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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第三節 宇和海区②


 さて、明治七年、前記した沖の島などの土地、人民を土佐側に引き渡した直後、愛媛県は将来海面上の境界線が決定するまで、従来通りの入会で操業したい旨伝え、高知県側の了承を得た。しかし、本県では「漁業及営業取締収税仮規則」を明治一〇年に制定したために、海面における両県の境界線をそのまま放置できないとして、高知県側と協議を重ねた結果、鼻面岬(西海町)~鵜来島(宿毛市)の中心点に、大藤島(宿毛市)から見通線を引き、これを両県の海面上の境界線にすることを決定した。これが通称、「明治一一年線」と呼ばれるものである(図6-4)。
 明治二〇年、高知県海面漁業組合が設立され、捕魚鑑札の発行、代金などの徴収業務に当たるが、本県の入漁者に対し、地元漁民の一〇倍以上にも達する鑑札代金が請求された。このため本県側漁民は入漁慣行を無視した暴挙であるとして、地元漁民と同額にするよう、県当局を通じて高知県側に要求した。しかし愛媛県側からの入漁を全面阻止しようとする地元漁民に強い要望があるため、交渉は難航し、同二四年四月、本県の東、西外海村漁民は、一人当たり二〇銭を支払うことで合意した。それでも地元漁民の約五倍にも当たる高いものであった。ところが同二七年には本県からの入漁民は、総額四〇円を負担することで高知県海面漁業組合に加盟が認められ、これによって実質的には高知県漁民と同じ取り扱いを受けるようになった。
 翌年の二八年、高知県水産取締規則が公布され、高知県水産組合が結成された。ところが、この組合員は高知県居住者に限定しているため、本県入漁者に対し再度高額の入漁料を要求した。前回と同様、県当局間の交渉に持ち込まれたが、まだ結論の出ない同三二年四月、組合は一方的に入漁制限項目を裏書きした鑑札を送付して、これと引き換えに代金を徴収し、送金するよう指示された。憤激した東・西外海村漁民は、これを無視して旧鑑札のまま出漁し、これを阻止しようとする地元漁民との間に大乱闘となった。事態を重視した農商務省は、両県当局の調停では不可能と判断して、同三三年三月、関係の両県漁民及び組合代表、県当局者を東京に招き、調停を重ねた結果、合意に達し、契約書が取りかわされた。この契約によって、東・西外海村漁民は一人当たり三五銭、珊瑚採船は一隻五円を納入し、足摺岬までの範囲で高知県側漁民と同様に操業できるようになった。
 明治三五年七月の漁業法の実施に伴って、東・西外海村漁民は漁業法第五条の規定に従って、専用漁業権免許願書を提出し、従来の入漁協定の効力は失われたものと判断して、無証票で出漁する者もあった。したがって、両県漁民間に不穏の状態が続くことになった。しかし、ここで双方意見を主張し合うことは、日露戦争中のことでもあり好ましくないと判断した県当局者の配慮から、当業者間の協議にまかせた結果、漁業権の確定するまで従来通りの入漁条件を確認することで、同三八年八月合意した。入漁問題は漁業権の確定とも重なって一層複雑な問題として先送りされた。
 専用漁業権の両県境界線を確定するために、両県の海面上の境界線の線引きが必要となった。しかしこの問題は両県の思惑もあり、両者全く意見が折り合わなかった。このため結局「明治一一年線」とすることで、同四四年七月決着し、この境界線を境に相互入会を認めた両県の入漁協定が成立した。これより先同三九年に高知県地先一円を一件とした専用漁業権が免許されたが、大正五年の更新にさいして、この四四年の入漁協定を踏まえ、「愛媛県東、西外海村漁業組合の入漁を拒むことができない。」と記載されている。なおこれは昭和二五年の漁業法の改正まで続くことになった。
 大正一三年に高知県は、「漁業取締規則」を改正し、知事の許可を必要とする漁業の中に、火光を利用する網漁業を加えた。これによって、本県のイワシ網漁民の入漁申請に対して、許可を与えず、入漁を認めない方針をとった。これに対し本県側漁民の言い分は、宇和郡の専用漁場で、古くから火光を使用するイワシ沖取網があったが、これが専用漁業権第四、四八五号(大正五年免許)の中に記された鰮縛網漁業に当たるもので、したがって、但書条項を適用して知事の許可は必要でないと主張した。なお本県から農林省水産局に問い合わせた回答も、この線に沿うものであった。このためイワシ網の入漁は違法でないとして、入漁を強行することになった。高知県側ではこれを阻止するため、警備船によって入漁者を侵漁者として捕え、また、これを取り返そうとする本県側漁民との間に、流血の惨事を引き起こすことになった。特に当時は大正末~昭和初期に至る大不況期で、漁民の死活問題として、紛争は一層激しいものとなった。
 昭和四年九月、これ以上紛争を続けることは共倒れの恐れがあるとして、ようやく和議が起こり、同年一一月、高知県側宿毛町・小筑紫村・奥内村・沖の島・それに本県側東・西外海村の両県漁業者間に入漁契約書が取り交わされ、入漁協定が成立した。この契約の内容は、高知県側が相互入会の条件一三項目を確認した上で、東・西外海村の火光利用のイワシ巾着網・揚繰網の操業を認めたものである(図6-5)。
 これ以降昭和二五年の入漁協定までは、二~三年半の間隔で契約はスムースに更新された。この間昭和八年~一三年頃まで続くイワシの豊漁を背景に、すでに明治時代から入漁を熱望した内海村漁民一〇統(翌年から一一統)の入漁が認められ、また太平洋戦争中は軍側の操業規制のあったことはもちろんである。同二四年に新漁業法が公布、翌年施行されたが、これを機会に、高知県側漁民の入漁に対する態度は一層厳しいものとなった。同二五年四月の入漁協定では、以前の入漁海域に比較して約三〇平方キロメートル縮小された(図6-6)。
 翌二六年、新漁業法第一〇五条に従って、両県間の漁業調整問題などを処理するため土予連合海区漁業調整委員会が発足した。二七年には一応高知県側の要望を取り入れて暫定協定が成立したが、入漁海域は更に縮小して水島線まで後退した。なお高知県側の愛媛県への入漁海域は、宇和海全域に拡大された(図6-7)。
 さて、高知県側漁民は有利な暫定協定が成立したものの、漁獲は減少するし、経営はますます苦しくなったとして、この原因を愛媛県船の違反操業とした。しかも愛媛県船は、大型船が多く、宮崎沖・日本海方面にも出漁しているので、無理に宿毛湾に入漁しなくても経営は成り立つはずだとして、全面入漁禁止を主張した。したがって協定は難航し、連合海区調整委員会で合意に達せず、水産庁(瀬戸内海漁業調整事務局)に調停を依頼した。暫定協定で海域の問題が一応解決しているので、協定の焦点は愛媛県船の入漁統数であった。本県側の要望は、内海村分一一統が削減されてはいるが、実質は両県漁業者の話し合いで操業され、入漁料も支払われているので、これも実績として扱うのは当然で、したがって実数四四統のうち減船四統(昭和二七年度宇和海のまき網四統を減船整理した。)を除いて四〇統は是非確保したいと主張はしたが、二九統まで譲歩し、さらに水産庁の裁定の二七統で妥協し、同二八年六月入漁協定が成立した(図6-7)。
 同三〇年四月には漁業調整上の境界線が両県で協議され、旧専用漁業権の境界線、すなわち「明治一一年線」とすることに決定し、なおこの境界線と、南を通る大藤島~鵜来島北西端を結ぶ間は、愛媛県知事の認めるすべての漁業が操業できる自由漁場とした。
 同年五月には入漁協定が改訂され、これによって愛媛県船の入漁統数も大幅に増加し、このうちの二八統の操業海域は、昭和四年の協定線まで拡大され、本県側の希望はほぼ満たされることになった(図6-8)。
 しかし入漁海域の拡大もつかの間、翌三一年からのイワシの不漁を反映して、同三二年六月の改訂(図6-9)で再び海域が縮小された。イワシ漁はその後も減少を続け、三四年~三六年にかけて、昭和三〇年の五〇%にも達しなかった。この極端な不漁でイワシまき網業者は、両県共倒産、廃業が続出し、またイワシの回遊の比較的多い沖ノ瀬漁場~大当(大堂)灘漁場に出漁する者もあって、違反操業が頻発し、零細な釣漁民を圧迫することになった。したがって宿毛湾入漁問題は、宿毛湾内を越えて、足摺岬に至る漁場問題に発展したといえる。このため入漁協定の満了した同三四年来以降、高知県側は改訂に応ずる意向はなく、長い空白の後、同三六年七月やっと協定が成立した。この協定の焦点は、違反の防止と取り締りで、各業者共所属のまき網漁業協同組合に、あらかじめ廃止届を提出し、違反のあった場合は、これを直ちに該当する県当局に提出するとした厳しい内容が含まれていた。
 漁獲は同三七年にはやや回復はしたが、翌三八~三九年にかけて再び大不漁で、入漁協定の空白期に入った昭和三八年四月以後、違反操業が頻発した。特に四〇年三月~五月にかけて大当(大堂)漁場の違反操業で愛媛県船が大量に検挙された。地元一本釣漁民は自警団を組織して違反船の取締りに当たり、逃げ帰った乗組員不在の違反船を土佐清水港にえい航して焼き払ったのも同年五月のことであった。
 宿毛湾入漁問題の主導は一本釣漁民に置き換えられた感じさえするが、長期にわたる入漁協定の空白は、宇和海へ入漁する宿毛湾漁民にも深刻な影響を与え、協定の早期締結を望む声が高まった。高知県側では、取締体制を強化すること、県議会に大海区制反対特別委員会を設置を約束して、ひとまず四〇年九月暫定協定を締結した(図6-10)。これで漁場は若干南に拡大したものの、入漁統数については実質六統の減少となった。翌年一月、昭和三〇年決定された漁業調整上の境界線を両県で再確認したが、その際、境界線の南に接続した海域を愛媛県の自由漁場とする但書が削除された。同年一月成立の入漁協定では、協定書の外に取締体制の強化と、各分野の連絡会議の開催について規定した「高知県と愛媛県との両海域における漁業秩序の確立に関する申合わせ書」が取りかわされた。
 違反取締体制は強化はされたが、違反操業は依然として跡を絶たなかった。したがって入漁協定の改訂には必ずしも良好な条件ではなかったが、取締りに関する両県の定期連絡会議は、信頼関係の樹立に大いに役立ち、また大・中型まき網の違反に対する行政処分も行なわれ、同四三年二月の暫定協定、翌四四年四月には、漁業境界線の再確認と同時に入漁協定が締結された(図6-11)。この協定で、入漁統数は二〇統に削減されたが、入漁海域は本県まき網漁民の多年の念願であった沖ノ瀬に拡大し、八月~一一月の間この海域に入漁できるものは、大・中型一四統、中型二統のまき網の操業が認められた。沖ノ瀬の開放は、高知県側はあくまで反対したが、漁民側は、水産庁の大海区制を制度化しないとの回答を条件に、やっと応じたものである。なおこの協定の際、「入漁協力金に関する契約書」が一括して取りかわされ、沿岸漁業振興のため、また違反対策費も含めて本県側から三七五万円か高知県側に支払われた。もちろん金額は変動するが以後もこれは継続されている。
 四六年の改訂は前回と同様、四八年は沖ノ瀬漁場の入漁統数が大、中型各一統計二統の減少、入漁協力金五〇〇万円に増額された。昭和五〇年の改訂では、本県側では違反操業のなかったことを実績に、沖ノ瀬漁場の周年操業を希望したが、本県側の底びき網漁船などの違反も目に余るので、これを放置したまま、期間の延長はできないとして反対し、結局沖ノ瀬漁場の操業期間が九月一五日に繰り下げられ、同漁場への入漁統数も九統に削減された。
 五三年二月の改訂で(図6-12)、沖ノ瀬から完全に締め出され、入漁統数も一六統に減少した。さらに五五年九月の更新では、入漁海域(図6-13)のうち斜線の範囲が、五月~一一月にかけて大中型まき網の禁止区域に指定された。


図6-4 宿毛湾入漁協定関係図(1)

図6-4 宿毛湾入漁協定関係図(1)


図6-5 宿毛湾入漁協定関係図(2)

図6-5 宿毛湾入漁協定関係図(2)


図6-6 宿毛湾入漁協定関係図(3)

図6-6 宿毛湾入漁協定関係図(3)


図6-7 宿毛湾入漁協定関係図(4)

図6-7 宿毛湾入漁協定関係図(4)


図6-8 宿毛湾入漁協定関係図(5)

図6-8 宿毛湾入漁協定関係図(5)


図6-9 宿毛湾入漁協定関係図(6)

図6-9 宿毛湾入漁協定関係図(6)


図6-10 宿毛湾入漁協定関係図(7)

図6-10 宿毛湾入漁協定関係図(7)


図6-11 宿毛湾入漁協定関係図(8)

図6-11 宿毛湾入漁協定関係図(8)


図6-12 宿毛湾入漁協定関係図(9)

図6-12 宿毛湾入漁協定関係図(9)


図6-13 宿毛湾入漁協定関係図(10)

図6-13 宿毛湾入漁協定関係図(10)