畜・林・水産物と鉱・工産物の比率は三八・四%対六一・六%となり、第一次産業に対する第二次産業の優位性が決定的となった。それでも愛媛県の第二次産業比率は全国のそれを六%ほど下回っており、第一次大戦後約一〇年間における県工業の不振が全国平均を上回るものであり、重化学工業への新たな展開に立ち遅れていたことを示している。それは慢性的不況下において、全国的規模での資本の集中と生産の集積が進み、京浜・阪神・北九州などの工業中心地帯が急速に発展する一方で、軽工業を中心とする地場産業地帯が衰微したことの一つの地域的発現であった。農林水産部門では農産物の急落に対し、畜産物・林産業・水産物が比較的安定した推移をたどり、第一次産業部門の比重低下を幾分緩らげる役割を果たした。

 戦時経済下の鉱工業の拡大

 昭和八年(一九三三)ごろより全国的に軍需インフレが進展するにつれて、景気は再び活況を取り戻し、本県の生産価額も順調に拡大して、 一一年には第一次大戦時のピークを回復した。なかでも鉱業生産物と工業生産物は急激に進展し、工業は昭和一〇年には一億七、三二二万円(昭和六年の一・九二倍)に回復し、全生産中の構成比は六〇%を超え、さらに一二年には六五%に達した。鉱業も日中戦争以後は活況を呈し、両者合わせた鉱工業生産額は全生産額の四分の三近くを占めるまでになった。準戦時下という特殊状況においてではあるが、県産業の近代的成熟度が急速に高まったと判断できよう。
 その反面、農業の回復テンポは鈍く、昭和一〇年の農産物価額は六、〇四四万円(昭和六年の一・五〇倍)にとどまり、昭和一二年には農産物の比重は二〇%ラインをも割り込んでしまった。同一四年に一時的に急増するものの、その後の戦火の拡大とともに農業衰退が続くものと推測されるが、昭和一五年以降、戦時の産業部門別生産額を示す数字は不詳である。全国に比較して農産物比率を高位におきながら、耕作条件に恵まれない低生産性農業の上に、繊維・食品工業など消費財生産部門を拡大してきた県工業が、外部資本によって近代化を図らなければならなかったという矛盾は、戦後の工場誘致に依存した地域開発の問題として継承されることになる。
 なお、この間の農業生産の動向を見ておくと(表産4-9)。昭和元年~一〇年の間には、粗生産額をかなり減少させながら養蚕が凋落し、それに代わって価格暴落が比較的軽微であった麦・野菜・果樹・畜産が拡大していった。昭和一五年には、米の比重が著しく低下し養蚕も停滞的であったのに対し、果樹と麦が一層拡大し、工芸作物・いも類・野菜なども微増した。戦時中は、統制により農産物価格は比較的高値を保ったが、耕地面積の漸減と労働力不足のため、生産は減少した。果樹は半減し、米・麦も漸減したのに対し、甘藷の生産高が著しく増加した。

 産業の地域別分布

 全県的には鉱工業県に変貌を遂げたといえるが、郡市別に検討を加えると地域によりかなり相違がある。ここで、昭和一〇年における生産額の郡市別構成を見ておこう。
 まず、県全体の生産総額に占める各郡市の比重をみると、新居郡の断然優位が注目される。かつては一寒村にすぎなかったこの地方が、金属機械工業及び化学工業の急成長によって、いまや県内第一の生産地に急浮上してきたのである。第二位は繊維工業が盛んな今治市、第三位は別子銅山と製紙の宇摩郡、第四位綿織物と製糸の西宇和郡の順となっている。この段階では、まだ今治市を除けば松山市をはじめ都市の比重が低いのが特徴的である。生産力がほぼ県下一帯に分散し、極端な地域集中はみられないが、産業構造の変化に対応した県内地域構造変動の方向は、はっきりと現れている。これ以後、戦時統制下で農業及び軽工業が急激に後退していくにつれて、東予重化学工業地域への生産力の重心移動が一層促進される。
 次に、各郡市ごとの産業部門別構成をみると、今治市・松山市・宇和島市及び新居郡・西宇和郡における工業比率の高さが際立っている。従来の繊維工業地域のうえに、都市への雑工業の集中が進みつつ、同時に新しい重化学工業地域が形成されたことを示している。逆に、農林水産業部門が決定的に優位にあるのは、温泉郡・周桑郡・越智郡・北宇和郡・伊予郡といったところである。産業構成上、特異なのは水産業が過半を占める南宇和郡と鉱業の宇摩郡である。

表産4-8 産業部門別生産額構成

表産4-8 産業部門別生産額構成


表産4-9 農業生産額構成比

表産4-9 農業生産額構成比


表産4-10 生産額の郡市別構成(昭和10年)

表産4-10 生産額の郡市別構成(昭和10年)