データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)
第一節 銅山川流域
銅山川流域開発の回顧
愛媛の民有林野には昭和二年以来、一〇〇数路線に及ぶ主要な林道が開設されている。中でも群を抜き規模の大きいのはなんといっても「銅山川幹線林道」であり、筆者(池内)の県庁勤務林道生活時代を回顧するとき、この銅山川流域開発の想い出が一番強烈な印象として残っているのである。
昭和一八年、時あたかも第二次世界大戦が熾烈をきわめているとき、県営でこの林道の第一歩が印されたのである。以来、春風秋雨三〇幾星霜、銅山川流域二万ha余に及ぶ林野を開発すべく、旧宇摩郡新立村大字市仲(現新宮村)から、金砂村及び富郷村(現伊予三島市)を貫き、終点別子山村中七番に至るまでの五〇余㎞に及ぶ大幹線林道である。さらにこれを骨格に支線として中之川線、上小川線、猿田線を、また標高八九二mの翠波峰に県下最長の法皇トソネル一、六六三mを掘さくし、峰越で銅山川流域の中央部を伊予三島と結ぶ宇摩嶺南開発林道の開設へと発展していったのであり、その総延長が一〇〇㎞にも及ぶ一大林道網の整備を達成したのである。「山青くして水清き銅山川を訪ひくれば、遠々、連なる林道に翠波の峰を仰ぎつつ、額に汗する測量隊、平面、縦断、横断と、頼む蔦に身を宿し、断崖をよじ又下る、延々三〇余粁の大測量に邁進す。」
昭和一七年一二月に編成された大測量隊はこれを歌いつづけて完成に努力したものである。
この林道では、長さ六〇m級の橋梁四基、一〇m前後級が一〇数基、よう壁、排水工等あらゆる工作物の施工があり、当時、本林道で研修を終えない者は一人前ではないとまでいわれたものである。
次に出合わしたのは、前述した法皇トンネルの開さくであった。昭和三五年、伊予三島市の融資林道事業として、県の設計監督で幅員四m、延長一、六六三mを施行したのである。トンネルの中央部附近に破砕帯があり、大部分が素掘であったため、しばしば落盤の危険にさらされていた。
そこで昭和四二年に林野庁の査定をうけ、国庫補助の林道改良事業で工事費九、八九八万八、〇〇〇円をかけて素堀り部分一、一五九mの切り拡げと、建築限界四m、厚さ〇・三mのコンクリート巻立を行なった。さらに既設巻立分五〇四mのうち特に漏水の危険が著しい一五〇mの部分にダラウトエを施行した。このように難工事であったうえに、当地としては六〇年ぶりの大雪に見舞われ、係員一同大変な苦労をしたのである。幸い請負業者鹿島建設の優秀な技術とブルドーザーによるロードクリーンの路面撒布や除雪作業をすすめ、昼夜兼行、事業の完遂に努めた結果、予定どおりの期日に竣功をみたのである。本隧道は延長においては当時、林道としては、本邦第一のものであり、建設省関係工事と比較してなんら遜色のない最高のものであったと自負しているものである。
このように僻遠の地、銅山川流域において、血のにじむような努力をして開設してきた林道も、今やその大部分が県道あるいは市道に編入されている。我等のやってきた林道が、一般道路となんら差異がないということを実証したことになるのであるが、それでは初めから一般道路として建設すればよかったではないかという人がいるかもしれない。ともあれ、当時貧困な山村地域では「林道」の名のもとに道路網の整備を進めなければ、その開設は実に百年河清を待つに等しい状態であったことを回顧すべきである。