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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

一 概要

 林業の源

 如何なる事業でも将来の計画を樹てる前に、先ず現在の状況、並びに現在までに到達した経路を考えないものはあるまい。先輩の残していった林業の業績、並びに我々がそれを引き継いでからの成績、この両者を合わしたものが現在直接我々の目にふれる山々の姿そのものである。
 現在我々の目にふれる山々には、緑したたるうっそうたる山々もあれば、緑をなくして赤肌を雨風に打たれるままにまかせた荒涼たる山もあろう。この両者は、その昔は如何なる姿を呈していたものであろうか。これらの経過を調べるのが林業の沿革であり、歴史である。
 本県における往古の林業に関する記録の徴すべきものはないが、当時は人口が稀薄で、林産物の需要量も少なく、したがって農耕地として開墾せられる以外の森林は、木材その他の林産物を必要に応じて採取するのみで、原始林に富み、森林の多くは、所謂原生林の様相を呈していたものと思われる。これらの面影は県下各地に点在している社寺の境内、代表的なものの一つとして、大山祇神社のクスの巨木、丹原町、伊予市等にある八幡宮の境内にその面影をしのぶことが出来る。いずれも暖帯林の広葉樹の原生林が大部分を占めている。その他、現在国有林に属している面河山、小田深山にはまだ千古斧鉞の様相を呈した原生林が残存している。かつてはこれらの林相が伊予の山々を覆い尽くし、海岸近くまでうっそうたる緑の影を宿していたものと想像される。
 徳川時代に至って、初めて松山・今治・西条・小松・大洲・新谷・宇和島・吉田の各藩共に、林政稍々備わり、その制度は各藩毎にまちまちであったが、西条・大洲・宇和島の各藩は成績見るべきものがあった。当時、林野の所属は、各藩によってその名称は違うが、大体次の通り三大別せられていた。

 御林山

 藩の領有に属し、主林木に対しては、平素殆ど禁伐の取り扱いをなし、その一部分を請負山と称して、地元部落に保護を委託して、林産物の一部を給付し、礼銭を上納せしめた。

 百姓持山

 藩政時代においては、林野所有権の成長は、封建的領有権によって妨げられていたが、例外的にいくらかの私的経営林は古くから認められ、その内容は設定の事情に応じて様々であった。しかし、その多くは、屋敷地・田畑などに付属して、個人の独占的支配が認められたもので、屋敷林・田添・畑添などと呼ばれていた。主として農用林と同じように、農民の生活のために認められたものであるが、時がたつにつれて個人の使用権が強くなり、次第に私有林的色彩が濃くなっていった。領主以外の者が用益し得る他の一つの型の山林であり、特定の個人だけが用益し得るもので、百姓林・百姓持山林などと呼ばれるに至り、後に私有林と呼ばれるものになった。

 入会山

 農村の共有に属せしめた。領主以外の者が、用益し得る山林の一つの型がこの農用入会林である。多数の人々が共同で使用収益する村持山などと言われるものがこれに属し、明治維新後は部落有林野となり、公有林の一種になった。これらの林地は農地と同じく、領主が土地の底土権を有し、農民またはその集団である郷村が、その表土権を持つものと考えられる。
 右の外、小面積の社寺領の林があったが、いずれも森林利用の途を講ずること少なく、御林山は、御用材の蓄積を主とし、百姓持山で人工造林の行なわれたのは、加茂川・肱川の流域に見るばかりで、林相の維持を全うすることは出来たが、利用の見るべきものはなかった。ただハゼの樹は、各藩特に宇和島・大洲藩においては、その増殖に意を注ぎ、生産も相当量に上がった。
 しかるに、藩政の末期に至って、御林山の一部である請負山は、地元部落に下付せられて、御引渡山となるものがあり、入会山は藩許を得て、地元部落民に分割せられ、林野の状態も次第に旧慣を脱せんとするに至った。