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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 農業の発展と停滞

 稲作の発展

 明治三〇年代は農産物価格が工産物価格に比べ相対的に高位にあり、三〇年代を通じて五〇〇石前後の米の輸入が行われていた。こうした状況の下で、農業生産の分野では肥料・農機具の改革に併行して、品種改良や栽培技術の改善が進み、農業生産力は著しく向上した。わが国の近代農業は明治後半期にほぼその態様を整えたとみてよい。
 愛媛県でも明治二〇年代末に組織を確立した県農会(系統農会)及び県・町村の手によって、明治三〇年代から四〇年代の前半に、農業生産とくに米麦作の技術改善とその普及が推進された。米麦種子の塩水選・短冊苗代・正条植・人造肥料・牛馬耕による深耕などの新技術が輩出し、これと短床犂・廻転除草器・足踏廻転脱穀機などの新しい農機具の出現・普及が相まって、わずか一〇年ほどの間に農業の様相が一変した。当然、生産性は上昇し、この期に米麦作の収量は急速に伸びた。とくに三〇年代後半の五年間で四割近い増収をとげ、県の稲作の平均反収は、(明治初期の一石前後から)明治四四年に初めて二石の線を突破した。この稲作の躍進は大正期にも引き継がれ、大正八年には平均反収は二石四斗台にまで上昇した。反収の目覚ましい増進によって、稲作の作付段別がほとんど増加していないにもかかわらず、米の収穫高は著しく増加した。大正二年に収穫高は一〇〇万石を超え、さらに大正八年は明治二九年の二倍近くまで増大した。大正期に本県の稲作は円熟の時期を迎えたといえよう。このように、最重要作目である米からみる限り、農業は依然として発展しつつあったと考えることができる。

 農業の停滞

 しかし、米以外の耕作農業に関しては、日露戦争を境にして、作付段別の増加傾向が停頓し、反当たり収量の増加も頭打ちし、農産物価格の騰勢が鈍り、農作物の輸出が激減して輸入が激増するなど農村経済の凋落が表面化しつつあった。ところが、第一次世界大戦による未曾有の繁栄によって、農産物価格とくに米と繭の価格が暴騰し、農村経済は一時的に異常な好況に恵まれた。いうまでもなく、大戦の終結とともに、大正九年以降農村は再び慢性的な沈滞状態に逆戻りした。
 商工業の発展に対する農業の相対的地位の低下は農民の脱農化現象にみることができる。たとえば、愛媛県の農家戸数は明治二一年の一三万七、〇〇〇戸から、大正八年一三万一、〇〇〇戸へと若干の減少にとどまっているが、総戸数に占める比率は、明治二一年の七四%から、同三九年七一%となり、大正八年には六四%とこの三〇年間に一〇ポイントも落ち込んでしまった。そのうちの専業農家がしだいに減少していくにつれて、兼業家率は明治二一年二八%、同三九年三〇%、大正八年三九%と高まった。さらにこれを、自作農・小作農・自作兼小作農別についてみよう。明治二一年には『愛媛県農事概要』(明治二四年版)によれば、自作農二七%、自小作四一%、小作一七%、不耕地主一五%であった。その後、全体として農家が減少していくなかで、とくに自作農家の減少数が大きく、明治四二年の五万戸から大正八年四万六、〇〇〇戸へと一割弱も減少した。そのため大正初期には自作率がやや低下し、同時に小作率はわずかに上昇する傾向にあった。耕地がほとんど増加することかく、農家数がしだいに減少し、しかも兼業家率及び小作農比率が高まっていることは、農業の衰退傾向を示しているとみてよいであろう。

 商品作物への転換

 商工業の発達により、農家は消費生活のみならず生産活動さえ、ますます貨幣経済のなかに組み込まれることとなった。零細農家は一方では農業労働力を流出させ、他方で高率な公租・公課と小作料に圧迫せられながら経営を維持するためには、商品農産物の生産拡大によって農家所得の向上を目ざさなければならなかった。商品生産としての農業の発展に伴って、作物構成に激しい変化が生じた(表産3-5)。商品作物として耕種では米が増加したのに対し、大麦・裸麦・粟・稗その他、雑穀類及び甘藷などの自家用食用農産物は停滞ないし減少しつつあり、また菜種・実綿・麻類・葉藍・甘蔗・櫨など農村家内工業用の原料作物が急激に衰えた。工芸作物のうち作付段別、収穫高を増やしたのは三椏ぐらいであった。農業生産額の部門別構成比は、明治二一年から大正五年の間に、米類がやや上昇したのに対し、麦類と雑穀・豆類・いも類は三分の二ほどにシェアを下げた。なかでも工芸作物は一七%から三%へと壊滅的な衰退ぶりを示した(図産3-1)。
 これに代わって驚異的な勢いで増大したのが養蚕と桑の栽培である。例えば、桑園面積は、明治二一年にはわずか二四八町歩であったが、二〇年代後半から急速に増加し、一〇年後の三一年には二、〇九九町歩に増えた。さらに四三年には五、〇〇〇町歩を超え、大正五年六、〇三一町歩、大正八年には八、三六四町歩に達した。その後も加速的に増進し大正一四年には遂に一万町歩を突破し、昭和五年まで前進を続けた。繭産額も明治二一年一、六六九石から大正八年一五万七、三九八石へと九四倍強に増大した。同じく養蚕戸数は七、二〇三戸から、大正八年には春蚕三万四、四四四戸、夏蚕六、四四五戸、秋蚕三万五、三六三戸に激増した。生産額シェアは三〇年ほどの間に全体の四分の一ほどに文字通り急成長した。養蚕の外に有利な商品作物として着目され増勢をたどっ
ているものに果実がある。果実の生産は明治末期から急激な伸びがみられ、とくに西宇和郡で柑橘類、温泉郡で梨その他落葉果樹が著しく進展した。構成比も工芸作物に並びその後の成長部門として地歩を固めた。

表産3-3 米作付段別と収穫高・反収

表産3-3 米作付段別と収穫高・反収


表産3-4 農家構成の推移

表産3-4 農家構成の推移


表産3-5 部門別農業生産額

表産3-5 部門別農業生産額


図産3-1 部門別農業生産額の構成

図産3-1 部門別農業生産額の構成


表産3-6 大正8年の職業別戸数

表産3-6 大正8年の職業別戸数