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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 第一次大戦期の工場

 工場規模の拡大

 明治末から大正前期の職工一〇人以上使用工場の数は、明治四一年三〇三から大正三年二八二、同五年二五七と漸減し、大正八年末に四一九へ急増する。そのうちの原動機使用工場は、明治四一年七〇から大正三年一六七、同五年一七七、同八年三二二と着実に増加している。職工労働者数も、明治四一年一万〇、三〇二人から大正三年一万六、九八一人、同五年二万〇、一八二人、同八年二万七、一一五人と二・六倍に増えた。この動きはとりもなおさず工場が整理再編されながら、工場制生産が本格的に発展し、それに伴って工場規模が拡大してきたことを示している。一工場当たり労働者数は、明治四一年の三四人から大正八年六五人へと倍増した。大正八年の職工一〇人以上使用工場の生産物価額の合計は一億一、九〇一万円で、これは当年の工産物生産総額の七五・四%に相当する。工業生産の主流が工場制生産に移ったことを明確に語っている。
 工場数の工業部門別構成をみると、繊維工業が圧倒的に多く工場総数の三分の二以上を占めていた。全国的には当年の紡織工場の比重が四〇%ほどに下がっていたのに比べ産業構造の相違は明らかである。繊維工業のうちでは織物業が最も多く、とくに今治町及び越智郡の綿ネル、白木綿と北宇和郡及び西宇和郡の縞木綿では機業戸数のうち二割ほどが工場形態をとり、そのほとんどが動力使用工場であった。また織機台数の三分の二は力織機となっていた。これに対し、絣木綿を中心とする松山市周辺では、なお織元―賃織という問屋制的家内工業が主要な生産形態であり、松山市・温泉郡・伊予郡の二万一、三七一戸の零細な製造家の九九%は手織機を使っていた。次いで製糸業では原動力使用工場が漸増傾向にあり、とくに明治末期から工場新設が盛んで、第一次大戦期には大規模工場設立の気運が高まり、愛媛製糸・愛媛蚕業・明治製糸・伊予製糸などの大工場が新設された。大正八年の製糸工場数は一二六で、その九〇%が器械製糸ないし原動力使用工場である。地域的には北宇和郡と喜多郡に工場の六四%が集中していた。他方、座繰製糸戸数は明治三三年三、〇四〇戸をピークにして漸減し、大正八年にはわずか三五四戸に減った。
 化学工業では、和紙が製造戸数を大正元年四、四二九戸から大正八年二、七五三戸へと急減させる一方で、宇摩郡の製紙業でビーター工場が拡充され、次いで乾燥機・抄紙機などが次々に設けられ工場化・機械化が進んだ。陶磁器は製造戸数の半分以上が一〇人以上使用工場であった。瓦は零細で製造戸数五〇四戸のうち一〇人以上工場は皆無であった。化学肥料はチリやイギリスからの輸入が途絶えたため多くの製造工場が県内各地に設立された。これら諸業種を合わせて化学工業は工場総数の一五%を占めていた。飲食品工業は一〇人以下の小規模のものが圧倒的に多いが、その一部の酒・醤油醸造所、缶詰、精米所が工場として操業するようになった。雑工業は在来工業が大半を占め、印刷業など都市型工業が松山市周辺に徐々に増えつつあった。上記のように、愛媛県での工場数の増加は重化学工業などが新たに展開されたためではなく、主に在来産業において製造家の淘汰集中を伴いながら工場化・動力化・大規模化を進めていったものである。

 動力構成の変化

 織物業に象徴的に見られるように、明治三〇年から四〇年代に展開した工場制手工業は、明治末から大正期に動力機採用を進めた。その結果、動力機使用工場の比率が、明治三九年の二三%から大正八年七七%に急上昇したことはすでに指摘した。原動機の増加にっれ、原動機種類も多様化してきた(表産3-18)。これまで発動機馬力数の大半を占めていた蒸気機関はしだいに地位が低下し、大正八年には五〇%を割り込んだ。蒸気力内部ではピストンに代わり、蒸気タービンが増えつつある。小規模工場の原動機は、日本型水車から蒸気機関へ、さらに大正期に入って石油発動機や電動機が利用されるようになる。大規模工場や化学工場、機械工場でも石炭価格の騰貴を機に電動機が導入され始める。この時期以降、エネルギー源がしだいに石炭から電力へ移行するにつれて、発電事業の発展が県内工業に大きな影響をもつようになる。
 発動機の種類を問わず馬力数の工業部門別構成をみると、繊維工業が七五%を占め、そのうち最も早く近代化した紡績業は五工場(県内資本二、県外資本三)で、県内総馬力数の三分の一を占める大規模操業を行っていた。好況下の増産に応じて電動機馬力数を一挙に増やしている。綿織業は手織機から力織機に移るものが多く、急速に機関数・馬力数を増やした。逆に製糸業は相対的に低下し六%弱の馬力を占めるにすぎない。化学工業は化学肥料工場が大きく貢献して一六%のシェアをもつまでに成長してきた。

 労働者構成

 大正八年末に県下の従業者一〇人以上工場に雇用される職工・労働者は約二万七、〇〇〇人余で、その約四分の三は女子であった。女子労働者の比重が圧倒的に高いことが、この期の工場労働者の大きな特徴であり、しかも若年労働者が多く、女子労働者の一四%は一五歳未満、五二%が一五歳~二〇歳未満であった。最も多くの労働者が従事する製糸業では九五%が女子で、その七〇%が二〇歳未満であった。
 産業部門別では、繊維工業が労働者数の八四%を占め、文字通り愛媛県工業は繊維工業に特化していた。第二位の化学工業や第三位の飲食物工業とは格段の差がある。個別工業についてみると、製糸業が全体の三三%の労働者を雇用し、平均労働者数も七一・八人と比較的工場規模は大きかった。次いで織物業が三二%を占め、平均労働者数は五六・二人で、そのうち綿ネルエ場は今治町に集中が進み規模が拡大しつつあった。第三位の紡績業は、女工の争奪戦を演じながら一七%の労働者を確保し、平均規模は八〇〇人近かった。繊維産業の外は、製紙業五%、窯業三%と極端に少なく、平均労働者数も四〇人以下である。

 工場生産額の構成

 一〇人以上使用工場の生産額または所得賃額によって工業部門内構成をみると、繊維工業が他のどの指標でみるよりも構成比が高く、全生産額の八八%を占めている(表産3-19)。工場生産額でみる限り、大正前期の愛媛県工業は繊維工業一色に塗りつぶされていたといってもよいほどである。化学工業や飲食品工業は工場が相当数あるものの、生産性が低く生産額シェアはそれぞれ六%と四%にすぎない。
 繊維工業では、工場生産額が全繊維生産額の九一%に達しており、なかでも紡績業は一〇〇%、製糸業も九八%が工場で生産され、家内工業は取るに足らない存在となっている。織物業は最大(三七%)の生産シェアを占めるが、絣木綿などで家内工業がかなり残っており、工場生産額比率はやや低く八一%にとどまっている。機械器具工業は生産シェアは一%と低いが、新しく生まれた近代工業部門であり工場生産比率は比較的高い。他方、飲食物工業・雑工業・化学工業では工場生産比率はまだ低く、なお生産の大半は農家副業ないし家内工業として行われていた。このように、輸出向生産が急拡大した繊維工業及び、新興の機械工業や化学肥料などの生産財部門では、すでに資本制的工場生産が支配的な生産形態として定着する一方で、国内市場及び地元市場に結びついた直接的消費財部門は、前資本制的小経営生産によって担われるという二元的な生産構造が出来上がりつつあった。
 さて、このような資本制生産の発展過程において、在来の地域産業に深く結びついていた農家兼業的な小生産者は、依然多くの数を残しながらも著しく減少した。その結果寄生地主制のもとでの厳しい生産、生活を維持する上で肝要な収入の途を奪われた零細農家の多くは、農業生産の内部では商品作物の比重を高めながら、さらに子女を紡績工場や地場の織物工場・製糸工場の職工として就業させたり、あるいは基幹的農業者自身が離農ないし兼業という形で、新しく発展してきた近代的工場の賃金労働者になるなどの変転を余儀なくされた。愛媛の農業は耕地条件に恵まれず規模零細であるだけに低廉な余剰労働力が豊富に存在し、近代工業とりわけ繊維工業にとっては、家計補充的・出稼的な低廉女子労働力の供給が急激な発展を支えた最大の要因であった。かくして、この期に愛媛県では繊維産業が異常に突出した偏倚的な産業構造が形成されたのである。

表産3-17 工場数・原動力馬力数・職工数の工場部門別構成(大正8年)

表産3-17 工場数・原動力馬力数・職工数の工場部門別構成(大正8年)


表産3-18 原動機種類別台数・馬力数

表産3-18 原動機種類別台数・馬力数


表産3-19 工場部門別の工場生産額と全生産額に対する比率(大正8年)

表産3-19 工場部門別の工場生産額と全生産額に対する比率(大正8年)