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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

三 地域の特性漁業


 瀬戸内海機船船びき網(パッチ網)漁業

 瀬戸内海機船船びき網通称パッチ網とも呼ばれ、イワシを漁獲対象とする規模の大きい船びき網漁業であるが、川之江地区にあっては戦後徳島県より伝来したもので、当初二〇馬力程度の中古船を購入し、株式会社川熊・有限会社西鶴水産などが川之江沖から伊吹島沖合海域に亘って操業したのが始まりである。漁船の機関馬力は四五馬力であったが、昭和五四年一〇月二六日より漁業調整規則改正によって五〇馬力となった。現在川之江漁業協同組合管内には妻鳥一、西浜一、中浜二、中須一、河原町三、東町一の合計九統が操業し県下で最も多い。許可期間は五月一五日~翌年一月一五日までであるが、盛漁期は七月~八月である。水深二〇m位のところの中間をひき網するもので網船二隻で一〇名の従事者を必要とする。以前は二〇名位の労働力を要したが昭和三四年ころよりネットローラーの普及により約半分に省力化されたほか四〇年頃から魚群探知機を装備し、漁法も一段と近代化された。この漁業の経営者はイワシ加工業者も兼業しており、網元と網子との収益分配は、一定の必要経費を差し引いた残額を両者が折半する方式をとっているが、従事者の中でも船長、機関長、その他で歩取りが異なる。この網の構造はワイヤーロープ(二〇〇m)、大引き(一五〇m)、身網(八〇m)、袋網(七〇m)となっている。漁獲されたカタクチイワシはイリコに加工せられ入札にかけられる。現在イリコの入札には観音寺外より九名の業者が参加して行なわれるが、盛漁期には二日毎に入札が実施される。漁獲量は昭和五一年当時は約一万t前後と豊量であったが、販路は県外へのハマチ養殖用飼料向けであった。昭和五三年以降は飼料向けからイリコ向けに変わったが、漁獲量は毎年漸減し、昭和五八年は三千t未満に激減した。イリコの品質を左右するものにイワシの油の含有量があげられるが、一般的に五~六月頃は油の含有率が高い。飼料用生イワシの価格はかなり以前から二〇㎏あたり三五〇円~四〇〇円前後で推移し、値上がりは殆どみられない。
 パッチ網は昭和五八年現在この地区以外に三島漁協、寒川漁協管内にそれぞれ六統と一統がある。

 鯛飼付漁業

 越智郡魚島村江ノ島の南端沖の暗礁を「吉田磯」と呼んでいる。江戸時代に薩摩藩吉田丸が幕府への上納米を満載して江戸へ航行中、前記の暗礁にて座礁沈没したが、このとき種米を餌として鯛が大量に飼付せられたところから、この磯に船名を附して「吉田磯」と命名したといわれている。この吉田磯は水深約五〇mで古来からタイの棲息に適した漁場環境を備えていた。このようなところへ前述した座礁船からの餌料がタイをこの場所に飼付ける役目をしたことが契機となりその後明治九年有永長次郎が、米糠をいって粘土と混ぜ合わせ、これを俵に詰めて、同場所に沈下し、人工飼付を試みたところ、魚が大量にい集し、これを鯛網で漁獲したところ極めて好成績を得たといわれる。それ以来積極的な餌料の改良工夫を行なって鯛網操業を奨励したのでタイ網の活況がつづいた。なお餌料俵の中には米糠一斗五升をいったものに三倍の粘土を混合して俵詰とし、これを漁期の一〇日前に一〇〇俵を磯の周辺に投下し、その後は半月内外で五、六〇俵を、さらに一〇日を経て三、四〇俵を投入するようにして、餌料の逸散を補充し、魚族の集魚効果を保持することに努めたので、一漁期の間に投下する俵は一年間で三五〇俵にも及んだといわれる。この飼付用餌料として明治一八年にはシャク虫を一漁期中に一回あたり約一石入りのものを三回投入したほか、いり糠の混入量を増加するなどの研究を重ねて実施したので漁獲効果は一段と向上したといわれる。またこの飼付漁場周辺には五〇余日に亘って昼夜の別なく五人乗り番船を二~三隻監視用として就航せしめ、漁場侵略者の取り締まりにあたった。魚島の漁業者によると、この附近のタイの回遊は宮窪町友浦沖には魚島より一週間位早く、その後弓削沖を経て魚島に至るという。この漁期は四月初旬から五月にかけて水温が一一度C~一四度Cを示す時で、陸上では桜の花が開花する頃から始まるので、この時期のクイをサクラダイとも呼んでおり、年間を通して最も美味である。
 ここに明治三一年~大正元年に至る間の鯛飼付漁業の操業実績を示すと表3-24のとおりである。
 鯛飼付漁業は当時漁獲成績が好調であったところから村民が競ってその経営にあたろうとしたが、権利が村有であったので明治三二年に至り一〇か年の期限を附して漁権貸付を個人への入札制としたところ、落札金額は五千円の巨額に達し、その後明治四二年の更新時にはさらに騰貴し、七千円に値上がりしたといわれる。
 しかしながら、この鯛網漁業もその後は桝網、さらにはローラー五智網などへと漁法が変遷していったことは前記のとおりである。

 いかなご袋待網(ばっしゃ網)漁業

 この漁業は伊予灘の北条を除いては燧灘においてのみ行なわれる漁業である。本漁業の中心をなしている今治市桜井地区では昭和初期に香川県木田郡庵治町からいかなご袋待網の漁具を購入して操業したのが始まりで、昭和二五年頃にはこの地区で二二統の着業があったが、昭和五八年現在六統が稼働しているにすぎない。漁場は桜井地先のニギノ州で、操業時間は日の出から日没までの間に二回~四回潮の流れに沿って網を敷設して行なわれる。漁期は三月初めから六月末日までである。一統につき網船二隻(一隻三人乗り)と手船一隻(一人乗りで漁獲物を引き揚げる)で構成されているが、毎日四統位ずつがニギノス漁場に並列して操業を行なう。漁獲されたイカナゴは殆ど地元の冷凍業者の手によってハマチ養殖用飼料として出荷されている。
 いかなご袋待網の燧灘における稼働漁労体数は昭和三三年には魚島四一、弓削二〇、桜井一四、宮窪三、岡山三、岩城二、西伯方一の計八四であったが、現在は雑魚袋待網も含めて、菊間九、桜井六、宮窪三、岩城三、大三島一、津倉一の計二三に減っている。県下のイカナゴ漁獲量は年変動が大きいが昭和三三年には三三五tでこのうち袋待網が五五%で最も多く、以下地びき網三〇%、その他一五%であった。昭和五六年は二四六tで最近やや減少傾向にある。袋待網がやはり最も多く、その五八%を占め、次いで船びき網三〇%、その他一二%となっている。

 さわら流し網漁業

 この漁業は近年盛んになった漁業の一つであり、越智郡島しょ部周辺海域と川之江市から東予市にかけての沿岸部に操業の禁止区域が設けられている。サワラを漁獲対象とする刺網で五〇馬力、三~五t漁船に従事者が二人乗り込み、この操業時期は六月~七月と九月~一一月の年二回で、この間の出漁日数は一五〇日前後で夜間操業を行なう。この一部は燧灘のほか伊予灘へも出漁する。対象魚種が他の漁業と競合しないため規模拡大も望めなくはないが、漁場利用の関係で小型機船底びき網などとの競合する面がある。本県燧灘における漁労体数の推移をみると昭和三九年一六四、四四年一〇四、五六年二一七であり、同海域のサワラの漁獲がそれぞれ、一七二t、八七t、一、二一四tであることに鑑み、漁獲努力量(漁労体数)は漁獲量に比例して変動している。近年におけるサワラ漁獲の増大のなかでも特に燧灘の好調が注目に値する。昭和五八年における燧灘管内のサワラ流し網漁業許可件数を組合地区別にみると、新居浜が三四件で最も多く、以下寒川三〇、河原津二九、関前二七、西条二二、今治一七、多喜浜一五、その他三二となっており、関係組合は燧灘三六組合中その約四割に相当する一五組合に及んでいる。昭和五八年県下全域のサワラ漁獲量は一、七五七tで、これを海区別にみた漁獲割合は燧灘六九%で圧倒的に多く、次いで宇和海一九%、伊予灘一二%となっており、最近の傾向としては伊予灘を除き増加傾向がみられる。

 たきよせすくい網漁業

 この漁業は火光を利用して魚を集魚し、これをたら網ですくってとる漁法で主に越智郡の小島を中心に来島、馬島などの周辺海域を漁場として行なわれ。小島のたきよせすくい網漁業の歴史は古く起源はさだかでないが、天保三年に庄屋所から岩門株中(たきよせ漁業者)にあてた文書から当時これに便乗していわしを横取りする者が多く本漁業に従事する者が難儀しているので、これらの従事者に対して特許株をもらいたい旨の嘆願に対し、これを納税を条件として認めているところから、相当盛んに行なわれていたことが推察される。藩政時代に松山藩から庄屋を通じて漁業の許可株をもらっていたが、この旧株は一一隻であった。その後明治初期に至り新株八隻が新に認められたが、旧株の権利は強くどの漁場でも操業できたが、新株の場合は旧株の漁場では操業が認められず、新漁場に限られていた。昭和五八年現在の許可隻数は来島漁協関係が四二隻で断然多く、次いで渦浦漁協関係一九隻、小部漁協関係五隻となっている。来島漁協関係では稼働率の高いのは小島一四隻、来島一〇隻の計二九隻位であり他はあまり稼働していない。漁期は二月~五月はイカナゴ・大羽カタクチイワシ、六月~一一月は小羽カタクチイワシ・エソ・タチウオ・スルメイカ・スズキ・サッパなどであり、一二月~翌年二月にかけては大羽のカタクチイワシをとる。
 集漁法は昔はタイマツを焚いていたが、昭和五年頃からカーバイトに、太平洋戦争の終結後はバッテリーに、さらに昭和三〇年ころからは発電機方式へと順次進歩していった。漁具には、イワシを目的とするものは短い柄に直径二m位の大きいタモ網を、その他の魚類の場合は三m位の柄に直径五〇cm前後の小さいタモ網を使用する。イワシを漁獲する場合は火光によって岸辺に魚を徐々に誘導して一か所に寄せてとるが、他の魚の場合は沖合で集魚してすくいとる。漁期中満月前後の八日位は操業しないがその他は天候さえ良ければ操業が可能である。一晩の稼働時間は四~五時間で、漁船は現在一t前後の動力船が使用され、家族の二人乗りが普通である。この地区以外の渦浦は馬島周辺海域で小部は宮崎鼻地先の共同漁業権区域内で釣りの餌用イカナゴを対象に操業せられている。

 採貝漁業

(1) せと貝採取
 セト貝採取は鼻栗瀬戸、荒神瀬戸など越智郡島しょ部の海峡で冬から春先の一二月~翌年三月末日ころまで行なわれる。この漁業は共同漁業権第一種によって行なうもので、この大半は宮窪漁業協同組合所属のセト貝採取業者によって行なわれる。昭和二七年当時は一三隻のセト貝業者が操業していたが、五八年現在九隻に減じた。毎年漁業権行使規則によって操業秩序が保たれている。一日当たり採取量は普通八〇~九〇㎏程度である。採取されたセトガイ(イガイ)はむき身とし、ビニール袋詰めとして市販されるが、この際生ずる貝がらの処分は以前は肥料に使用されたこともあるが現在は粉さいして埋め立て用として処分されている。
 セト貝採取漁業の従事構成は潜水夫一人(船主)、船上作業員四~五人(昔は六人)であり、昭和二三年ころまでは手押ポンプによって潜水夫への送気を行なっていたが、それ以後はコンプレッサーで行なっている。本県における潜水漁業は昭和二、三年ころから徳島県海部郡伊島より冬期に三人位が出漁してきたのが始まりである。地元の潜水業者の沿革は昭和二二年ころ県水産課渡辺一技師が講習会を宮窪で開催して育成したのが最初でその後次第に業者数も増加した。

(2) ばか貝採取
 燧灘中央部一円の遠浅地帯は古来からバカ貝の産地として有名であった。元来バカ貝は泥質の多い海底を嫌い、砂質の割合が八〇~九〇%程度のところを好んで生息する貝類である。従って洪水時に多量の泥土を流出するおそれのある河口附近は適地とはいえない。また棲息場所の適水深は春秋の大干潮時に僅かに干出する程度で小潮時には干出しないところをよしとする。このようなところから小潮時の水深が二m~五m内外のところが適地となる。泥質を好まないことからもわかるように海水の水質は清澄なことが適地条件となる。
 一般に貝類は漁場における水温、海流、塩分量、その他の自然環境によって資源の増減差が激しい。現在までの統計によると、本県のバカ貝生産の殆どを占める燧灘では、明治四二年五〇貫、大正六年五七万五六六〇貫、大正七年五万七四一〇貫、昭和三三年二六二t、四四年一万八、九六六t、五一年一、〇七三t、五六年三四七tと推移しており、昭和四四年のバカ貝大発生以降は急速に漁獲量が減少した。特に最近は西条沖の漁場埋め立てもあって殆ど皆無の状態となっている。昔から採取方法は水深の深いところは船上からの貝かきによる船掘りで、干潟の場所では徒行掘りで行なわれ、漁期は一二月~翌年三月末日までで、新居浜漁業協同組合では最盛期には二三〇隻にも及ぶ大船団が新居浜市垣生沖から西条沖合のバカ貝漁場へ出漁し活況を呈していたが現在は殆どみられなくなった。
 大正元年に新居郡役所において郡内の干潟の基本調査を実施し、養殖適地として左のとおり選定した。
 そして県ではこれら貝類増殖に関する講習会を開催するとともに実地指導に努めることとし、大正六年から三年計画で、ハマグリ・アサリ・バカ貝の種苗を新居浜・沢津・垣生地先に放流するとともに禁漁期間を設けるなどしてこの保護増殖を図った。その結果大正六年には漁獲面で非常な効果が認められた。現在盛んに言われている栽培漁業の先例として注目される。

 その他の漁船漁業

 燧灘の漁船漁業は種類がきわめて多く、従って漁場の行使状況も複雑多岐にわたっている。水産資源の生息密度も濃く生産性の高い好漁場として知られているが、一方では水族保護のため、操業禁止区域、禁止期間、漁獲物の体長・体重制限、漁船の統数・馬力数の制限など様々な規制措置がとられているほかクルマエビ・ガザミ・マダイその他の人工孵化放流が実施されている。
 前述した漁業は燧灘の特性的漁業として例記したが、これら以外にこの海域の代表的漁業をあげれば次のとお
りである。( )の数値は昭和五八年四月一日現在の知事許可隻数を示す。

(1) えび漕網漁業
 小型機船底びき網の一種で、今治(一七二)、川之江(一〇七)、宮窪(一〇四)、河原津(九六)、新居浜(八〇)、魚島(五九)、寒川(五二)、小部、桜井(各二九)、垣生(三二)、その他で合計九六六隻に及び許可漁業中件数が最多であり、この海域の基幹的漁業に位置している。
(2) 延縄漁業
 たい・はも・あなご・ふぐなどをそれぞれ漁獲対象としている延縄漁もこの海域の代表的漁業の一つであり、主なところは垣生南(五九)、川之江(四四)、垣生(四一)、小部(三八)、渦浦(二九)、今治(二七)、関前、新居浜(各二四)などでその他合計三九五隻が許可されている。
(3) きす・かます刺網漁業
 刺網類にはこのほかこのしろ、さより、さっぱなどをそれぞれ対象としたものもあるが、きす・かます刺網が最も多い。この漁業は西条(六〇)、垣生南部(五八)、川之江(四八)、玉津(四六)、宮窪(三〇)、大島(二九)、津倉(二四)その他合計四一一隻である。
(4) 一そうローラー五智網漁業
 起源は昭和二四、五年頃で新しく、現在のタイ網の代表的漁業となっているもので、宮窪(四〇)、寒川(三〇)、川之江(二九)、新居浜(二三)その他合計二二九隻が一七組合に許可されている。
(5) さより機船船びき網漁業
 燧灘全体で二一一隻の許可船があるがこのうちの約半数にあたる一〇〇隻が川之江で、次いで寒川(四八)、壬生川(二〇)、大島(一五)、河原津(一四)その他(一四)となっており、宇摩郡が七四%も占めている。
(6) いか玉漁業
 この漁業は燧灘の特徴的な漁業として古くから営まれているもので四月中旬から六月末にかけて行なわれる。一隻あたりにイカ巣を一五〇個~二〇〇個程度の規模で行なうが、この巣かごの中にヨメの皿のシバを挿入して沈設すると、これに産卵のためイカがい集するのを捕獲する。最も多いのは新居浜の五一隻で、以下川之江(三三)、渦浦(三一)、西条(一八)、多喜浜(一六)、三島、玉津(各一四)その他合計二一○隻が許可されている。
(7) 一本釣り漁業
 一本釣りの漁業種類にはいかつり、さばはねつり、かつお一本釣り、その他の釣りがあるが、このうちのその他の釣りについて昭和五六年の農林統計によると、燧灘における漁労体総数は七九八でその主な地区は、今治(二一○)、伯方(一二一)、吉海(八三)、宮窪(七八)、新居浜(七三)、弓削(四六)、関前(三九)、岩城(三四)などである。昭和五六年のその他の釣りによる漁獲量は一、三七〇tでこの主な魚種にはマダイ・メバル・ボラ・スズキ・タコ・クロダイ・タチウオなどがあげられる。
 なおのり養殖などの浅海養殖業については第五章「水産増養殖の発展」の項で述べる。

表3-24 吉田磯 (魚島) における鯛飼付漁業成績

表3-24 吉田磯 (魚島) における鯛飼付漁業成績


図3-13 いかなご袋待網操業状況

図3-13 いかなご袋待網操業状況


図3-14 小島イワシたきよせ漁場

図3-14 小島イワシたきよせ漁場


表3-25 養殖適地

表3-25 養殖適地