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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 諸会社の県内地域別分布

 中予地方

 大正八年において諸会社が県内各地にどのように分布しているかをみると、今日と著しく異なる地域配置になっていた。当時から県内生産活動の中心は松山市であり、当市には五十二銀行・伊予農業銀行・愛媛県農工銀行・松山商業銀行などの銀行業が一〇行も営業する地方金融の中心地となっていた。市の中心部は米穀取引所をはじめ信託業・不動産業・各種販売業などの商業機関が店舗をつらね、周辺部では清酒などの食料品製造・織物(伊予絣)・印刷・肥料製造などの中小工場が多数操業していた。松山の付属港として高浜・三津浜港をもち、大阪・宿毛・広島方面に定期航路を開き、陸には伊予鉄道電気(株)・松山電気軌道(株)や愛媛自動車(株)などの交通運輸会社が、四方に路線を設け県下中部の貨物を出入集散していた。また、この時期には鉄道会社が電気事業を併業していた。しかし、当時の資本投資が松山市に極端に集中していたわけではなく、当市は県内銀行資本金の三八%、諸会社資本金の二四%を占めていたにすぎない。
 松山市に隣接する温泉郡(現在はその大部分の区域が松山市に編入されている)には、三津浜煉瓦(株)など新しい雑工業とともに織物工業が立地し、松山市とほぼ類似の業種構成となっていた。三津港に関連して水陸運業や倉庫業がみられるのも一つの特色である。小規模ながら造船所も新設されている。

 南予地方

 今日と比べ、諸会社では北宇和郡、銀行業では喜多郡のウエイトの高さが注目される。北宇和郡(現在の宇和島市を含む)には、会社数一〇七社、資本金七六〇万円という県内で最も多くの産業資本が集まっていた。南予地方の物資集散地として宇和島運輸(株)をはじめ海運業が盛んであり、繊維製品や食料品の輸送を担っていた。繊維類は第一次世界大戦による中国大陸及び米国への輸出が好況で、綿織物・生糸工場が多数立地し、缶詰・醸造業など各種食料品工場や製紙工場とともに軽工業地域を形成していた。これら地域へは宇和水電(株)から電燈・電力が供給されていた。中小の関連商社も店を並べ、一つの独立した経済圏域としての当時の隆盛ぶりがしのばれる。
 紡績業は西宇和郡の方が盛んであり、川之石や八幡浜では先進的な工場が操業し、経済力も豊かで市街はにぎわい商業も栄えていた。このことは当地に多くの銀行が営業していることからも知られる。しかし、当初は県内資本で開業された紡績会社のほとんどが、ほぼこの時期までに県外大企業に買収されその分工場となっているので、県内会社状態を表す会社統計には直接にはその状態は顕れてこない。ただ、その盛況は中小の関連繊維会社や運輸会社が多数営業していることからうかがえる。他に漁業物品販売業が数社にみられ当地の産業構造の特徴の一端を示している。
 東宇和郡も宇和町を中心に栄えたが、卯之町銀行と宇和商業銀行を除けば、資本金一〇万円以下の蚕種・生糸の製造販売会社と醸造会社だけである。他は小規模の肥料会社や製紙会社が数社みられる程度である。
 喜多郡は、大洲銀行・大洲商業銀行をはじめ銀行業六行(資本金三三七万円)を有していた。内陸部から臨海部まで郡内各地にあって、それぞれの産業と結びついて発達していたようである。製蝋業をはじめ在来産業でのこれまでの蓄積による経済基盤が形成されていた。しかし、諸会社については企業数は多いものの愛媛鉄道(株)以外に規模の大きな会社は見られない。当時の内陸工業の中心であった製糸業も会社形態による工場制器械製糸が普及し、県内製糸工場の多くが当地域(肱川沿岸)に立地していたにもかかわらず、河野製糸(払込資本金一二万五、〇〇〇円)が最大で、他は小零細企業であった。その外の在来工業では、小規模な和紙製造販売業は見られるが、製蝋関係の会社は一切掲記されていない。

 東予地方

 越智郡今治町(現今治市)は県下第二の都市であり、県内最大の綿業地域であった。今治織物(株)、興業社(株)、阿部(株)など綿織物業(白木綿)と丸今綿布(株)・愛媛綿布(株)など綿ネル製造・起毛業が多数立地し、これら工場へは愛媛水力電気(加茂発電所)から電力が供給されていた。白木綿は大阪方面へ、綿ネルは販路が広く東京・大阪をはじめ海外にも輸出されていたが、繊維関連商事会社は少なく、むしろ商社は海産物商の方が多かった。綿織物生産の原料及び製品の流通は製造業者自身が担うか、あるいは県外大手商社にかなり依存していたものと思われる。その他、商業機関には沿岸航路の貨物を取り扱う海送業などもみられ、金融機関では今治商業銀行などがあった。また、数少ない県内重工業の一翼を担う波止浜船渠(明治三五年五月創立)では、まだ資本金一万六、〇〇〇円の小会社ながら、折からの造船ブームに乗って本県初の五〇〇㌧以上級汽船の建造が行われた。
 新居郡では、中規模の綿織物業が数社と製塩業、和紙製造業かおる程度で、会社数・資本金額とも少ない。もちろん別子銅山がこの地域の経済活動の主要部分を占めていたが、別子鉱業所の株式会社化は遅く(昭和二年)、しかも金融面を支配していたのは住友銀行新居浜支店であり、その他、関連部門も直営で行われていたため、それらの状況は県内会社統計には全く表れていない。別子銅山及び住友系関連事業については、第二編工業、を参照されたい。なお、上記でとりあげなかった周桑郡・宇摩郡・上浮穴郡・伊予郡・南宇和郡においては、会社統計から見る限りまだ資本制的企業活動は総じて不活発であった。

表産3-12 会社及び銀行・郡市別(大正8年末)

表産3-12 会社及び銀行・郡市別(大正8年末)