データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)
第六節 内水面養殖
明治~太平洋戦争終結直後
内水面養殖業については明治年間はほとんどみるべきものはなく、大正年間に至って僅かに養鯉を主体としてウナギの養殖が行なわれていたにすぎない状態であった。大正元年の郡別養鯉・養鰻面積はそれぞれ約一五万五、〇〇〇坪と二万三、〇〇〇坪で、養鯉が全体の七六%を占めていた。その内訳は表7-10のとおりであるが、この面積には養魚池のほか溜池沼などの面積も含まれている。昭和四年における概況は表7-11のとおりであり、養鯉収獲量の六一%は溜池沼によるもので養魚池は三一%、稲田八%の割合となっており収獲総量も八、一〇〇貫にすぎなかった。養鰻についてはわずかに一、二〇〇貫程度で微々たるものであった。
戦後のたん白食糧不足解消の一環として水田養鯉が盛んに奨励された。昭和二三年における水田養魚状況を表7-12に示したが、養殖対象はコイとドジョウであった。コイは主として種苗用に、ドジョウは食用が中心であった。
昭和三〇年代~現在
内水面養殖は太平洋戦争終結後から水田養魚・溜池養魚を通じて、収獲高の面でかなりの伸長をみたが、養魚内容には大きな変化がみられた。以下養殖状況の主な魚種別推移について概説する。
鰻養殖
昭和四八年頃より西条市・松山市・松前町・長浜町などを中心に急速に盛んになり、五四年一〇月現在東予(六市町村、一五名)、中予(七市町村、二七名)、南予(五町村、七名)の計一八市町村四九名の養鰻業者にまで増えたが、これはウナギの一般消費量の増大に起因するもので、五〇年、五一年、五四年と年を追って生産量は増大したが五五年の四八二tを最高にその後はやや停滞傾向にある。これはウナギの全国的な生産過剰に加え種苗、餌料その他の生産コストの上昇に伴い養鰻経営成績が思わしくないためと考えられる。
虹鱒養殖
昭和四三年頃より生産量は増加してきたが、特に四九年~五〇年に急増し、五〇年には七三tにも達し最高となったが最近は停滞ぎみである。昭和五四年一〇月現在養鱒場は東予は別子山村・新宮村・西条市・小松町など四市町村一〇か所、中予は久万町・面河村・柳谷村・河辺村・美川村・川内町・松山市・伊予市など八市町村一四か所、南予は松野町一か所となっており、中予地区が最も多い。
アマゴ養殖
地方名アメノウオとも呼ばれ、日本の在来マス類の一種である。本県のアマゴ養殖の歴史は非常に新しく、昭和四四年一一月二〇日岐阜県の小坂養殖組合から発眼卵を面河川漁業協同組合と、美川村長崎養魚センターにそれぞれ三万粒ずつ持ち帰ってフ化養殖を開始したのが最初であるが、技術不足もあり失敗に終わった。翌四五年に再び卵を購入し、県水産課から技術指導をうけ翌年飼育稚魚六、〇〇〇尾を東川へ放流した。
アマゴの生産量の推移をみると四六年に五t・四七年三九t・五〇年七三tと漸増し、五二年には一三五tと最高を記録したが最近はニジマス同様停滞ぎみである。昭和五四年一〇月現在アマゴ養殖の生産地は新宮村、別子山村、面河村、美川村、柳谷村、小田町、河辺村などを中心に東予五市町村一〇か所、中予八市町村二一か所、南予四市町村四か所の計一七市町村三五か所である。
鮎養殖
昭和三七年より始まり生産量が急増したのは昭和五三年からである。五五年現在の生産量は約一〇t程度で量的にはきわめて少ないのが現状である。県水産課の昭和五四年一〇月調べてはアユ養殖業者は西条市と喜多郡五十崎町の計二名にすぎない。
鯉養殖
コイの水田養殖経営体数は昭和四〇年四四九であったものが四二年には八九に激減し、さらに翌四三年には○となった。これは水田用除草剤の使用など農薬散布の影響もあり養殖環境の悪化したことが要因である。このようなことから量的にも四三年は急減し前年の約一〇分の一となった。
最近の傾向にみられるように今後の内水面養殖はウナギ・アマゴ・アユなどの高級魚を中心に池中養殖がその主力を占めていくものと思われる。
その他の養殖
食用を目的とした内水面養殖では前述した種類のほかドジョウ(東予市一名)・スッポン(波方町一名)・テラピヤ(北条市一名、内子町一名)などの養殖が行なわれているが量的にはきわめて少ないのが現状である。なおこれら食用を目的としたもの以外に錦鯉、金魚などの観賞を目的とした養魚がかなり営まれている。