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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第三節 今治市玉川町朝倉村共有山組合林


 組合林の沿革

 明治一七年と一九年の豪雨は、蒼社・頓田の両河に漲り濁流は岸をかみ、堤防は決潰寸前となったが幸いにもこれを防ぎとめることが出来た。当時青年であった当組合の大恩人曽我部右吉翁は、この濁流と奈良原連峰の荒れ果てた草山を見つめ、堤防の安全を守るためには、この草山の植林以外にはないと悟ったのであった。しかし、この草山は官有地であるため、植林するわけにはいかなかった。そこでこれを民有林に払い下げてもらうべく、関係先に再三再四要請の結果、遂に多年の念願が叶えられ、明治二四年一一月越智郡日高村外一三か町村の組合林として、無償で払い下げられた。翁は組合議員桜井村長として、組合林の運営管理に参画することになったが、未だこの広大な山には一本の木もなくただ地元の農家が草刈山として、利用されているにすぎなかった。
 明治二六年一〇月一四日降り続いた豪雨は、遂に蒼社川南北両岸の堤防を決潰し、河南・河北は一瞬にして泥海と変わり、人畜の死傷、家屋の倒潰、田畑の流失など、目も当てられぬ惨状を呈した。この甚大な被害は上聞にも達し、御内帑金の御下賜、片岡侍従の御差遣もあって、翁は心を痛め、なお一層治山治水の重要性と必要性を痛感したのであった。
 明治三一年県会議員に選ばれるに及んで、治山治水の重要性を各方面に力説し、県に山林技師を置くよう提案し容れられ、技師を招いて県属二名を配し、地方課に山林係を設置し、県林務行政の生みの親となった。翁は早速この技師を迎え、共有山を視察してもらったところ、植林は極めて有望であるとの報告を得た。
 明治三五年初代組合長となり、いよいよ造林に着手した。しかし、地元の農家より草刈場がなくなると、強く反対されたが、説得に努め、五〇町歩、一〇〇町歩と徐々に、植林を進めていった。明治三七年には、この山を直営林・部分林・学校林に分けて、土質に適するようなマツ・スギ・ヒノキを早く植林をするよう奨め、自ら苗木を背負い鍬をたずさえ、雨の日も風の日も率先して植林を推し進めていった。
 翁は在任一四か年で辞任、昭和一〇年再び組合長となり、昭和二三年公職追放まで、組合林の造成に精魂を傾けた。この間風雪五〇年、特に昭和一〇年頃組合は貧之のどん底、伐る木は無く、手入れはしなければならず、金は無く、仕方なく山と立木を売って窮場をしのいだこともあった。やがて山の木もすくすくと成長し、順次伐採も出来るようになって来た。昔の荒れ果てた奈良原連山の草山は、緑と変わり蒼社川の堤防は安らいで、麓の村や町は災害から救われ、蒼社の清流は綿業を起こし、五穀豊饒の理想郷と変わり、翁は緑化の父と仰がれた。翁は、とにかく山に行ったり、山関係の仕事をすることが大変楽しく、好きで生涯山を愛し続けた人であった。
 昭和三一年九三才の長寿で亡くなられる二、三日前、意識は朦朧としてうわごとばかり言っておられる時、共有山関係の方たち四、五人がお見舞いに行かれたところ、むっくりと起き上がり、「わかるわかる御苦労さんじゃのう。しっかり頼みますぞ」と、全く正気に返って応対されたので、居合わせた人たちは驚くやら、嬉しいやら感激するやらであったという。とにかく若い時から、手塩にかけた山の事は、骨の髄までしみ込んでいたのであろう。

 曽我部翁の詠まれた歌を紹介しておく。
『植林の往時を追憶して』
苗植えし其の夜に聞ける雨音は笛やつづみに勝るたのしさ
草山を木山に直す五〇年 降る年もあり照る年もかな山を越えつかれしあしを鶯のたち止まれよと鳴くぞうれしき

 曽我部右吉翁頌徳碑

建立場所 越智郡玉川町法界寺
昭和一八年一一月建設
碑文 翁ハ本郡桜井ノ人俊敏剛直大度アリ維新後山林濫伐ノ為水源涸渇災害頻発スルヲ歎キ率先唱導植林事業ヲ創メ明治三十五年組合長二就任刻苦経営十四年内機構益々堅ク外業績大ニ揚リ造林二千余町歩規模広大全国稀也翁功成リ大正四年辞職セシガ昭和十年再任シ林道ノ改修造林ノ整備愈々適切山林ノ時価数百万円二上リ特二大東亜戦争用材供出ノ功著大也而モ創始以来約五十年高令八十猶壮者ヲ凌キ精励日夜懈ラズ功労更二累積ス仍チ翁力盛徳ヲ天下后世二伝ル為餘二之ヲ建設ス 
      昭和十八年十一月吉日 今治市及越智郡日高村外九ヶ町村組合
 故曽我部右吉翁は、今治市、玉川町及び朝倉村共有山組合の設立と前後三〇年間に及ぶ長年に亘り、同組合長として二、〇〇〇余haに及ぶ草山の造林並びに管理に心血を注ぎ、稀に見る美事な山林を育成し、治山治水に共有山組合経営の基盤確立に、地方財政の向上に大いに貢献し、人々から緑化の父と仰がれている我々の偉大なる大先輩である。
 翁はその他、郷土の先覚者として明治二七年桜井村長就任以来町長を経て、二七年の長年町政に、また、郡、県会、帝国農会の各議員、四阪島煙害同盟会代表とあらゆる分野に活躍、数多くの功績を残し、その受賞も地方自治功労、四阪島煙害問題解決、植林事業に関してと、数え切れない感謝表彰の栄に浴している。特に、植林事業に関しては、昭和三〇年黄綬褒章受章の栄に輝いている。林業関係の主なものを挙げると次のとおりである。

  大正  五年 共有山組合より表彰状
  昭和一三年 同右感謝状
  昭和一八年 共有山組合より頌徳碑建設(九和村法界寺境内)
  昭和一九年 下朝倉村外二〇村組合より頌徳碑建設(下朝倉村古谷)
  昭和二三年 高松宮殿下より表彰記念品御下賜
  昭和二四年 愛媛県治山治水協会長より表彰、農林大臣より表彰
  昭和二九年 愛媛県林業振興大会に於て造林功労者として表彰
  昭和三〇年 黄綬褒章受章