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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

三 明治漁業法施行より昭和漁業法施行までの漁業制度


 明治漁業法の制定

 明治三四年四月、政府は漁業問題に関する基本法として初めて「漁業法」を制定し、翌三五年七月一日より施行した。しかしこの法律は漁業権の法的性格が明確でないなどの理由から明治四三年法律第五八号により全面的な改正が行なわれ第二次世界大戦終結後の昭和二四年制定の現行漁業法制に移るまで五〇年の永い期間わが国の漁業秩序を維持してきたのであった。
 この法律は専用漁業権・定置漁業権・区画漁業権・特別漁業権の四種類の漁業権や、入漁権・許可漁業・漁業組合制度などについて規定している。
 本法の基本的な考え方は藩政以来の漁業慣行を重視し、できるだけ従来の権利者や漁場行使実態をそのまま認める形がとられた。
 すなわち、「専用漁業権」は以前からの地先水面での地元漁民の入会慣行のあったものとし、これに他部落からの入会権を新たに「入漁権」とした。漁具を一定場所に定置して行なうものを「定置漁業権」に、魚介藻類の養殖をするものを「区画漁業権」とし、その他のものを「特別漁業権」として分類した。また「専用漁業権」には慣行によるものを「慣行専用漁業権」に、新たに申請によって漁業組合のみに免許される「地先水面専用漁業権」の二種があった。このうち、慣行専用漁業権の方は免許後に漁業種類や漁場区域の変更が不可能とされていたので、地先水面の従来の入会慣行のものはほとんど地先水面専用漁業権として出願し免許された。
 以上は漁業権漁業に属するものであるが、これ以外の漁業には「許可漁業」「届出漁業」「自由漁業」「禁止漁業」などがある。
 次に漁業組合制度であるが、漁業者の部落の区域または市町村の区域により組合の地区とし、専用漁業権の権利主体として構成させたのである。そしてこの近代的な漁業法に基づく漁業組合に法人格を与え、実質的には従来の漁村部落に地先漁場の独占使用を認めたものとした。

 明治漁業法の改正

 漁業法施行当初、第一九条において「漁業組合ハ漁業権の享有及行使ニ付権利ヲ有シ義務ヲ負フ但シ自ラ漁業ヲ為スコトヲ得ス」とし、さらに第二〇条で、「漁業組合ニ於テ其ノ地先水面ノ専用ノ免許ヲ受ケタルトキハ組合規約ノ定ムル所ニ依リ組合員ヲシテ漁業ヲ為サシムヘシ」と規定して組合は専ら漁業権の取得主体としか考えていなかった。
 漁業法の最初の改正は明治四三年四月に行なわれ、漁業組合制度の整備拡充を回った。すなわち組合の漁業に関する共同利用施設の設置を認めたこと、漁業組合連合会の設立ができるようにしたことのほか漁業権に対する抵当権の設定を認めたことなどが主な改正点であった。
 次の漁業法の改正は、昭和八年三月に行なわれ、出資制、責任組織を導入して出資組合の名称を漁業協同組合と呼ぶこととしたほか、漁業協同組合に漁業自営を認めたこと、また漁業組合連合会は経済事業を行なう漁業組合または漁業組合連合会を構成員とし、出資制、責任制をとるとともに、経済事業を行なうことができるようにしたことなどであった。さらに次の改正は昭和一三年に行なわれたが、これまで貯金業務が認められていなかったため、漁村経済機能の中核的役割を充分果していなかったのを、組合員またはその家族からの貯金業務を行なえるよう信用事業の制度を導入したことであった。これに伴って同年三月産業組合中央金庫法(現在の農林中央金庫法)が改正され、漁業協同組合・同連合会の産業組合中央金庫への加入が認められ、漁業組合は単なる漁業権所有主体の性格に加えて新しく経済事業団体としての性格をも併せもつことになり、その機能は以前に比べ充実したものとなった。

 愛媛県漁業取締規則の改正

 明治三四年の漁業法制定によって全国的な漁業統制が行なわれることになったのであるが、その後の本県の漁業取締はどのような経過をたどったかにつき概説する。
 明治三二年制定の水産取締規則を廃止し、明治三七年二月、県令第一六号により新しく漁業取締規則を定めた。この規則では知事の許可を要する漁業種類を以前の網漁・配縄漁・釣漁・雑漁・採藻・八重簀・鯨猟などであったものを改め、打瀬網・手繰網・鰕漕網・五智網・桝網・縛網・鯛、鰆流網・鰮刺網・<魚長>剌網・<魚反>、<魚痛>、鰡追掛網・鰮沖取網・繰網・捲網・鰻敷網・鵜飼の各漁業の一五種類に細分類して許可することにした。
 さらに、魚介類の保護繁殖対策を積極的にとり入れ、鮑の殼長三寸以下の採捕を禁止し、鮎・蛤・馬軻介・石花菜・海蘿などの禁止期間を定めたほか、鰮刺網・打瀬網・縛網などに禁止区域を設けた。さらに特記すべきこととして、養殖または学術研究その他特別な理由による場合は、禁止制限漁具漁法であっても、知事の許可を受ければ行なえるようにいわゆる特採条文を設けた。
 この漁業取締規則の改正と平行して、明治三七年二月県令第二〇号で漁業法施行規則第五五条による保護区域として① 特別漁業第四種鯛船曳葛網(地漕網)② 特別漁業第七種鯛飼付漁業の二漁業を設定した。
 つづいて明治四〇年八月に漁業取締規則の全面的な改正を行なって、知事許可漁業の種類を以前の一五種類から二六種類に増加した。増加した主な漁業種類は底曳網・鯛大網・揚繰網・ホータレ刺網・各種地曳網及び各種船曳網(特別漁業に該当しないもの)棒受網漁業などであった。この規則では、一か年間休業した場合の許可取消規定や、許可漁業の相続制を認める規定を新たに設けたほか、水産動植物の期間禁止対象に海鼠・肥料用海藻を追加した。
 次の全面改正は大正二年八月県令第二七号によって行なわれた。この改正の主な点は、許可漁業の種類を以前の二六種類から一八種類に整理して規定したが、新たに二艘五智網漁業や巾着網漁業などが追加された。そしてこの許可漁業の規定は専用漁業権で行なうものは適用外とした。また河川の禁漁区に肱川(宇和川)を追加した。これ以外に、体長制限の対象としてサザエ・ウナギ・真珠介を追加、禁止期間にアメマスを追加し、さらに禁止漁具として、鰈掻き・鵜飼・鮎空掛釣・瀬乾漁・網目八分以下の建干網及び張切網・網目五分以下の打瀬網、手繰網、投網など・鯒漕縄・がぜ網・磯曳網を規定し、これらによる漁業を大幅に禁止した。また非漁業者の使用する漁具を干瀉漁・投網・釣・抄網・鰻挾に限定した。そして定置漁業及び特別漁業の保護区域を大幅に規定して水産資源の繁殖維持に努めることとした。
 以上の改正以外に大正年間では、七年、九年、一二年、一五年の各年に漁業取締規則の一部改正が行なわれた後、大正二年の漁業取締規則を廃止し、これに全面的な改正を行なって昭和二年一月県令第二号によって新しく漁業取締規則を制定した。大正二年の規則と比べて本規則の改正の要点は、知事許可漁業として新たに沖縄式磯狩込網・蛸壷・はまち撤餌釣・火光を利用する蝦抄網・河川に於ける曳網の各漁業を加えたこと。鑑札は相続、譲渡又は貸付けることができないこと。ガザミの体長制限(甲殻幅三寸以下の採捕禁止)、期間禁止対象としてイダ・イセエビの採捕と打瀬網、建干網による漁法が新たに加えられた。このほか電流による漁業の禁止や、二艘五智網漁業の新規許可をしないこと、定置漁業及び特別漁業の保護区域として鰤飼付・大敷網漁業などが追加され、内水面の禁止漁区に面河川、肱川、石手川の一部が追加されたことである。

 機船底曳網漁業整理規則・瀬戸内漁業取締規則の制定

 昭和一二年八月九日国は機船底曳網漁業整理規則(省令)を公布し、その整理を進めることによって沿岸性魚族の乱獲を防止することにより他の一般沿岸漁業の保護に努めることとしたほか、特にわが国沿岸漁業の縮図といわれている瀬戸内海漁業に対しては明治四二年一一月制定の瀬戸内海漁業制限規程を廃止し、新たに昭和一二年一二月四日瀬戸内海漁業取締規則(省令)を制定して、無許可船をはじめとする違反船の取締りを行ない水産資源の枯渇防止に努力したが、現場における取締能力の不足から実効はあがらず、違反船は跡を絶たなかった。

 水産業団体法・水産業協同組合法の制定

 前述したとおり、昭和一三年の漁業法の改正によって、漁業協同組合は信用事業を行なうなど、経済事業団体として前進することとなったが、昭和一六年にぼつ発した太平洋戦争貫徹のため、日本は全国的な一大統制下にあって国への協賛体制を強化する事態に直面し、水産業界もこの一翼をになうこととなったのである。そこで昭和一八年三月水産業団体法が制定され、漁業組合は従来の民主的な運営方式は一掃され、国策協力機関としての途を歩まねばならなくなったのである。
 この水産業団体法の骨子とするところは、各市町村単位に一漁業会を、各郡道府県毎に一水産業会と一製造業会を、中央には中央水産業会を組織することとし、地区内の有資格者は当然加入制としたものであった。この時点では、協同組合の基本理念である民主主義精神は失われていたのである。
 かくして昭和二〇年八月の戦争終結を迎えることとなって、日本は新しい民主化の途を辿ることとなり、漁業制度の改革も進められていった。この最初の漁業組合に関する基本法として昭和二三年一二月「水産業協同組合法」が制定され、翌二四年二月の施行によって真の民主化された漁業協同組合が発足したのである。