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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第一節 漁村の成立②


 漂泊的出稼漁民の定着した集落

 漂泊的出稼漁民は、家族ごと船を住居とした家船で生活し、盆と正月に出身地に帰る外は、漁場と漁獲物の販売・食料品を確保するための停泊地を組合せ、点々と移動する漁民である。しかし、漁場と販路に恵まれ、地元の受け入れ条件が整えば、漂泊的生活を続ける必要もなく、定着化することになる。瀬戸内沿岸および島しょ部には、近世中期以降、この漁民の定着化した漁村が各地に分布している。漂泊的出稼漁民に含まれるものとして、能地(三原市幸崎町)、二窓(竹原市忠海町)、瀬戸田(豊田郡瀬戸田町)、豊浜(同郡豊浜村)、阿賀(呉市)、吉和(尾道市)、岩城(本県)漁民などがある。これらの漁民の定着したもののうち、愛媛県関係では、能地・岩城を親村として分散定着した漁村が多い。
 能地・二窓漁民の檀寺は、三原市幸崎町能地にある善行寺である。この寺の過去帳には死亡者の出稼先が記録されている。この中から本県関係の村々が最初に記録された年を表1-6に示した。これによると享保六年(一七二一)~安永二年(一七七三)までで、これは死亡の年であるから、出稼の始まるのはこの年より若干さかのぼることになる。
 漁民が出稼先で死亡した場合、死がいは持ち帰られ埋葬されるが、遠隔地では防腐剤としてオシロイをぬり、又塩詰めにして運ばれた。しかしやがて出稼先で埋葬され、地元寺院の過去帳にも収録されることになる。従って、この収録の時期を漁業集落成立の起源と見てよかろう。さて、入稼・定着の場合は、村方居住の漁民の障害にならないことが不可欠の条件である。この点、大三島・波方・菊間浜村・浅海・和気浜・高浜・興居島・それに中島の諸村は、地元漁民は極めて少なかった。これらの村々では、漂泊的出稼漁民を定着させることによって、地先漁場を確保しようとした。また幕府は天明五年(一七八五)松山藩の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)を割り当て、供出方を厳重に申し渡した。しかし、この割当量は生産可能量を無現した請負量であったため、寛政一一年(一七九九)に減額修正されたが、それでも、松山藩関係は総計四、五〇〇斤であった。これに対して年々の供出実績は、四五~七〇%どまりで、このため幕府請負役人及び長崎会所役人は度々回浦して、出方不振の浦々に完納することを命じた。従って来住漁民の居住することは好都合であった。菊間浜村では、この請負高完納するため、岩城漁師の入稼・来住を求めている。
 漁民は定住に際して、地元民を抱主に選定しなければならない。この場合抱主は、家屋あるいは宅地の一部、又は耕地(畑)を開放して居住させることになる。従って、抱主に比較的海岸に近い裕福な地元人(農民)が選ばれていた。操業のがぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などが肥料として抱主に提供された。
 明治五年(一八七二)壬申戸籍では、来住漁師は寄留者として扱われていた。親村の岩城の戸籍によると、高浜へ四戸、興居島へ二一戸、浅海ヘ一四戸、計三九戸の寄留が記録され、これは全漁業戸数一三二戸の三〇%を占めていた。中島でも来住漁師は寄留として戸籍簿に収録され、その数は大浦・小浜・長師・宮野・神浦の五か村で二八戸であった。中島の粟井に所属した大泊は、岩城・粟井両壬甲戸籍に記されておらず、まだ集落は形成されてなかった。菊間浜村の明治一三年寄留税を負担した数は、能地系二八戸、岩城系二三戸で計五一戸となっている。

 土豪層の漁村化

 旧野間郡に含まれ松山藩に属していた小部は、藩政時代から漁業の勢大地域であった。明治になってからも、そのまま引き継がれ、旧松山藩領内村々の明治一七年(一八八四)の漁船数では、一四四隻で新浜村についで多い。
 小部の現在戸数ほぼ六〇〇戸、このうち木村姓、菊川姓が各二〇〇戸で圧倒的に多い。小部漁協横の小高い丘に地蔵堂があるが、これと並んだ堂宇に四基の大きな墓がある。向かって右の二つが木村姓の祖先、左が菊川姓の祖先と称してあがめている。この文字を判読して表記した。死亡年代は永正五年(一五〇八)~慶長五年(一六〇〇)であるが、もちろん後年に建てられたものもあろう。しかし開発状況を示す資料としても貴重なものである。この中に小部開発の始祖とした木村新兵衛の墓石がある。この木村新兵衛については、淡路志智城主(一・五万石)加藤嘉明が、文禄朝鮮の役で水軍の総師として活躍した功績で、文禄四年(一五九五)正木(松前)六万石に栄転し、伊予入国のさい新兵衛を伴った。この新兵衛によって開発されたのが小部村であるとしている。(小部菊川家文書、文政一年)従って新兵衛は淡路の出身で、しかも水軍に関係があったことは、その死亡年代からも不合理はない。菊川姓の祖先とされた墓石の中に大居士名が刻まれているが、これは中世の土豪で名門と考えられる。四つの墓石は左から右に順次死亡年代が新しくなっているので、あるいは同じ家系のものとも考えられる。
 藩政時代に小部で各種の網が創始されているが、ゆるやかにカーブした小部の地形はイワシの回遊には最適で、イワシ地びき網が中心であった。イワシ網の先進地は淡路で、この点新兵衛との関連が想定される。伊予水軍の河野一統の出身としている椋名・吉海・大浜などの漁師(ただし来島は網も多い)が一本釣を主体とするのに対して、小部は典型的な網漁民であった。
 今治沖大島にある椋名は藩政時代今治藩に属した村方であった。明治初年の今治藩旧慣調べ(水産例規)によると、椋名庄屋柳原氏は、河野氏の出で柳原俊久のとき風早郡柳原之庄を与えられ、後の永禄九年(一五五六)椋名・田浦両村を所領し、天正のころ椋名村に居所を移し、慶長年間にイワシ網を開発したとされている。寛文年代には庄屋に任命され、スズキ網の今治藩領内地先網代を与えられ、この直後に一族を庄屋として残し、大浜村庄屋に移った。明治一七年の漁船数のうち椋名村は総数八八隻のうち網船八隻を除く八〇隻が釣船、大浜村は二六〇隻のうち二五〇隻、宮窪村は七三隻がすべて釣船で占められ、小部村の一四四隻中一四隻の釣船を除く一三〇隻が網用船であるのと比較して漁村の性格を異にしている。
 南予一帯は、天文一三年(一五五四)から大友氏の侵入、天正四年(一五七六)以降長曽我部氏の侵入、特に土佐は一条氏、そして慶長五年(一六〇〇)の長曽我部氏の滅亡などで、多数の落武者達があったが、尾根・谷・入江・半島などのある複雑なリヤス式海岸は格好の受入れ場所であった。しかも当時内海浦・外海浦の開発も進んでなかったことも有利な条件となった。
 内海浦家串は、土佐の土豪古良氏の一族が来住して開発されたとしている。吉良氏は家串の村君とし本網(慶長一九年伊達氏入部以前からの網)と結出網(寛永二年許可される)を所持しており、従って家串への来住は慶長一九年(一六一四)以前であろう。寛文七年(一六六七)戸数一七戸は、明治一〇年代の宇和郡地誌によると戸数一〇五、人口五六六人にも達している。なお吉良氏は巨大な網元に発展し、旧漁業権のうち特別漁業権数では内海村の半数を吉良氏個人が所有していた。

 計画的な漁村の成立

 西条市明屋敷の通称喜多浜(北浜)の漁業集落は、享保一三年(一七二八)、同一四年にかけて、新居浜浦漁師の移住によって成立した漁村(漁師町)である。
 西条藩は、寛文五年(一六六五)城主一柳監物の改易で、城地・士族屋敷が不要(明屋敷)になり、町方支配に渡された。五年後松平氏の入部の際、陣屋町(松平氏は江戸定府のため城下町は不要)の建設に約半分が振り向けられた。残り部分は享保一三年明屋敷分として庄屋を設置し、村方支配に切り換えた。これを機会に明地への入居策が採られ、御陣屋川西岸地区に新居浜浦から三二戸の漁師が来住することになった。
 新居浜浦は漁業中心の集落で、比較的規模の大きな網漁業を営む東須賀漁師と、小規模の手繰網を中心の中須賀(西須賀)漁師の二つの集団に区別され、両者間に漁場をめぐる紛争が絶えなかった。寛文六年(一六六六)の戸数二五六、人口一、五二三人であったものが、享保一三年、一四年に西条へ移住はしたものの、天保一〇年(一八三九)前後には戸数六〇五、人口二、九八六人に達し、なお西条へ移住した三二戸の漁師も同年には八五戸、三六五人に増大した。従って新居浜浦からの移住は、漁師数の増大に対応した新しい漁場を求めた移動で、これがスムースに受け入れられたのは、地元漁師の少なかったことによるものである。
 寛永一二年(一六三五)の大洲、松山両藩の替地実施によって、郡中地域が大洲藩に編入された。この海岸の北半分は海岸砂丘や湿地帯、南部には海岸段丘があって、漁村の立地、背後農村の漁業化にも恵まれず、漁師数は極めて少なかった。このため、地先海面を確保すること、参勤交替の要員(水主役)確保、海上交通の発達、在町の育成のためにも、漁村の成立と発展は、替地以後の急務であった。大洲藩は替地直後、下吾川村の竿先原(戦場原・牛飼原)に、南北四町一四間余(約四七〇m)東西四〇間(七二m)を選定し、これを小川町(後の湊町)と呼ぶ漁師町を計画した。まず漁民を募り、地元米湊(小湊)、下吾川その他替地から一〇戸を取り立て入植させたが、ほとんど定着できなかった。ところが元禄ころから在町が次第に発展し、上灘から網元(イワシ地びき網)の入植もあって、来住者も次第に増加した。明治一七年の統計書によると、湊町の漁業戸数は一一四、漁師数六一七(専業率一〇〇%)、漁船数一〇六にも達しているので、漁師町として完成したと言えよう。
 三浦半島(現在すべて宇和島市に含まれる)最先端にある大島(地の大島)は、吉田藩のこも淵浦に属していた。寛文九年(一六六九)新浦に取り立てられ、同一一年本網一帖が許可された。この新浦造成の際、計画的な開発が実施された。寛文九年、こも淵浦には七帖(本網六、結出網一)のイワシ網が免許されており、このうち「地ノ大島 こやノ前」を網代とした結出網と本網一じょうが転退(中絶)していた。結出網は一般に新浦開発の場合に免許されるもので、地の大島の結出網は、もちろん網小屋は設けられたが、定住集落のないまま許可された。従って漁獲が減少した場合に、この不便さが転退の原因となったものであろう。本網・結出網の転退は藩収入に直接かかわるため、藩としても放置できない問題であった。寛文九年春、地の大島を新浦に取り立て、この開発を北灘浦庄屋(鵜の浜居住)に命じた。護岸と宅地造成、家屋の建設などの工事が、北灘・将淵・下波浦の輪番制の労役で進められ、同年一一月完成した。このため網代の名称も「こやの前」から「家の前」の名称に改められた。家屋は東西に二列に並び、一二戸建てられ、各地から一二戸が入百姓として入植した。庄屋弟が村君となり、入植者一二人は全部吉田領内からである。最遠は瀬戸内側の西宇和郡にある喜木津浦、また吉田城下の商人も含まれていた。そして同一一年には本網一帖が許可された。もともと結出網が復活するのが当然であるが、将淵浦の本網一じょうの転退と振り替えたもので、藩側の新浦育成の意欲が示されている。
 外海浦に含まれた麦ヶ浦は、明治四年内泊の二、三男の三〇戸が共同開墾をして集団移住した新浦である。宅地の一戸分四六坪~四八坪(約一五一~一五八㎡)で、これを一屋敷と呼び、これに畠二反を割り当てている。このうち四戸は二屋敷を持ち、従って畠も約四反を所持していた。同一二年には麦ヶ浦は四七戸に増加した。


表1-6 能地漁民の出稼地の初見年代

表1-6 能地漁民の出稼地の初見年代


表1-7 出稼先寺院過去帳に記録されたもの

表1-7 出稼先寺院過去帳に記録されたもの


表1-8 松山藩関係村々煎海鼡供出高

表1-8 松山藩関係村々煎海鼡供出高


図1-3 漂泊的出稼漁民の入稼・定住地

図1-3 漂泊的出稼漁民の入稼・定住地


表1-9 四基の墓表

表1-9 四基の墓表


図1-4 地の大島 (大島) への入百姓の出身地

図1-4 地の大島 (大島) への入百姓の出身地