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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

二 県下各藩の林政

  1 西  条  藩

 藩政以前の林野

 応仁の乱(一四六七~一四七七)後、百余年織田信長が一応天下を統一するまでの間は、西条地方も群雄割拠、各地で戦闘に築城に明け暮れて、山林は荒れるにまかせていた。この様な時代でも、神社・寺院の境内の山林に対しては、禁伐が実施されていたようである。室町時代永禄二年(一五五九)西条地方の領主と見做される石川虎竹が、保国寺に対し、禁制七か条の内に山林竹木伐採について、違犯の輩は厳罰に処する旨下知している。東予地方においても、石鎚山をはじめ一宮神社の樟樹林・奈良原山・横峯寺・西山興隆寺・三角寺奥の院などの樹叢、寺院の山林などは古くより保護されて来た。なかでも、丹原町の福岡八幡神社の樹叢の如きは、第一項の概要でも述べたように、全国有数の原始林として現在国指定の天然記念物となっている。なお、世間では、今も社寺の樹木は罰が当たるとて極度に畏れ、枯木の枝を焚くことさえ恐れる習慣のある事は、その保護の上に役立ったものと思われる。
 織田信長及び豊臣秀吉によって、永年の乱世は平静に復したが、秀吉は大規模な土木建設の事業を数多く進め、大阪城・伏見城等の築城、京都方広寺の大仏建立等を遂行した。これ等の大建造物を実現するために、地方の諸大名に資材として第一に巨大な木材の供出を命じた。木曽・吉野方面の木材は勿論、都より遠く隔てた伊予にまで、その割り当てがやって来た。
 慶長元年(一五九六)の大地震で京都に建築されていた大仏殿が破壊されたが、秀吉の死後、その子秀頼の時、家康の勧めによって慶長一五年(一六一〇)六月再建の工事を起こした。旧記によれば、この大仏殿の用材を伊予の石鎚山地域に求め、その伐木及び運材の奉行を、福島正則が勤めている。機械力のない当時、険阻な石鎚山中から巨材を伐り出して、おそらく加茂川を水運によって、麓の平野までおろし、古川の港から船や筏に積んではるばる都に運んだ奉行福島正則の苦心はなみなみのものではなかったと想像される。
 福島正則は、天正一五年(一五八七)伊予一一万石に封ぜられ、初めは道後湯月城に居たが、後まもなく越智郡国分山城に移り、その東麓の高台に居館を築いて此処に居たが、二〇万石に加増されて、尾張の国清洲城に移るまで、約九年余り伊予に居た。

 木材の流通と慣行

 江戸時代になり、西条藩が設置され、一柳氏改易後、寛文一〇年(一六七〇)紀州和歌山藩の支藩として、松平左京太夫頼純公が三万石をもって封ぜられた。同藩の林政についての職制は、山奉行・お山方・山廻などの名称がつけられた。西条藩は領地こそそんなに広くはないが、良材の出る林野を持っていたので、用材・薪材と共に他国へ移出することが多かった。西条誌によると、「西条藩の管内の諸山は峯が高く、谷が深く、四国で最高であるばかりでなく、山陽道・東海道の二道と較べても決して見おとりするようなことはなく、なかんずく、石鎚山・瓶ケ森・笹ケ峯等の多くの高い峯が、土佐の境まで遠く続いていて、山々の峯々には、樹木が天を覆うて生い重なり、現地で伐倒しだのは乾くのを待って加茂川に流し、河口燧灘の古川にある土場に積み集め、その高きことは小山の如く、長きことは堤のごとし。」とある。
 讃岐の小豆島・摂津の兵庫・神戸・備前・備中・備後・播磨などの国々より、買船が来て積み帰るいっぽう、こちらからも積み出しを行い、古川土場の繁栄は大変なものであった。なお、この古川土場には材木問屋があり、他国へ移出する林産物に対して運上(租税)を藩に上納させていた。販売に当たって大阪には倉庫を設け、「大阪役」を派遣し、(初期には蔵屋敷も置いた。)大阪商人の蔵元・掛屋・用聞等の協力を得て、順調に巨利を獲得した。
 また、藩有林野の保護管理の一法として、領民をして藩有林の良木を保護させ、その労力に対する報酬の意味をもって、下草や雑木の類を下付する制度をとった。
 別に、入会山の制度も行なわれた。入会山は古くから行なわれていた慣行であるが、肥料としての草・柴・笹の類、牛馬の飼料としてのまぐさ、燃料としての薪・下枝・炭木・落葉などを慣習上の権利に基づいて、一定の山林・原野に入合い採取することを許された。当時の入会山は、氷見村山・坂元村山・西泉村山・免之山・黒瀬村・大保木村・小松御領横峯千足山などとある。この外、ほとんどの村々に入山すべき入会山を持っており、領内の住民は精出して体を使えば、薪・肥料などの資材入手には困らなかったと思われる。この制度は各藩とも幕末、明治維新まで存続していた。

  2 松  山  藩

 松山城築城

 慶長七年(一六〇二)加藤嘉明公松山に城下町建設のため、足立半右衛門重信に命じて、石手川の流路を整備せしめ、重信川本流と共に、改修築堤して支流をあわせて、延々二八㎞に及ぶ長堤にマツを植樹したことから始まる。(当時のマツ苗は人工的に播種したものではなく、山野に自生していた自然生の山引苗と想像される。)時代は変わり、加藤藩・蒲生藩を経て、寛永一二年七月(一六三五)久松定行公桑名より移封、一五万石の城主として松山城に入城した。当時城山は全山はげ山で、樹木は僅かに生えている程度であった。藩主定行公は命じて、麦・粟などを蒔かせて鳥類が群集するようにした。これは鳥の糞中の植物の種子から実生させて、樹木を生い茂らそうとした。なお、これのみでは不十分なので、日向の国からマッの実を取り寄せて蒔かせた。現在、松山城の北面には雑木が多く、南面の陽地にはマツが多いのは、これがためである。
 加藤嘉明公の築堤した重信川(石手川も含む)の堤防に植樹したマツも、きびしい掟を設けて保護した。堤の植樹は久松定行公の時、松山城の植樹と同様の工夫考察がなされたことは、今から十数年ぐらい前まで、一番マツと称せられる樹齢三〇〇年に余るマツの大木が一、二本残っていたのでも判かる。度々の出水で流失破損したので、歴代の藩主が植栽に努力したが、その活着発育は容易でなく、その上、川沿の住民が薪炭の料にするため、根こそぎ堀り取り、盗伐するので、この育林の苦心は大変なものであった。そこで藩は石手川堤防林を禁伐区にし、これを犯す者は極刑に処する旨の布令を出した。ところが明和三年(一七六六)の秋、持田の真南の堤防で、最も大切にしていた三番マツといわれる若マツが十数本根こそぎ抜採され、その被害が随分ひどかった。しかし、その盗跡に持田村民らしきものが見られたので、村民は老幼を問わず次々と呼び出され、きびしい取り調べが連日にわたった。このため疲労困ぱい、一村をあげて火の消えたような有様であった。
 時に、この村の貧しい百姓の一人太郎兵衛は、この有様を座視するに忍びず、自ら罪を一身にひきうけて自首し、村人の難を救った。老躯獄裡の苦に耐えず明和四年(一七六七)二月一七日牢死年七〇であった。村人はその義心に感激して、これを神として祀った。
 堤防の樹々は大切に育てられ、戦前(第二次世界大戦)田村林学博士によって、世界無比の壮観と賞讃されるほど美しい堤防となった。
 現在一級河川として建設省直轄河川の認定を受け、河川保護の面から築堤の大木は枯損後根の腐敗、並びに台風時の樹木の震動で堤防を弱めることから、全面的に除去され、僅かに部分的にその面影をとどめている程度になっている。
 松山藩は、西条・大洲・宇和島各藩に比べて、藩有林として人工造林による山林は全くなかった。松山藩の林政史と言えば、前述の城山の植林と石手川堤防の植栽ぐらいのことである。もともと封建時代には、山そのものは全部藩の所有であって、そこにある材木は全て藩有林であったことには違いないが、ここで言う藩有林とは、藩が直接林業経営を行なった山林をさすのであって、松山藩には、そのような歴史に残る山はない。道後平野に住む領民から一俵でも多く年貢米を取りたてるために、その代償として山林を百姓山とか、入会山などの名称で、領民の生活に必要な山の産物を採取する権利を与えた。
 封建時代の山林は、全て藩の所有であったから、無断伐採はかなり厳重に監督されていた。松山近郊の山でも地質と雨量さえ十分であれば、現在国有林の奥山にしか見られないようなクス・ケヤキ・ツガなどの原生林が相当繁茂していたものと想像される。
 当時、山林の過伐は木材の需要も少なかった関係で、比較的少なくて、山はそんなに荒廃されなかった。
 松山城は慶長七年(一六〇二)加藤嘉明公が足立重信を普請奉行として、二六年の長い期間を要して築城させたものである。筒井門・乾門・乾櫓などは正木城のものをそのまま移転修築したものと言われている。これらに要した木材は、何処から伐採して搬入、建設したものか記録は見当たらないが、当時は谷上山周辺でもケヤキ・ツガなどの自然木が相当繁茂していたと思われる。現在の谷上山頂、或いは伊予市八幡宮の境内に見られる樹相が一面に繁茂し、築城の用材には困らなかったのではないかと想像できる。
 最初に建造された天守閣は五層であったが、久松定行公の時代に改めて三層にし、その後定国公の時代に落雷により焼失、弘化四年(一八四七)勝善公の代に再建した。これが現在の天主閣である。これに要した材木の記録は、当時の藩の日記によると、クス・ケヤキ・ツガ・マツ等が主として用いられ、その用材の産地は

 周桑郡丹原町大字来見   温泉郡川内町大字則之内
 上浮穴郡面河村大字杣野 松山市東野町
 伊予郡松前町大字徳丸   伊予郡松前町大字神崎
 周桑郡丹原町大字古田

以上七か所であるが、嘉明公築城当時のように松山近郊のみでは十分でなく、上浮穴郡面河村杣山とか周桑郡丹原町附近から峠を越えて、搬入しなければならなくなっていた。
 この搬入が大変である。当時、道なき道を切り開き、どのようにして搬出されたか。現地から面河川の水運を利用しても、杣野から御三戸までは流材出来るが、御三戸で陸上げして三坂峠を越えて松山までは、如何に人海、戦術とはいえ、想像を絶するものであったであろう。高きより低きに落とすのであれば、何とか無理もきくが、低きより高きへの苦闘は、おそらく切り開いた山道に、算盤桟手といって小丸太を一~二尺の間隔に敷き、これに油を塗り、その上に運搬する木材を乗せ、木材の両側に人足が十数名 鎹に縄をかけて、あたかもむかでのような恰好をして蟻の這うように引き上げたものであろう。勿論、人力のみでなく、使える処では牛、馬、車も使ったであろう。
 当時の覚書によれば、杣野村から山出しする用材は、天主閣に用いるもので、嘉永元年(一八四八)四月二一日から五月一日までの日数を要し、責任者は久万山代官、奥平三左衛門で、人足が毎日二、〇〇〇人、これらの人足に元気をつけるため、毎日酒四斗樽五丁、飯米毎日二五俵に銭札一〆五百目あて支払ったと記録されている。この搬出には藩としても相当に力を入れたことがわかる。これらは運材に要したものの記録で、これより先に現地で役人が伐採樹木の選定に引き続き、杣人が伐木、造材、集材に要した時間と労力は相当なものであった。かくして、嘉永七年(一八五四)やっと完成した。これが現在の松山城天守閣であり、その技術と使用した木材の優秀なことは、全国の城でも稀にみるものである。

 孟宗竹の栽培

 次に松山藩の林政史として特記すべきものに、竹の栽培がある。県が現在、行政上栽培を奨励しているのは、主として苦竹・淡竹・孟宗竹の三種である。苦竹や淡竹は昔から野生で繁茂し、誰が何時、何処から入手したものか判明せず、特別な保護も加えず、必要に応じて伐採利用されていた。現在、材としても食品としても、竹の王座を占めている孟宗竹は、明らかに他県よりの移入品と認められる。どのような経路で導入されたのであろうかと言う点を研究してみると、もともと孟宗竹はわが国産のものではなく、中国の産で、日本に初めて渡来したのは、今からおよそ二四〇年前の元文元年(一七三六)、第二一代薩摩藩主島津吉貴公が、中国より琉球を経て、その苗を鹿児島市磯別邸(仙巌)に移して繁殖させ、その後、安永八年(一七七九)に江戸品川の薩摩藩邸に栽植した。そしてこの二か所を起点として、日本国中に普及したことが薩摩藩の記録にある。
 当時、竹の栽培は関西では、京都山城が最も熱心で、孟宗竹も島津藩から転々として京都に移植せられ、文化年間(一八〇四~一八一七)において、竹材としての人工栽培が本格的に始められた。竹材・筍両面の生産が研究され、当時その技術はわが国で最高のものであった。各藩はこぞって山城の孟宗竹栽培の技術を取り入れ、今日の盛況を呈する基をつくった。
 本県の孟宗竹は、県下に一、七八二haあるが、その内約四分の一は松山、特に旧湯山村地区から東野に至る松山平野山麓に栽培されている。その起源について、昭和四九年発刊された愛媛の文化保護協会発行「愛媛の文化」(第一四号)に、松山市持田町の田之内能弘氏が石手川流域の伝説として、湯の山の孟宗竹筍の元祖として、旧湯山村の樽味部落に宮本作右衛門と言う人がおり、文化七年(一八一〇)お伊勢参りの帰りに、京都に立ち寄り孟宗竹の親竹二本を持ち帰り、樽味地区に植えたのが、順次広がり今日のように広範囲に及ぶ孟宗竹林が出来たとのことである。宮本家は、この二本の親竹を植えた所を二坪ばかり石で囲い、その中では筍を掘りもせず、また、親竹を切りもせず、自然の更新に任せ、一六〇有余年前の先祖の偉業を讃え、遠き昔を偲んでいる。
 この竹林は猛烈に繁茂し、一名猛叢竹とも書かれている。
 現在は松山市の住宅街として都市化が進んでいる東野附近も、昭和の初期はいたる所に孟宗の竹林があり、四国八八か所の五〇番札所繁多寺から東野へ、そして五一番札所石手寺に参る四国遍路の姿が、一面の孟宗竹藪の間にある小道を、鈴の音をひびかせて行き過ぎて行ったものである。
 また、東野附近の孟宗竹の伝来については別の説がある。松山藩第一二代久松勝善公が天保六年(一八三五)薩摩より入夫された際、孟宗竹の分根を松山城三の丸吹上に植栽せられたとも言われている。前述の湯山村樽味の宮本作右衛門が京都から持ち帰ったのより、二五年後のことになる。東野附近一帯の広大な孟宗竹林は藩の行政指導によるものである。

  3 大  洲  藩

 瀋主の奨励

 肱川流域における林政の沿革は、県下各藩とも同様、戦国時代の原始林に対する略奪的な乱伐暴採の時代を経て、人工的に多少の植林も行なうし、伐採に当たっても治水的な面より保安林的な要素をもって実施され始めたのは、今から三百数十年前、徳川時代の元和三年(一六一七)加藤貞泰公が伯耆の国(現在の鳥取県米子市)から、大洲城に六万石で移封され、大洲藩の初代藩祖として、現在の大洲市・喜多郡・伊予郡・上浮穴郡の一部を領した時から始まる。貞泰公は資性勇武にして、学問を好み善政を行なった。林政面では、冨士山・神南山を藩の直轄管理の山として保護を加えると共に、一部で狩猟を行なった記録がある。神南山の五十崎町分に狩猟を行なった太鼓櫓の地名が今も残っている。貞泰公は元和九年(一六二三)四四歳の若さで卒し、大洲藩における治世は僅かに七か年であった。その子、泰興公が一五歳の幼少の身をもって、大洲城主となり四八年もの長きにわたり、善政を施した。泰興公は中江藤樹・盤桂禅師に師事し、家老大橋作右衛門よく城主を補佐して、産業振興に努め、養蚕・ハゼの植栽・コウゾ・クヌギの植栽・スギ・ヒノキの植林を奨励した。領内にクヌギの美林が多いのは、泰興公の植林奨励のたまものである。特に、クヌギは生長も早く燃料用には最適であるとして、植栽奨励を行ったのが実ったものと考えられる。肱川流域の住民が古くから、薪炭の改善、製炭技術の改良など、山林経営の合理化に着眼し、肱川林業としての特異性を発揮するに至ったのも、泰興公の産業奨励に基因するところが大である。
 その当時植栽されたものと思われるクヌギが、郡内各所に点在しており、肱川町小藪・中居谷・正覚等には、クヌギの樹齢三〇〇年以上経過していると思われる株があり、その直径は八〇cmにも達している。その他大洲市の宇山には、胸高直径七〇cm、樹高一五m位のもの、内子町村前の九賑(くにぎ)峠には、直径七〇~七五cm、樹高一四~一七mのものが現在も厳然とそびえ、往時を偲ばせている。
       
 肱川の水運

 大洲藩にとって、藩政の根幹ともなるべきものは、藩内を縦走する肱川の水運による利用と、水害による防災であった。加藤貞泰公の入城当時は、大洲は大津と呼ばれて、上下する川舟の好適な河港が古くから形成されていた。

 治山治水

 当時、陸運の乏しい頃は、肱川による水運が最大の交通機関であった。肱川は本流の総延長一〇三㎞もの支流を合わせ、流域面積一四万余haを有する本県第一の河川である。本流域には河口に長浜、中流に大洲盆地、上流に野村・宇和両盆地あり、流域に平野と称せられるものは無く、河口に至るまで、渓谷を縫って走る先行性の断層河川である。河口長浜から中流の坂石までの距離が、四五㎞に対しその落差(高低差)が、数十mに過ぎない。満潮時には海水が五郎附近まで逆流して来る河川であって、台水時には普通の河川に見られる様な、堤防の決潰と性質を異にし、上流からの濁水が河口より逆流して来る海水と相合し、堤防を越えて周辺の都市村落を水没せしめる性格を持つ河川である。そのため台水時の被害は年々莫大な数字となっていた。その名残が現在でも、大洲盆地に建っている古い家屋の壁に、洪水の記録である水跡が残っている。なおこのしみは二重三重に残って、その家が建ってから水害の回数やその時々の水位を生々しく物語っている。肱川の洪水は、特に大洲盆地を中心とする地域に大きな災害をもたらし、米作は不能となり、水に対して強い桑とか、牛蒡 、柳等の栽培が行われた。大洲藩の記録によれば、およそ三年に一回発生し、水高六m以上の大洪水は、藩政時代二六〇年間に四〇数回にも及び、その都度、死者や負傷者が数多く出、家屋の流失があり、また、損失田畑は広い面積に及び、藩の財政窮乏を招来した。
 大洲藩は洪水時の水の氾濫による被害を、最少限度にくい止めるために、堤防に女竹を植えて、氾濫する水速の調整と流出物搬入の防止に役立たせた。肱川の氾濫は人力では如何ともすることができない問題として、昭和四〇年代に完成した鹿野川ダムの建設まで続いた。肱川利用の面では、上流域の材木・薪炭などの林産物、中流域の農産物は勿論、支流の小田川流域で生産する和紙・晒蝋・木炭などが大洲や長浜へ筏で運輸された。
 筏は、本川筋では、長さ二間の木材を幅六~八尺の舟形組にして一棚といい、一二~一六棚連結して一流とか一先と言って、二人の筏師が運航した。

 ハゼの栽培

 大洲藩の産業奨励で、特筆すべきものとして、ハゼの栽培と晒蝋の発見がある。寛保二年(一七四二)九月内子六日市、安川玄意の記録に、「唐櫨は此の春下石畳村和平治、同村庄屋伊兵衛御方にて所望、四月に入り伏せ申候様に申来り、一家中のものへすそ分け致し追々植える。其春和平治兄甚六と申す人より、苗五本申請けて山畑へ四本、屋敷西の山畑ヘ一本植える。」とあり。其の後天保元~一四年(一八三〇~一八四三)前後に至り、大洲藩内の櫨樹の栽培は年々繁殖し、一農家で三千貫の収穫を得たものもあると、大洲神社所蔵の櫨山畑光景大絵図は、シカゴ博覧会(一八九三)にまで出品したと言われている。内子町の芳我弥三右衛門が晒し蝋の方法を発見したことにより、一躍「伊予の箱ざらし」と言われ有名になった。晒し蝋はハゼの実からしぼった青蝋を水で晒すと白い蝋になるが、これについての伝説が内子町にある。
 文久年間(一八六一~一八六三)の或る夜、厠に立った弥三右衛門は、手を洗おうとした時、持っていた青蝋の一滴が手水鉢の中に落ちた。その一滴は一瞬水の中で白い蝋となって固まった。弥三右衛門はこれにヒントを得て、「伊予の箱晒し」の製法を発明、これによって芳我家は大いに商売繁昌したという。
 今、内子町の町並みの中でも、ひときわ大きい家が内子製蝋の総本家だった「本芳我」であり、その一門の「上芳我」「中芳我」「下芳我」などの豪邸も、この町筋に居並んでいる。地元内子町並びに県では、この由緒ある町並みの保存運動に取り組んでいる。 

  4 宇 和 島 藩

 山家清兵衛の働き

 宇和島は古くは板島と称し、天文一五年(一五四六)戦国時代のころ、家藤監物が在城し板島丸串城といったが、天正三年(一五七五)には家藤氏に変わって西園寺の一族、宣久の居城であった。さらに天正一三年小早川隆景、同一五年戸田与右衛門がそれぞれ城代として在城したが、そのころは番城の程度にすぎなかった。現在の宇和島市が都市の基礎を確立したのは、文禄四年(一五九五)藤堂高虎公が宇和郡七万石の領主となり、板島丸串城(後の宇和島城)を本城としたのが始まりである。その後、富田氏がいたが、慶長一九年(一六一四)になって、仙台の伊達政宗公の子秀宗公が、一〇万石で宇和島に封ぜられた。
 かくして秀宗公は翌元和元年(一六一五)三月一八日初めて宇和島城に来た。その時年齢二五歳の青年であった。
 父政宗公は、わが子の将来を心配し、家臣に手腕識見に優れた人材を配し、その補佐によって大過無きようにと考えた。この意味において、山家清兵衛・桜田玄蕃が家老に用いられ、桑折左衛門が後見役に抜擢された。清兵衛は総奉行として藩政を支配し、玄蕃は侍大将として軍政を担当することになった。清兵衛は政宗の信任に応えるため、身命を賭して秀宗に忠誠を誓ったのである。
 清兵衛は、家老として入国早々つぶさに領内を巡視し。百姓や漁民の悲惨な状態を眼前に見て、ひそかに心を痛め、民力のかん養こそ百政の先決問題であると決心した。荒廃した土地を回復し、困ぱいしている経済に力を与え、彼らの生活を安定させて、その生業に希望と喜びを持たせることが当面の急務であると考えた。そこで、彼は先ず租税制度の改革を断行して百姓の負担を軽減した。由来、租税の上納は主として米、大豆などの現物であって、その率は荘園時代から江戸幕府に至るまで、幾多の変遷はあったが、宇和郡における歴代領主の多くは、取れるだけ取れ、搾れるだけ搾れという考えであった。彼は、この弊を改めて四公六民制を採ったのである。これは収穫の四割を藩に上納させ、六割を百姓の所得にするという制度である。
 当時、全国の諸藩では、多きは六公四民、少なきも五公五民が普通であった。これらに比べ、最低の課税率を定めた。しかも、当時前領主時代からの滞納が相当大きな量に達していた。彼はこれらに対しても、一切棒引きにして、伊達藩以前の滞納は数量の如何を問わず、これを赦免する旨布告した。これと同時に、野村の緒方・岩松の小西・日振島の清家など、所謂豪士庄屋などを招いて、相談役とし大いに産業の奨励政策を樹立し推進した。
 山家清兵衛と言えば、誰しも漁業の神様のように慕われているが、漁業だけでなく、農林業諸産業にも力を致し、宇和島藩二百有余年の基礎を造った偉大な人物である。農の元は山に有りと、須賀川上流の山地に、造林を奨励し山家造林の名を今日まで残している。この造林は、水に悩む宇和島にとって、水源林として永く後世に偉大な効果を発揮して来た。不幸にもその後、彼は政敵桜田一派の陰謀にあって、殺害されたが、その後、彼の忠誠を追慕し、神として祀られ和霊神社として、毎年夏祭りには数万人の参拝で賑っている。

 林業の奨励

 清兵衛の死後も、藩主秀宗公以降歴代の藩主は、清兵衛の意志を継ぎ、林野は農民の日常生活に必要な燃料、農業生産を高めるために必要な肥草及び牛馬の飼料などの供給源として、また、紙及び蝋などの専売品の原料生産の場所であると認め、種々の林野制度を敷き、林業の奨励に努めて来た。

 宇和島藩の林野制度の概要

一、御山 藩有林であり、所有権は藩に有るけれども、諸条件のもとに下地の利用権は百姓に与えられていた。宝暦六年(一
 七五六)には農民の肥料不足のため、下草刈の申し出に対し許可をしている。

二、御手山 藩有林の一であり、相当広範囲に分布していたと思われる。御手山支配は、山奉行助役御番所勤人によってな
 されていた。

三、御立山 藩有林である。マツ山など立派な山林は、御立山に編入されていた。御立山としてマツ・スギ苗を植えなかった部
 分は、肥草山等として一般の採取を許可していた。

四、御預山 藩主が、武士・寺院等に預ける山である。したがって、武士に所有権は無く、用益権のみが与えられた山のこと
 である。

五、御用山 藩有林である。この御用山にて立木枝葉柴木等を盗取した者には、過料銭を命じ罰している。盗者を申し出た者
 に対しては、褒美が与えられていた。

六、御留山 留野、宝暦六年(一七五六)に滑床山を留山とし、木地引之者を他の山へ移動を命じている。滑床山は城下に近
 く備林に適し、また、水源林保護、風水害予防のために、留山に指定されたものと思われる。長い海岸線をもち、海軍力を
 常に保有するために、御舟手御用留山が各処にあったものと思われる。

七、御藪所・御用藪 御藪所は、御立山、御預山と同様に藩有である。度々測量がなされ図面が作製され、監理された。御
 藪所の竹が枯れないように注意し、枯れた後の対策に非常な努力がなされ、御竹藪所の立替または植替をして、一定の御
 藪所の維持、即ち小唐竹・苦竹等の竹の保有に努力が払われている。したがって、御藪所で竹が盗伐された場合には、科
 料または代植などにより罰せられている。

八、御鷹山 狩猟山である。鬼ケ城・沖ノ島等藩内に四か所あった。入山制限されていた。御鷹山として好場所があれば、自
 由に指定されるので、農民は困却して替山を願い出ていた。鳥類の集散繁殖に影響があるため、樹木の伐採禁止または制
 限を実施し、御鷹山の管理に特別の注意が払われていたのである。

九、年貢山 半官半民的な内容をもつ山である。特に、民有山としての性質は、年貢山を明山(一〇参照)とすることも可能で
 あるから、年貢を提出することにおいて、雑木下草等自由に採取が可能であった。

一〇、明山・上ケ山 明山は留山に対して農民の自由採取及び入山を許可した山であった。御用木は絶対に採取してはなら
 なかった。明山と上ケ山は同種類の山である。明山は個人所有の山ではなく、村入会山の一種である。

一一、渡世山 地元村民のために藩に差し支えなき限り、相当の代価を以て払い下げていたものである。

一二、受山・請山・受取山・諸所山 いずれも藩の所有する山林を、農民に貸与したものであり、年限切れと永受の場合とが
 あった。勿論、貢租により権利を与えられていたものである。

一三、控山 控山には庄屋控山と村控山があった。村及び庄屋等の経済的困窮を救済する一手段として、貸与されていた。

一四、寺社山 寺社山は山方支配であり、諸木を無断で勝手に伐採することは不可能であった。

一五、居林 住宅の周囲の部分に仕立てた森林で、風致を添えると共に、風除け・砂除け・防火・盗人防ぎ等を目的とするも
 のであって、個人所有の山林を言った。当藩における居林は、単に住宅の周囲の部分の個人所有の山林ではなく、農民の
 所有山林全体を居林(百姓居林)と言っている。

一六、百姓居林 百姓居林は前述の居林と同種類の山林である。

一七、自分林山 農民の個人所有の山林の一つである。立木の売却に当たっては、運上銀の上納が義務付けられていた。

一八、百姓自分山 居林等と同様の山林である。

一九、百姓山 年貢を提出することによって、雑木間引等は別に願出することなく、自由に採取することが可能であった。

二〇、杉山 杉山とはその字の如く、スギを植林している山である。天保一一年(一八四〇)には、藩内にスギ山が二二五町
 七反一三歩あった。

 以上、宇和島藩の史料に表れている山林の種類を記載したが、これらを大別すると、
    1、藩自身の保護山林  2、藩士に用益権を与えた山林  3、寺社に用益権を与えた山林
    4、農民に用益権を与えた山林―(イ)共同利用山林 (ロ)個人利用山林

 以上の如くなるが、何れも所有権は藩主にある。したがって、山林は常に藩の監督下におかれると共に、いずれの山林と言えども、藩に必要な用木には、極印して明記し、保護育成管理をさせた。用益権の形態によって、色々な山林が出来るのである。即ち、用益権保有者の身分別と個人が共同利用するかによって、煩雑な名称ができた。

 製蝋の奨励

 宇和島藩には、山林経営の外に、ハゼ並びに製蝋の林政史があげられる。宝暦四年(一七五四)、五代藩主伊達村候公は、城下の商人三名に、櫨実晒座を許し、領内の唐櫨・山櫨実などの他所売を禁止し、三座に生産統制、独占を許した。製蝋業は以後、藩の重要な産業となった。
 七代藩主宗紀公は、文政八年(一八二五)藩内生産の櫨実を全て藩が買い上げ、蝋座に賃打させ、藩内産出の蝋の自由販売を一切厳禁して、藩当局の生産した蝋のみ販売を許すという専売制を実施した。この際、櫨実は大阪相場で買い上げ、蝋座の打賃は櫨実一貫目につき二分で購入し、蝋取り立ては、庄屋にあたらせた。
 この専売制に対し、櫨実生産農民が反対し、翌年には櫨実の藩買い上げは中止され、蝋の専売も同一一年には廃止された。しかし、数年間しか実施されなかったものの、藩内生産はすべて銀札で支払い、大阪での売却は、正銀を受け取ったので、藩の収入は大きかった。
 こうして宇和島藩は、宗紀公時代の藩政改革、特に積極的財政経済政策によって、藩の富を増しその経済力を背景として、幕末西南雄藩の一つとして、活躍する経済的基礎をかためることができるようになった。

 天赦園

 弘化元年(一八四四)宗紀公引退せられ、春山と号し、老後を楽しむために、隠居所であった「南御殿」に、慶応二年(一八六六)天赦園を築造した。これは池水回遊式で、江戸時代造園方式の粋を尽くした雄大優美な名園である。伊達家は竹に雀の紋所であり、この園にもそれに因んで、一六種の竹が植えてある。即ち、大明竹・大名竹・真竹・淡竹・四方竹・寒竹・孟宗竹・唐竹・金明竹・縞金明竹・豊後竹・スオウ竹・ホウライ竹・泰山竹・熊笹等がある。竹の研究に役立ち、観光客を楽しませている。中でも庭竹としての唐竹は有名である。