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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 慢性的不況下の日本経済

 戦後恐慌から昭和恐慌へ

 第一次大戦中、空前の活況を呈した日本経済は、戦争の終丁とともに一時沈滞するが、大正八年(一九一九)にはアメリカ・中国市場の拡大と政府の積極政策を背景に異常な空景気が起こった。しかし、早くも翌九年三月の株価大暴落を発端として、急激な反動恐慌に見舞われることとなった。米・生糸・綿糸など主要商品価格が一斉に崩落し、製造業者・商店会社の破産や銀行取付けが続出した。政府のインフレーション的な救済融資によって、大正一〇年下期に中間景気を現出するが、それは戦時中の膨張した経済の惰性にすぎず短期の投機的なものに終わった。同一一年末には京都・大阪・高知など全国各地で銀行取付けが起こり、破綻した銀行は二九行に及んだ。この銀行恐慌が一応鎮静した大正一二年(一九二三)九月、関東地方を襲った大震災により日本経済は再び大打撃を受け、いわゆる震災恐慌を勃発させた。大規模な救済融資を中心とする財政膨張により一時的に復興景気を現出するが、産業と銀行との不健全な関係の累積は、昭和二年(一九二七)震災手形の処理を契機に、ついに未曽有の金融恐慌となって爆発した。銀行の取付け・休業が全国各地に波及するに至って、政府は三週間のモラトリアム(支払猶予)を発令するなどの積極的救済策を講じた。そして金融恐慌の打撃から立ち直りつつあった日本経済は、昭和四年(一九二九)の世界大恐慌の渦中に巻きこまれ、金解禁・財政緊縮・ロンドン軍縮と相まって、ますます深刻な恐慌状態に落ち込んでいった。産業各部門とも極度に沈滞し、会社の減資・解散や銀行の破綻・休業が続出した。この慢性的不況下で弱小企業は整理され企業集中が進展し、財閥を頂点とする独占資本の支配が強化された。ほとんどすべての基礎工業部門で、これら巨大企業によるカルテルが組織されるとともに産業合理化が推進された。
 不況の深化と合理化の強行は労働者にしわ寄せされ、賃金の大幅切り下げ、大量の人員整理・労働強化が断行された。また、昭和恐慌はとくに農業恐慌として惨状を極めた。米・繭をはじめ、あらゆる農産物価格が大暴落して、農家経営は著しく困難となり、そのうえ都市で失業し、帰村した多数の潜在失業者を抱え込んだ農村は困窮の極に達した。労働者の犠牲と農民の疲幣が深刻の度を増すにつれて、全国各地で労働争議・小作争議が頻発し、労働運動・農民運動が活発化した。このような経済的・社会的危機からの脱出は軍事インフレに求められ、昭和六年九月満州事変・上海事変を経て、やがて太平洋戦争へと突入してゆくこととなる。