データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 戦時体制の強化と重化学工業化

 日本経済の軍事経済化

 昭和六年(一九三一)九月に勃発した満州事変に伴う、莫大な軍事支出を糸口とする財政膨張と、同年末の金輸出再禁止を転機とする輸出の増進とが相まって、わが国産業界は諸外国に先がけて昭和七年末ごろから活況を取り戻し始めた。さらに、同八年国際連盟脱退によって、わが国が本格的な軍備拡張にのり出すに及んで、日本経済は軍事経済へと突入しつつ急激に発展していった。とくに重化学工業は直接・間接に軍需の恩恵を受けて急速に拡大した。昭和六年から一一年の五年間に、鉄鋼の生産高は四・三倍、一般機械は四・二倍、電気機械三・一倍、輸送機械は三・四倍と急増した。昭和一二年には、工業生産額の中で鉄鋼・機械・化学など重化学工業製品の割合が五四・八%を占めるようになった(有沢広已監修『昭和経済史』)。いまや、わが国の産業構造は、軽工業段階から重化学工業段階へと大きく転換したといえよう。
 昭和一二年(一九三七)日中戦争が始まり戦線が拡大してゆくにつれて、重化学工業部門の一層の生産力拡充が喫緊の課題となり、翌一三年公布の国家総動員法の下で経済の国家統制を強めながら、昭和一六年(一九四一)一二月太平洋戦争に突入する。戦時中は軍需生産にのみ工業力は集中され、不急の部門は整理・転換された。同一八年以後、企業整備により中小企業が大幅に転廃業を強いられた。繊維産業をはじめ軽工業が急速に衰退する一方で、軍事工業・軍事企業が飛躍的に発展し、軽工業中心から重化学工業中心の産業構造へ決定的に移行した。戦争末期には、原料不足・労働能率の減退・生産設備の老朽化・輸送能力の破壊などにより、急速に生産力を低下させ、敗戦を迎えた。