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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第四節 久万林業


 久万林業発祥の地となった大宝寺の沿革

 上浮穴郡久万町の中心街の東方に、うっ蒼たる森林に囲まれた四国八八か所の霊場菅生山大宝寺がある。大宝寺は、文武天皇の大宝五年(七〇一)、百済の聖僧が一一面観世音像を奉持して日本に渡来し、この地に草庵を造り安置したと伝えられている。その後、弘法大師が四国巡礼の際、この寺を四四番の霊場とせられた。大宝寺とは、当時の年号によって名付けられたものである。
 天正年間、土佐の国主長曽我部元親が遠征の時に、本寺は兵火に罹り、記録はことごとく焼失したという。その後、文禄年間に至り、久万山が加藤嘉明公の家臣佃次郎兵衛の知行所となった時、仏祠として大宝寺再興のため、二六石を寄進した。大宝寺中興の主、法印斎秀和尚は、今を去る二八三年前、元禄一四年(一七〇一)伊予郡市坪村(現在の松山市市坪町)に生まれた。父は池之内久左衛門(この子孫は明治以降池内と称す)と言った。年僅か七才で仏門に入り、市坪町の玉善寺、さらに太山寺、観音寺(唐人町)、長谷寺(奈良)、室岡山蓮華寺(姫原)と遍歴され、其の間に立派な修業を積まれて、元文五年(一七四〇) 一〇月七日四〇才の時、久万山菅生山に入られ、大宝寺第四世としての法統を継いだ。
 その当時の大宝寺は、松山から東西に遙かに望む、急峻な三坂峠を越えて下ること約四㎞、久万盆地の山ふところ高台一帯に茂る菅の中にあった。保元年間に、後白河天皇のご病気平癒を祈願せられたところで、霊験あらたかにして間もなくご回復された。その後、諸病祈祷所として、広く久万郷一帯の信仰を集めている由緒ある寺院であった。斎秀和尚が大宝寺の方丈となった翌年、即ち、寛保元年三月八日(一七四一)久万山百姓一揆の発端が現われた。この久万山騒動は、享保一七年(一七三二)の大飢饉後、僅か九年後のことで、久万山が飢饉のために受けた痛手が十分に回復出来ていない時であっただけに、いっそう反抗心を強めたことであろうと考えられる。
 時の松山藩家老奥平久兵衛は、久万山六、〇〇〇石に目をつけ、これに重税を課した。これがついに農民の反抗を呼んだ。年貢どころか、その日暮らしに困るようになった農民は、もはやこれまでと八か村の農民代表が、三坂峠を一気に下り、藩に直接訴えようとした。いったんは代官関助太夫の手で治まったかに見えたが、その解決が十分つかぬまま、遂に七月初旬には百姓どもは、今度は大洲へ無抵抗で逃散という騒ぎとなり、大洲の加藤公にお願いして、一切をおまかせすると称して、七月一五日には大洲中村まで進み、その時の人数は二、八四三人であったという。松山藩としては、手を尽くして鎮圧のため、役人をつぎつぎと入り込ませ、種々説得してみたが、一向に耳をかさなかった。万事窮して代官関助太夫は、遂に久万農民に絶対信頼され、徳風四隣に及んでいた大宝寺の斎秀和尚にすがりついた。和尚は最初は辞退したが、久万農民救済のため、遂に重大決意のもとに、和解の一〇か条をつくり、内五か条が聞き届けられたら、引き受けようと申し出た。藩は最初は返答をしぶったが、和尚の誠意のあふれる気魄に胸を打たれ、遂にこれを了承した。
 七月二四日、和尚は菅笠に旅衣をまとい、大洲藩へと国境を越えられた。「院主さまが来る」と、久万山農民たちは高徳の和尚に対し、手を合わさんばかりの歓迎ぶりを示したが、こと久万山へ引き揚げの問題になると、にわかに表情を変えたが、農民たちに有利な和解条件を誓い、誠意をもって説明してこれを納得させ、農民全部を久万郷につれて帰った。その後、和尚は藩と農民の間に立ち、さしもの騒ぎも農民側に一人の犠牲者も出さず、地元民の有利なように完全に治めた。実に斎秀和尚一人の功績といってよい。
 松山藩は、その褒賞に永世寺禄として一五〇石が、毎年大宝寺に寄進され、以来大宝寺の規模は拡張し、その後、盛運の一途に輝いた。
 また、和尚は「非石」と号して俳句をよくした。寛保三年(一七四三)俳人小倉志山の発願で、芭蕉塚の建立計画が立てられるや、和尚は協力して菅生山にこれを建立し、「菅のやま奥もこころや霜夜塚」の名句を残した。
 斎秀和尚は、宝暦九年(一七五九)一二月三日入寂した。享年五九才。大宝寺中興の主と仰がれ、その墓は大宝寺の近くの美しいカエデの生い茂る小さな丘の上にあり、歴代の院主にとり囲まれて安らかに眠っている。
 大宝寺の周囲にある樹齢一〇〇年に近いスギ・ヒノキは廃藩置県によって、寺禄の寄進が無くなったので、大宝寺の基本財産として、井部栄範氏らが植林したもので、久万林業発祥の資料として尊い存在である。

 久万林業の概要

 1 地域
 愛媛県の中南部、上浮穴郡の北の玄関、三坂峠(標高七一六m)に端を発する久万川(仁淀川の支流)をはさんで、両側に山頂まで手入れのゆきとどいたスギの美林が連なっている。この素晴らしい林相と生産せられた美しい膚の丸太は、林業に関心のある人達を驚嘆させてきたが、これを誰言うとはなく久万林業と呼ぶようになって来た。従って久万林業の地域は固定的なものではなく、従来は、久万川と有枝川、二名川の流域即ち久万町と美川村の一部を指していたけれども、最近では、久万林業の地域が次第に拡がりつつある。

 2 特色
 久万林業の特色については、人によって異論もあるが、少なくとも次の諸点があげられる。
 (1) この地方では従来から密植するのが通例であったが、最近では尾鷲(三重県)地方と同様の密植を行っている。植栽する苗木は、ほとんど全部が実生苗であって、一般には一町歩当たり五、〇〇〇本から六、〇〇〇本を植栽するが、最近では七、〇〇〇本から九、〇〇〇本ぐらいを植える者も増加してきた。
 (2) この地方では、実に入念な手入れをしている。即ち、余裕ある労力にまかせて数年間入念な手入れを行ない、一〇年生頃から丁寧な枝打ちが施行される。また密植されているから、一五年前後から保育間伐を行ない収入をあげはじめるのが通例である。
 (3) 前記のように密植して早くから間伐するため、自然と小丸太(五・五寸下)生産が多くなるが、そうした間伐と入念な枝打ちの結果、まっすぐで無節の中目(六寸上、尺下)丸太も多量に生産される。
 (4) 造林品種は吉野杉系統のものが多い。久万林業の技術は、当初和歌山方面から入って来たため、造林される樹種の八割はスギであり、しかもその大部分は吉野系のものであった。ヒノキは約一割五分程度にすぎないが、材質は優良である。マツの造林地は、ほとんどないが、天然の優良木が生産される。また、クヌギの造林は全造林地の六~七%に達し、優良な木炭やしいたけ生産の資源となっている。しかし、これら造林樹種の品種については、近年いろいろな検討が加えられている。
 なお、木材価格の漸騰は、全般的に林業知識水準の高いこの地方の林業家の短期育成についての関心を高め、近年品種の改良辛林地肥培を行なう者も増加し、回転の早い企業林業としての新しい姿が生まれつつある。

 3 沿革
 久万地方で人工造林が行なわれるようになったのは、明治初期である。
 久万造林株式会社は大正二年創設され、井部栄範が初代社長となった。井部栄範は明治二年久万町の菅生山大宝寺に来住し、当時の世相と山林の荒廃を深く憂慮し、久万地方の産業の基幹は、林業であると着眼し、還俗して、植林の奨励をすると共に、自らも大いに植林に努めた時から始まる。
 井部翁の造林指導は、菅生山を中心として次第に四方に波及し、恵まれた自然条件がその熱意を援け、現在の久万林業の基礎を造ったのである。井部翁は和歌山市の出身であったから、指導された造林方法も吉野林業を基本としたものであった。しかし、その後における経済的事情や木材需要動向の変化は、この地域の林業を逐次短伐期林業に移行させてきている。

 4 久万林業の現況
 (1) 環境
 従来の久万林業は、久万町を中心とした約一万五、〇〇〇町歩の地域にわたり、上浮穴郡内において比較的耕地に恵まれた地域であるが、総面積の八一%が林野で、耕地は僅かに八%程度である。農家一戸当たり耕地が五反四、山林は六町二で、農業による所得は年額一〇〇万円程度であるから、林業による収入に依存する割合が大きい。
 標高五〇〇m以上の山間地で、最高気温三二度C、最低零下一五度C、年間平均一三度Cで、松山地方に比べて五度位低く、降雨量は年間二、三〇〇㎜を超え、松山地方に比較して七〇〇㎜程度多い状態である。
 地質は輝石安山岩・凝灰岩・角硅岩で形成する石鎚層群(新第三紀―火成岩)と、礫岩・砂岩・頁岩で形成する久万層群(古第三紀―堆積岩)が複雑に混交している。したがって、土質も複雑であり地味の変化も激しい地帯である。
 (2) 林況
 久万林業地帯では、スギの造林は立木地面積の六五%(蓄積では七〇%)で、スギ・ヒノキ合わせると七五%余となり、よく人工植栽が行なわれている。しかし、幼齢林が多いので、一町歩当たりの平均蓄積は、スギ三〇〇石、ヒノキ四五〇石、スギ・ヒノキ平均三五〇石という状態である。

 久万凶荒予備組合と組合林の沿革

 上浮穴郡において、全国的に特異な存在となっているものに、久万凶荒予備組合がある。
 その沿革は、安永四年(一七七五)松山藩主久松定静公の時、農作の凶荒によってしばしば起こる飢饉に備えるため、非常囲籾という救凶政策がたてられ、農民に籾を共同積立させたのであるが、久万山にはこの外に松山藩より下付された赤子養育米・明門元備之金・風損元備之米金・畑所年貢米直違金・郡役人差配金等の米や銭の積立があった。廃藩置県の際、これを久万山の大庄屋に引き渡されたのであるが、その額は米が一、六一四石六八、銭が二、三六三円九九銭という。その当時としては巨額なものであった。その後これを久万山共有積米金と名付けて、久万山凶荒予備取扱人を経て、久万凶荒予備組合にょって維持管理され、旧藩時代の凶荒救済の主旨に従って、久万山の災害や貧困者等の救済が続けられてきた。
 この久万山共有積米金の増殖を図るため、井部栄範や郡長松田虎次郎の指導によって、森林の造成を計画し、大川嶺(美川村地内)を初め数か所の造林に着手した。なかでも大川嶺(一、〇〇〇m)の造林地は、実測一〇一町余で、五〇年前の雑木草生の荒地が、現在全山二〇年~五〇年生のスギ・ヒノキの美林となって、間伐により年々巨額の利益を得ている。
 久万山凶荒予備組合は、災害並びに貧困者の救済ばかりでなく、育英資金の貸与や公益事業に多額の金を支出し、久万郷の産業文化福祉に関することで、この組合が関与していないものがない程に貢献している。将来はこの組合林の収益で、いっそう公益事業を推進することができるであろう。