データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第一節 沖合漁業の発展②

 昭和七年機船底びき網漁業取締規則が改正され、翌八年実施した。この改正で、知事から農林大臣許可に格上げされ、また漁業鑑札を許可証に改めた。昭和九年にはこの改正規則に罰則規定(体刑も含む)を加えて、「機船底曳網漁業取締規則」として、同年八月実施した。これによって漁業秩序を確立すると共に、取り締まり体制が整備されることになった。三津浜港にも農林省の監視船「白鴻丸」が配置された。昭和一二年政府は減船方針を打ち出し、昭和二四年までには全国すべての機船底びき網漁業を廃止する方針を盛り込んだ「機船底曳網漁業整理規則」を制定して実施に移した。愛媛県の機船底びき網はこの規則に従って、制定直後の昭和一四年度の漁期終了までにはすべて消滅することになった。
 戦況のますます悪化した昭和一九年、食糧を確保するため、臨時措置として、この許可権限を知事に移し、各府県実情によって許可する方針を採ったため、愛媛県でも七統が許可されている。戦後は食糧増産もあって、二二年に二一統、二三年には二七統に増加し、翌二四年に愛媛県機船底びき網漁業協同組合(昭和二九年に日本西海漁業協同組合と改称)が結成された。急激な増加は当然沿岸漁民との紛争に発展した。このため昭和二八年から減船が行われ、この結果二八年に二二統、二九年一六統、三二年一〇統、三九年七統、四三年には四統に減少して現在に至っている。
 八幡浜漁港を基地とするものは、太平洋南海区に含まれる愛媛四統、宮崎三統、大分・高知・鹿児島各一統合わせて一〇統で、漁船は五九~九七t、一統(二隻)の乗組員は二一~二三人、漁期解禁が九月一日であるが、高知沖は一〇月一日からである。一航海五~七日で、漁場は最遠の鹿児島沖までは一八時間かかる。出港は朝の一〇~一一時で、また帰港の場合は早朝の四~五時である。昭和三五年以降の漁獲量は五〇〇〇~一万tを上下している。八幡浜市商工水産課の調査では、(昭和五六年四月~五七年三月まで)総水揚げ量(搬入分は除く)の五一%を沖合底びき網が占めている。魚種別ではカワハギ・エソ類が多い。すり身の使用される以前は、水揚げ分のほぼ半分はねり製品向けであったが、現在は約一〇%に過ぎない。
 愛媛県出身(八幡浜市)の中間漁区(東経一二八~一三〇度)で操業するのは、下関(山口県)基地の六統、博多(福岡)、唐津(佐賀県)基地の各二統の合わせて一〇統(昭和五九年現在)である。漁船は八幡浜基地よりやや小さい五八t型、五九t型で、乗組員は本県出身者はごく一部(八幡浜市、南宇和郡)で、山口・島根両県出身者が多い。この方面への進出は、昭和二七年長崎を基地に中型機船底びきを経営し、後に以西底びきに転換した「岩切水産」が最初であった。漁期は太平洋南区に比較して一か月長い(八月一五日から翌年五月一五日)。

 キンメダイ延縄漁業

 西宇和郡三崎町及び今治市の漁船が、伊豆半島先端にある下田を基地にした延縄漁業である。現在の漁船は大型化しているが、出漁の始まった当時は、七~八tの小型漁船であった。表4-9昭和二九年三崎漁協が信用業務を開始した直後の三一年、フグ延縄漁民一二人に資金が貸し付けられた。従って資金量も少なく経営の不安定な時期で、漁閑期の漁船を高度に利用することは、資金の償還にもかかわる問題であった。このような理由から、漁協指導による出漁が始まった。
 昭和三二年フグ漁を終えた漁船七隻に、七~八人が分乗して下田を基地に出漁したのが最初であった。春~秋までの操業で、冬は三崎に帰りフグ漁に従事した。昭和三四年経費節減のため三崎漁協の下田出張所を設置し、従来の船宿制度(漁民の休憩所、餌・漁具・食糧などの世話、仕切金の立て替え、前貸しなど、このため水揚高の二歩手数料)を廃止して、組合支所で扱うことにした。この結果出漁漁船も、周年操業者も増加し、三五~四五年にかけては、出漁船は一〇隻を上回った。昭和四〇年李承晩ラインが撤廃されたが、この当時フグ漁に主体を置き、出漁を八月で切り上げ、九月~二月まで下関を基地に操業する漁船もあった。昭和四○年ごろから漁船は次第に大型化し、昭和五七年現在は、六〇~七〇t(カツオ釣り漁船を購入し改造)の漁船七隻(うち小型一隻)で操業されている。漁法は延縄で、幹縄二〇mの間隔に枝縄二〇〇本をのれん状につるし、この枝縄に二五~三〇本の釣り針を二m間隔に取り付けしたもので、延縄の総延長は四kmにも達している。餌は冷凍イワシが使用される。キンメダイは深海魚で、海深四〇〇~五〇〇mの、大陸棚から大洋底に移る急傾斜面上に分布する瀬(盛り上がった部分)に発達した上昇流に群がっている。魚探で魚の位置、分布状況を確認して操業している。小型漁船の時代は、下田を基地に伊豆諸島の御蔵島を中心に八丈島周辺であったが、漁船が大型化した現在では、伊豆諸島南端の魚島周辺まで、また南は沖縄島近海まで達することもある。この場合は鹿児島に水揚げされている。

 サバはね釣り漁業

 現在は廃業してしまったが、かつては九、〇○○tに達する漁獲があって、愛媛県を代表する遠洋漁業であった。三瓶町周木から屋久島(鹿児島県)方面への出漁が始まったのは、昭和七年ころで、戦後昭和二三年、たまたま屋久島近海に出漁中、静岡県の漁船のサバはね釣りを見て、見よう見まねで始めたのが最初であった。昭和二五年ころから済州島漁場に出漁したが、二七年一月の李承晩ラインの設定で締め出され、このころから漁船も大型化し、東支那海での操業が中心となった。昭和三一~三三年がサバはね釣りの全盛期で、翌三四年には長崎県、山口県の大型まき網漁船が進出し、漁獲量、魚価共に急落して採算割れになり、大型船は魚運搬船などに買却され、タンカー(油輸送船)などに切り換える船主が多かった。
 昭和三八年には、四〇t型の中型船が復活し、一~三月まで銚子を基地に九十九里浜仲合漁場、三~六月まで焼津を基地に伊豆諸島近海の漁場、六~一二月まで八戸を基地にした三陸沖合漁場で、それぞれ操業したが、当時は経済の高度成長期で、漁民の転職者が続出して操業ができず、次第に尻すぼみの状態となって、ついに最後の一隻(三九・二三t)も昭和四六年に消滅した。五三年にはサバすくい網漁業(たもあみすくい)が始まった。集魚灯と、まき餌(すり身)でサバを集めるまでは、はね釣りと同じであるが、これをたもあみ(直径一m)ですくい取る漁法である。はね釣りが漁船の両側で釣るのに対して、片側だけですくい取るため、半数の人数で事足りる。従って省力化されたサバはね釣り漁業といえる。しかし、これも最後の一隻(三七・三八t、乗組員一五人)も昭和五六年二月廃業した。

 突棒漁業

 鈷突きでマカジキなどのカジキマグロ類を漁獲する突棒漁業は、三瓶町長早を代表する伝統的漁業である。昭和四五年までは(三九年の前後の激減期は除く)四〇t級を含む一〇隻以上の漁船があったが、その後急激に減退し、現在はわずかに一二~一四tの小型漁船三隻(八人)によって伝統が維持されている。
 突棒漁業は、明治三一年佐賀関漁民の情報(韓国水域への通漁と移住の項参照)によって、川之石漁民が対馬周辺海域に出漁したのが最初で、後に大発展することになった二木生村長早(三瓶町長早)からの出漁は、高橋愛太郎らが無動力船一隻(五人)による対馬の厳原を基地に操業したのが最初であった。これから大正末まで、対馬海域を漁場に、厳原及び五島列島の福江島南西端にある玉ノ浦(カツオ釣り、機船底びき網漁業基地)を根拠地として一二~一五隻で操業した。大正一三年には台湾へ進出、北部東岸にある台北州蘇襖庄(スーアオ)を基地に周年操業し、大正一五年には家族を呼び寄せ一四家族が移住したが、戦後に全員が引き揚げた。
 戦後は二四年に再開され、南は宮崎県油津(日南市)を基地に土佐沖~奄美諸島の近海、北は長崎を基地に済州島・対馬周辺海域で操業した。二七年李ラインの設定で朝鮮海域から締め出され、東支那海、北海道及び三陸沖、伊豆沖に進出することになるが、このころから漁船は大型化するようになった。図4-9のように昭和四六年以降漁船数・漁獲量共に急激に減少したのは、タンカー・ブームで乗組員が大量に転職したことで操業が不能になったためである。現在操業はわずかに三漁船で、大分突棒船団(臼杵・佐伯の突棒漁民の約二五隻)に含まれ行動を共にしている。操業コースは表4-11のように、春は焼津・下田を基地に伊豆諸島、夏は釜石・気仙沼を基地に三陸沖、秋は釧路を基地に北海道沖合(漁獲物は魚価の関係で釧路から釜石、気仙沼に陸送される場合が多い)、冬は対馬の厳原を基地に対馬沖合で操業している。


表4-7 「以東底曳」の許可数の変遷

表4-7 「以東底曳」の許可数の変遷


図4-5 沖合底びき網漁獲量の推移

図4-5 沖合底びき網漁獲量の推移


図4-6 沖合底びき網操業区域 (八幡浜漁港基地) 及び他県へ進出の底びき網分布

図4-6 沖合底びき網操業区域 (八幡浜漁港基地) 及び他県へ進出の底びき網分布


表4-8 八幡浜水産物地方卸売市場漁業種類別水揚量

表4-8 八幡浜水産物地方卸売市場漁業種類別水揚量


表4-9 最初伊豆沖出漁漁船

表4-9 最初伊豆沖出漁漁船


図4-7 キンメダイの月別漁獲量

図4-7 キンメダイの月別漁獲量


表4-10 サバ釣り漁業の推移

表4-10 サバ釣り漁業の推移


図4-8 サバはね釣り漁業漁獲量及び漁船数

図4-8 サバはね釣り漁業漁獲量及び漁船数


図4-9 突棒漁業の漁船及び漁獲量

図4-9 突棒漁業の漁船及び漁獲量


表4-11 突棒漁業操業内容

表4-11 突棒漁業操業内容