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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第二節 市場②


 三津魚市場

 松山の名物名所の一つに謡われた「三津の朝市」は、川之江・今治・吉田・宇和島の魚市場と共に、成立の古い魚市場である。三津は、道後平野とその背後山地を経済圏に収めた海陸交通の要地で、しかも松山藩の船奉行所・町奉行所も置かれ、城下町松山の外港としても発展した。
 下松屋善左衛門は、元和二年(一六一六)三津で魚介類の仲買業を始めたが、これを三津魚市の発祥としている。ここに初めて生魚問屋が設けられたのは寛文二年(一六六二)である。『松山叢談』には、問屋設立の事情を古老の物語りとして、「寛文の始め頃迄は、三津魚市は商売誠に盛んにて、問屋と言う者もなく、我がちに漁者より買い求める故、先後を争い棒を以て打ち合い、庖丁を以て疵を付けるなどして、日々騒がしかりし、又三津水主の者ども値段の高下を論じ、彼には安く売り我には価高しなどと罵りて、漁人の悩み大方ならず」と述べているように、当時は、魚価をめぐって争いが絶えなかった。従ってこれを正常化させるため、三津町大年寄天野作左衛門ら三人を生魚問屋に任命した。
 さて、元禄六年(一六九三)に、改めて家老水野甚左衛門は、下松屋九兵衛(善左衛門の子)ら三人を生魚問屋に命じた。同九年には下松屋次郎左衛門(善左衛門の弟)ら五人、同一四年(一七〇一)に大坂屋九郎兵衛ら七人、さらに翌年に怒和屋清兵衛ら三人が加えられ、これを最後に生魚問屋は一八株として固定化することになった。すなわち特権商人であることを示す冥加銀(認定料)の上納は、享保四年(一七一八)が最初で、正銀壱貫匁が上納され、同一一年に二貫文、一三年には五〇貫文が納入されている。この冥加銀上納を保証として、藩の保護の下に、排他独占的な商業活動が行なわれることになった。元文二年(一七三七)に、問屋(生魚及び諸問屋)から問屋吟味役を選んでいるが、問屋仲間の発展を示すと同時に、藩庁の経済的統制を意図するものである。
 生魚問屋の株仲間とは言うものの、相互の結び付きは弱く、最初のうちは、セリ売りの場所も、問屋の門前であった。やがて各問屋とも、場所を洲先町(須先町)北の海岸に移し、毎朝ここに出張し、各問屋ことに円陣を組んでセリ売りを実施した。文化~文政期(一八〇四~一八二九)を経て、都市生活は一段と向上し、生魚取扱量も増大した。しかし、魚市は個々別々に行なわれるから、商人の中には、問屋を次々と換え、売掛金を踏み倒す者が現れた。このため、天保四年(一八三三)には魚市の運営は窮地に陥った。藩庁側もこれを放置することができず、大改革を断行した。これはセリ売りと集金を合同して行ない、この事務所として詰会所を設置することであった。商人側は、商業活動を束縛するものであるとして、不買同盟を結んで争うたが、結局藩側の説得で落着した。この改革で三津魚市場は名実共に確立することになった。天保八年(一八三七)には、三津町のすべての問屋仲間に対して「御定書」が制定された。これは「来り馴れ式浦」と呼ばれ、三津湊入港のさい番所で、荷主の親子・兄弟・祖父孫・伯父孫・大伯父甥孫の順に、馴染の問屋を荷受主と定め、これに該当しない者は、全問屋集合の上クジ引きで問屋を決定する制度であった。この制度で、漁民と問屋との関係は親密さを増した。
 幕府は天保の改革で、物価引き下げのため株仲間の解散を命じたが、松山藩では解散には踏み切らず、天保一三年(一八四二)生魚問屋に五項目の町触を出した。このうち物価引き下げにかかわるものは ①生魚を旅商人及び在郷商人に売らない ②生魚値段を誰にでも分かるよう表示する ③市場内の転売はしないの以上の三項目である。ところが、この政策は市場への入荷量を減少させる結果となって、かえって生魚値段は上昇し、問屋側の要望によって元に復された。嘉永元年(一八四八)ころから、売掛金の不払増加が目立ち、得意先をめぐる問屋相互の対立などもあって、衰微傾向をたどりながら明治維新を迎えることになった。
 明治三年松山藩は株仲間の廃止を宣言した。これによって、生魚問屋仲間に支えられた三津魚市は権力的支柱を失うことになった。この廃止令を受け、三津町方の役人らは、同じ魚市場で新規魚市開設の願書を藩庁に提出した。いったんは受理されたものの、結局慣行が重視され却下された。生魚問屋側では、新規営業者を防止する目的で、明治九年官有地である魚市場拝借願を提出し受理され、翌年から魚市税一〇円を納入した。同一二年の県議会に、魚市税を一〇〇分の二とする原案が出され、問屋側はこれで試算すると、明治一〇年の税額の一〇〇倍以上にもなり、とても魚市を続けることはできないとして請願するが、結局原案通り決定された。問屋側はやむをえず、市場口銭の値上げでこれを補てんしようとした。このため漁民・商人は一斉に不平を唱え、問屋抜きの直接売買で争った。さらに追い打ちをかけるように、吉田村(松山市)の高本光重らは、従来の三津魚市場に近接した民家を借り、魚市場を設立した。これが後の魚市愛魚社である。問屋側は市場口銭を軽減する一方、この際、各生魚問屋を解散して経営を一本化する以外には生き残る道はないとして、反対者を除く一五人の同意を得て、会社組織に切り換えることにした。社名を「魚市商会社」とし、本店を魚市場に近い三津栄町(当時は正式には和気郡栄町)六七番戸に置き、株式割当方法は、各問屋ごと、明治一三年まで過去五か年間の平均売上高を基準に割り当て、一株を二〇〇円、総株数を六四株、資本金を一万二、八〇〇円と定め、同年三月愛媛県令(知事)岩村高俊に提出し、認可された。
 会社組織に切り換えたものの、問屋以外からの株主もなく、ざん新的な会社運営は期待できず、従って会社設立以来一回の利益配当さえなかった。明治一六年部外から二神清八が株を譲り受け経営に参画することになった。彼の方針は部外から広く株主を募集すること、このため二〇〇円株を五〇円に削減して、総株数を二六〇株とすること、この内一九五株を甲号株とし旧株主に、残り六五株を乙号株として公募すること、なお配当については乙号株を優遇するとする案をまとめ、役員・株主を説得して実施に踏み切った。明治二〇年には会社設立以来最初の配当金も支払われた。このように魚市場運営が好転したことによって、一〇年にわたって対立した愛魚社との合併の気運も高まり、これに六〇株を与え、一株当たり一五円を三か年賦で払い込むことで双方合意した。これが丙号株で、この結果総株数は三二〇株、資本金は一万六、〇〇〇円になった。
 当時せり市を行っていた広場は、露天であるが、地面には敷石さえなかった。従って魚類の血汁などの汚物で極めて不潔であった。明治二一年には直径一八間(約三六m)、面積二五四坪(約八三八㎡)の敷石の広場を築造し、二年後の二三年には円形に回廊状(中央部は明かりをとるため屋根なし)屋根が造られ、魚市場としての体裁を整えることになった。明治二六年新しく実施された商法による会社規定に従って甲・乙・丙株を同一の権利として一株三五円、三二〇株、資本金一万一、二〇〇円に改正した。明治二六年当時喜多郡青島のたいしぼり網が興居島・和気方面に出漁し、新刈屋のタイ一本釣り漁民に大きな障害となっていたが、この青島漁師から魚を買い取る魚市場をにくみ、三津魚市場の近くに、新浜村石崎栄次郎名儀の須先魚市会社を設立した。仲買人側はこの機会に、町内在住者への直接売り(菜買市)の廃止を求め、いれられない場合は、新魚市を利用するとして迫ったが、古くからの習慣でこれには応じられたいとして、仲買人の歩戻金を増額することを条件に合意に達した。この紛争が契機になって、附属商人(市場直属の仲買人)仲間規約も制定され、仲買人側との結び付きは一層強まり、取扱量は次第に増加することになった。この三津魚市の発展に伴って、対立して争った須先魚市会社も明治三八年ころ営業不振で消滅した。
 大正二年に資本金を五万円に、さらに同一一年には一五万円に増額されたが、昭和三年三津浜町に譲渡され、同一五年に三津浜の合併で松山市営として運営されることになった。戦時中は鮮魚統制会社に再編成され、二五年三月まで鮮魚統制が続けられた。昭和二八年県は魚市場条例、同施行規則を公布したが、松山市においてもこれを受けて魚市場設置条例、手数料・使用料条例を制定した。この前年の二七年には松山市議会は三津魚市場再開を決議した。戦災は免れたものの施設が老朽化しているため、二八~二九年にかけ四、三〇〇万円を投入して卸売市場(八〇〇㎡)を建設して翌三〇年から営業を始めた。
 昭和四六年「卸売市場法」第五五条の規定によって四八年三月一日付けで、松山市水産物地方卸売市場として許可された。松山市の都市化の拡大、人口増大に伴って流通機構の整備充実が望まれることになり、中央卸売市場に改組発展することになった。

 八幡浜市水産物地方卸売市場

 愛媛県における取扱高の最大の魚市場である。第三種漁港である八幡浜は、リアス式入江の湾頭に発達した良港で、機船底びき網漁業の基地として発展した典型的な産地型の水産物市場である。
 八幡浜の魚市場の発祥は、明治初年浜之町に設けられた魚市場であるとされている。文久二年(一八六二)の八幡浜浦の絵図には、浜之町に魚問屋が描かれているので、従って浜之町の魚市場の起源は、この魚問屋に結びつくものであろう。明治一七年の『愛媛県統計書』によると、同一五年一二月に設立された魚市会社が記されている。これは『八幡浜市誌』にある表12-9のどれにあたるものかよくわからない。明治初年以降、魚市場の経営は極めて不安定で、設立と廃業が頻繁に繰り返された。ところが、明治三五年八幡浜の対岸の向灘が打瀬網の黄金時代を迎え、大正一二年には機船底びき網漁業(二そうびき)が現れ、以後盛大化するのに伴って、水揚量は飛躍的に増加した。またこれに対応して水産加工業も発達し、従って魚市場経営も次第に安定化することになった。大正三年には組合(後の八幡浜向灘漁業組合連合会…略称八向漁連)経営の魚市場(後の八向漁連魚類共同販売所)が設置され、さらに大正九年、八幡浜魚市場株式会社による魚市場が開設された。大正末~昭和初期の不況時代、組合経営の魚市場は経営不振に陥ったが持ち直し、両市場は互いに取扱高を競った。昭和九年本県の魚市場の取扱高調べによると、八幡浜(当時は町)は松山市・今治市・宇和島市を抜いて県下最高の取扱高を示している。昭和一三年両魚市場は合併して「水産物斡旋所」と改称、現在の魚市場の位置で営業を始めた。戦争に突入した昭和一六年水産物統制法が施行され、一八年に魚市場は水産物配給統制会社に統合され、配給制度が実施され、魚市場はその機能を失うことになった。
 昭和二一年から、同二五年の水産物統制令の全面解除されるまで、流通形態は統制された変則的なものであったが、魚市場の機能も順次回復した。同二四年までには八幡浜漁協、機船底びき網漁協(後の日本西海漁協)、青木(後の太陽産業)、坂田(後に解散)、玉岡の五魚市場が営業を始めた(市場の敷地・施設は八幡浜市所有)。同市は同二七年に魚市場の拡張と整備を実施した。同四六年「卸売市場法」の施行によって、四八年に地方卸売市場として認可(知事)され、従って四つの地方卸売市場が併置されることになった。同一施設を使用するこの四つの地方卸売市場の配置は極めて不自然で、当然本県の地方卸売市場整備計画の対象となった。八幡浜市は五〇年~五二年にかけて、「水産物流通加工センター形成事業」として、卸売市場施設・搬送施設・水揚機械・製氷貯氷施設などを完備し、五四年の水産物需給調整用大規模冷蔵庫の設置で魚市場の整備を完了した。この整備を受けて五五年四月、四つの地方卸売市場は八幡浜市水産物地方卸売市場に統合し、魚市場経営の四業者は卸売人として新発足することになった。
 八幡浜は全国で六六の主要漁港に含まれているため、農林水産省の『水産物流通統計年報』によって、入荷数量及び各地への搬出状況を知ることができる。これによると五三年の入荷量(搬入も含む)は二万七、六三〇t、五六年は三万五、三一四tで、これを八幡浜市側の調べに比較すると、両年とも約八、〇〇〇トン少ない。農林水産省調べが暦年をとるのに対して、八幡浜市調べは会計年度の違いはあるが、その差が余りにも大きすぎる。五七年度の八幡浜市調査によると水産物の入荷のうち、魚類は八三%を占めている。品目別ではカワハギ・エソ類・イカ類・タチウオの順で、沖合底びき網漁業による漁獲物が上位を占めている。このうちカワハギは年による漁獲差が大きい。
 さて、前記の「水産物流通統計年報」では、搬出先については詳細な調べはあるが、搬入状況は明確にされていない。『第三次愛媛県卸売市場整備計画』の中に、昭和五三年実績分として入荷先が示されている。これによると、八幡浜市水産物地方卸売市場の総取扱量は三万八、二九〇tで、このうち地元生産者水揚分が二万一、〇一四tで全体の五五%、南予一八%、九州各地から一〇%、四国(三県)六%の順となっている。なお阪神からの入荷分は主として冷凍品によるものである。つぎに出荷状況は、農林水産省年報によると、昭和五六年分の入荷量二万九、七五二t(搬入分を除く)のうち地元へ、鮮魚向け一、五三一t、加工向け八、一四七t、合計九、六七八tで全体の三三%を占め、ねり製品を対象にした加工向けが多い。地元除く県内向け分が五、五八五tで一九%、以下四国(三県)・中国・近畿・京阪神・京浜・九州の順で、最近京浜地区への出荷量が増加した。なお東北地区へも出荷されている。出荷方法はすべて保冷車が使用されている。


表12-7 三津魚市商会社株割当数

表12-7 三津魚市商会社株割当数


表12-8 第43回営業報告(明治41年4月1日~同年9月30日までの会計報告)

表12-8 第43回営業報告(明治41年4月1日~同年9月30日までの会計報告)


表12-9 八幡浜市魚市場の推移

表12-9 八幡浜市魚市場の推移


表12-10 八幡浜市水産物地方卸売市場発足のための整備

表12-10 八幡浜市水産物地方卸売市場発足のための整備


表12-11 八幡浜4魚市場(八幡浜市水産物地方卸売市場)の入荷・仕向状況

表12-11 八幡浜4魚市場(八幡浜市水産物地方卸売市場)の入荷・仕向状況


表12-12 八幡浜水産物地方卸売市場魚集別水揚量

表12-12 八幡浜水産物地方卸売市場魚集別水揚量


図12-22 八幡浜地方卸売市場(4市場)への入荷状況

図12-22 八幡浜地方卸売市場(4市場)への入荷状況


図12-13 八幡浜市水産物地方卸売市場(産地)出荷状況

図12-13 八幡浜市水産物地方卸売市場(産地)出荷状況