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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 前期(恐慌波乱期)


 桑園面積と産繭額

 第一次世界大戦(大正三~七年)当時の繭価高に刺激されて、著しく拡大した桑園もその後数年は停滞的で年々微増したが、時にはかえって縮少した年もあった。しかし、大正一四年から再び急増しはじめて、昭和五年にはついに七〇万町歩(全国)を突破し、全耕地面積の一二%(全国)を占めるまでに拡大した。しかし、桑園面積の拡大は繭価高によって起こったものでなく、農村不況による養蚕農家の金詰まりによるものであった。しかも、この不況は多少の起伏を見せながらも、昭和五年の恐慌突入まで慢性的に続いた。そのため、大戦中の好況で米価・繭価の異常な高値により経済的に余裕をつくり出していた農家も、不況が続く間に、次第にその余裕を失って、現金収入の不足を痛感するようになって来た。
 大正の終わりころ繭価は大戦中に比べると、低落してかなり安値になっていた。それにもかかわらず大正一四年から桑園が増えはじめたのは、農家経済の変化が原因であったと思われる。好景気で一度ふくれた家計は、不況が来たからと言って急に切り下げられるものではなく、不況のため値下がりした分だけ増産して収入を維持していくより方法はない。結果的には逆にますます過剰生産となり、値下がりを招くことになるが、市場事情に暗く、生産調整の組織を持たぬ農家にとっては、ひたすらこの道を選んで不況の影響から逃れようとしたのであった。
 この当時農家にとって最大の商品作物は繭であったから、不況対策としての増産は、真先に繭に指向されて、桑園面積が急増することになった。新植桑園が増えて行くような時代には当然、既設桑園の管理も行き届く。しかも、この時代の桑園は大戦当時の高い繭価に刺激されて、植え付けられたものが主力となっていたから、樹令も若く能率も高かった。わが国の産繭額は、明治一一年から昭和一二年の間に、年平均四・三%という高い成長率を示している。その中でも増加が最も華々しかったのは、大正末期から昭和初期で、大正一二年まで(大正八年の七、二二二万貫は例外として)六千万貫台に止まっていた産繭額が、一三年に入って再び七千万貫台を突破し、その後は飛躍的に増加し、年々その記録を更新していった。大正一四年・一五年は八千万貫台、昭和二年・三年は九千万貫台、同四年・五年は一億万貫突破という急増を示した。
 大戦景気の反動で不況の深化が、ついに恐慌にまで進んだなかで、農民はその不況対策の一つの手段として、産繭高の大台を一年おきに一千万貫ずつ更新して行くほどの大増産を行ったのである。

 経済恐慌と繭価

 この恐慌がいかに激しいものであったかは、次に示す卸売物価の変動によっても理解できる。第一次世界大戦によって好景気をおう歌していた大正八年を一〇〇とする卸売物価が、指数で昭和五年五八、同六年四九という大暴落。米価は五年五四・八、六年三九・一に暴落した。小麦も同じで五年五七・二、六年三九・九、裸麦も五年五一・七、六年四三・一と暴落した。繭はさらにひどく五年三三・五、六年二五・八と実に好況時の三分の一、四分の一の値に落ちこんだ。
 わが国の農業は明治以来、資本主義経済を急速に発展させるための財政負担を強いられて苦しみ続けて来たが、しかし、そういう中にあっても、開港以来量と価格の両面で発展し続けて来た蚕糸業に救われて、幾らかずつその生活を向上させて来た。しばしば襲来する慢性的な不況に苦しめられながらも、米と繭の生産を中心にして徐々にその生産力を発展させて、農民の生活を楽にして来た。
 昭和五・六年の恐慌は、その規模において、その深刻さにおいて、農民の生活を一挙に掘り崩すほどの破壊力をもって襲いかかって来た。
 そのため、水田単作地帯では、農民組合による大規模な小作争議が各地に頻発して、解決までに二~三年を費やすほどの激しい争いにもなった。また、町村役場・農会が税の滞納、不払いに苦しみ、学校教師の給料支払い遅延や不能、農会活動の停滞が全国各地に起こった。世界恐慌は全世界の鉱工業生産を大幅に減退させたので、失業者が急増して大衆の購買力を著しく低下させた。そのため農産物も全て生産過剰となって価格が暴落したが、その中でも大打撃を受けたのが繭であった。
 大正期に繭の価格(一俵一六貫)は、最高四、三六〇円(大正九年一月)まで上り、八年と一二年には平均価格で二千円台の高値を維持し続けたが、昭和に入って下降したとは言えまだ元年一、五八五円、二年~四年まで一、三〇〇円台の平均価格を維持していた。しかるに、四年に始まった恐慌は、アメリカ経済に最も強い打撃を与えたので、絹の需要も減退した。しかも、五年の繭の生産は大豊作で、春繭の生産高だけでも五、六一〇万貫に達した。そのため糸価は新繭の出回りの六月、一挙に七〇〇円台に急落し、一〇月にはついに最低五四〇円に落ち込んだ。繭価も糸価に追随して春繭から大暴落、夏秋繭は更に惨落した。
 繭はその価格変動が特に激しい農産品である。ということは、絹はぜい沢品であるため、その価格は景気の動向によって動かされやすい。また、製糸家と機業家はいずれも中小企業であるため、価格を調整するための製品ストックの余裕を持たない。
 しかも一方、その原料である繭には、乾繭処理を施さぬ限り貯蔵性が全くないので、農家は収穫と同時にこれを売り急ぐ。そのため価格安定のために繭を貯蔵するところがどこにもないし、生産量を調整する機能も全く持っていない。この時代までの蚕糸業はそういう状態のもとにあった。

 繭糸価の低落の要因

 このような時代での製糸は、糸価が上向きはじめると、原料入手を競って買いあおり、反対に糸価が下向きはじめると、購繭資金のやりくりに苦しんで、自然に買い控えるのが常態であった。そのため、糸価上昇斯には繭価は糸価の上昇率を上回って高騰し、下降期にはまた糸価下降率を越えて下落するのが明治以来の姿であった。恐慌期にはいって後の繭価は、その下げ幅が糸価のそれに比べて、目に見えて大きくなった。

       平均糸価(六月)前年比下降率 繭価(春繭全国平均)前年比下降率
  昭和四年  一、三一四円               七五五
   〃 五〃    七九五〃    三九・五%    四〇〇      四七・一%

       平均糸価(七月~一〇月平均) 前年比下降率  繭価(夏秋蚕全国平均) 前年比下降率
  昭和四年  一、三〇〇円               六五三
   〃 五〃    六六八〃    五一・四%    二〇四      六八・八%

 繭糸価がこのように惨落した原因は、恐慌による需要の大減退と供給量の大増加による、需給バランスの破壊であった。しかし、このほかにも繭糸価暴落にさらに拍車をかけた二、三の要因があった。
 その一つは、銀塊相場の安値を利用した中国生糸のアメリカ市場への進出である。昭和四年一月、月平均相場二六ペンス二五七であった銀塊相場は、その後次第に低落して、五年一月に二〇ペンス八七三と一年間に二割以上も低落した。そのため中国生糸の対米輸出は急増して、わが国の生糸輸出減退に拍車をかけたのである。
 また、この恐慌に苦しめられたヨーロッパにおいてもその生糸消費が大幅に減少して、イタリア・フランス産生糸の輸出余力を高め、そのアメリカ向け輸出を増加させて、日本糸の輸出を阻害、中国糸と力を合わせてわが国の糸価の低落に相乗作用を加えた。
 そのうえ、浜口内閣が実施した金解禁そのものも、また生糸輸出にとってはマイナス要因であった。浜口内閣成立直前の対米為替相場は四五ドル内外であったが、昭和五年一月金解禁と同時に、四九ドル四分の一に高騰した。約一割の騰貴であった。それだけアメリカの日本生糸輸入価格を引上げて、日本からの生糸輸出減退に拍車をかけ、ひいては糸価を低落させる素因の一つとなった。

 糸価維持策

 糸価が低落した場合、政府に要請して糸価維持のための救済策を要望することは、日本蚕糸業の伝統的手段である。「輸出の大宗」を名目に、すでに大正四年、同九年と二回に及んで帝国蚕糸株式会社の設立により生糸の買上げが行われ、その使命を終えて解散された。第三回は昭和二年の一〇月、糸価安定のため第三次帝国蚕糸株式会社が創立されたが、大正期の前二回のようにはその効果はあがらなかった。

 四国連合蚕糸共進会開催

 昭和二年松山市で全国産業博覧会が開催され、全国各地から多数の観客が訪れた。期間中に開かれた第三回四国連合蚕糸共進会をはじめ伊予古美術展・大日本蚕糸会・全国真宗信徒大会・四国四県婦人連合会・関西オリンピック大会・素人写真大会など五〇余に及んだ。これら多くの催しの中でも、注目されたのは、閑院宮殿下を迎え、四月八日より一週間松山農業学校(現松山東署付近)において開催された四国連合蚕糸共進会であった。同会は大正八年松山市で開かれた重要物産共進会の時に決定されたもので、四国の蚕糸関係者が一堂に会して、分野別に繭・桑苗・生糸などを出品し、技術を競うと共にこれからの経営に役立てようとするもので、四国四県が順番で三年ごとに開催、第一回は大正九年に高知、第二回が大正一二年に徳島で開かれた。松山大会は大正一五年の予定であったが、国鉄松山駅の開業が大正一六年四月(年号が変わって昭和二年)に予定され、同時に全国産業博覧会も開かれるということで一年遅れて開催されることとなった。
 大正から昭和初期にかけて、県下の養蚕業はすばらしいものがあった。段畑も山畑もいたるところ桑一色に近いほど栽培され盛んであった。しかし、共進会の直前になって、環境が悪化した。大正一五年七~八月、南予地方が厳しい干ばつに見舞われ、桑の生育が思わしからず、初秋・晩秋蚕の成績も芳しくなかった。出品物を集めるため、関係者は非常に苦労したという。苦労はそれだけではなく、九月ころから共進会開催のための寄付金集めが開始されたが、一〇月中旬全国的に生糸相場が暴落した。大口の寄付を期待していた神戸・横浜・北陸の業者も、糸価維持のため四苦八苦、とても寄付どころではなかったが、主催者の苦労のかいがあって、共進会には四国四県から七部門に、六、五七一点の出品がなされた。
 特別優等賞三人、優等賞五人が選ばれたが、そのうち四人愛媛県人が入賞した。

   特別優等賞………西宇和郡川之石町株式会社日進館(蚕種之部)西宇和郡八幡浜町摂津製糸株式会社(生糸之部)
   優  等  賞………東宇和郡山田村田中寅松(繭之部)松山市竹原町伊予製糸株式会社(生糸之部)

 七部門はこの外に真綿・桑苗・蚕具・経営の各部門が設けられていたが、優等には今一歩及ばなかった。


 繭検定所設置

 明治以来繭取引の方法は、生繭の肉眼鑑定によって行われていた。しかしそれでは正当な評価が困難であり、糸質の統一もできにくかったので、明治末期製糸業が近代産業としてようやく軌道に乗るに至って、取り引き方法の改善が企てられるようになった。それがすなわち、繭の口挽きによって生糸量や品質を評価して取り引きする正量取引であった。明治四二年京都府綾部の郡是製糸会社が初めてこの正量取引きを行った。その後、大正時代になって漸次この取り引きを行うものが増加して来た。
 正量取引の効果――(ア)生産者は産繭販売上の不安をのぞき養蚕経営が堅実になった。(イ)製糸業者は繭の実質に相当する価格で購入できるため着実な事業ができた。(ウ)従来のような―店買・坪買・出張買・委託買・市場取引――玉石混交といった売買でなく、実質に相当した価格で取り引きされるため、養蚕家は製糸業者の要求する品質を備える蚕品種を飼育し、求めずして繭質の統一したものを得ることができた。(エ)直接取り引きの結果は仲買人を省くため、それだけ蚕繭価格を増加し得ることができた。(オ)正量取引きは繭の共同販売を基礎とするため、蚕種の共同購入あるいは共同製造、または稚蚕共同飼育などの共同組織を誘起し、同時に飼育法の改善並びに経済上の利益を大きくした。(カ)養蚕家をして終局の目的を確実にする力があるため、一般的奨励と違って、産繭の増加及び品質の改善を促すのに効果的である。
 以上、産繭の正量取引と第三者(県)による繭検定制度に就いて記述した。

 乾繭取り引き

 明治以来、繭の取り引きは生繭のままの取り引きであった。生繭取り引きは収繭後短時日の間に売買を余儀なくされるために、繭出回期の相場(生糸市場)の影響をそのまま被るので、養蚕家としてはその収入が何時も不安定であり、又製糸家としては一時の多額の購繭資金を要するために、経営の基礎が安定しない欠点があった。そこで、乾繭取り引きを行うことにすれば、前述のような弊害が是正されると考えられるが、養蚕家は多年生繭取り引きに慣れて、新しい取り引きに進むことをとかくためらう傾向がある。また、乾繭取り引きには、乾繭機及び倉庫の設備が必要で、そのための支出に多額の費用を支出せねばならぬ事情もあった。これを営業者の自覚に待つとすれば、いつ乾繭取り引きの機運が醸成されるか期待しにくかったので、政府は共同繭倉庫・共同乾繭装置の設備費に対し助成金を交付し、養蚕者の共同保管による繭取り引きの実施を促進することとした。大正一四年度から八か年間の継続事業として、年々六〇万四、八〇〇円当時としては高額の助成金を交付した。
 正量取引きや乾繭取引きが盛んになるにつれて、取引きの公正と品質の改善のためには、繭の品質検定を行って取引きをしなければならないとする機運が急速に増大した。
 なお、昭和六年一二月繭検定所及び支所の名称、位置が告示され、繭検定所(本所)を喜多郡大洲村大字中村に、西条支所を新居郡西条町大字大町に、宇和島支所を宇和島市朝日町字富堤に定められた。更に本所を昭和一一年四月松山市竹原町に、昭和二一年五月本所を宇和島市朝日町に移転した。
 繭の検定(格付けと共に)が義務づけられたのは、昭和一四年末であって、本県も同一五年五月繭検定規則施行手続を公付した。(資料編『社会経済上』三五三頁)
 昭和一五年より「第三者(府県)による繭検定成績に基づく取引きが行われることとなり、養蚕・製糸共に専ら経営に集中出来る体制が作られ、繭価又は掛目協定会による基準繭価(基準掛目)の早期成立に期待が寄せられることとなった。」この第三者による検定制度の始まりは、大正一一年三月埼玉県が生繭正量取引奨励規程を公布し、繭の正量と繭質を検定した取引を奨励することとしたのが最初であって、第三者として県立原蚕種製造所(蚕業試験場の前身)に新たに製糸部を設置し、これに座繰器二〇釜を設備して、養蚕・製糸業者の申請によって、糸量と解舒(繭の糸のほぐれの難易をいう)を検定した。これが検定制度の始まりである。

愛媛県繭検定所の沿革
昭和 二年 全国で初めて県の独立機関として、繭検定所
        を宇和島市に設置、春蚕期から座繰機(二〇
        釜)による繰糸検定を開始。翌三年喜多郡大
        洲市に座繰機二〇釜、四年新居郡西条町に座
        繰機二〇釜の県立繭検定所を設置して、検定
        取引を積極的に指導奨励。
〃   六年 繭検定所規程を改正して、大洲繭検定所を本
        所とし、西条・宇和島を支所した。
〃 一〇年 特約取引に関し、繭検定所の検定を受けるべ
        き規定を設けた。
〃 一一年 繭検定所を松山市に整備統合(座繰機一五〇
        釜)大洲・宇和島・西条に検定繭受付所を設
        置、国において産繭処理統制法が制定され繭
        検定を法制化した。
〃 一五年 国において繭検定規則が公布され、強制検定
        となる。
〃 二〇年 七月二六日戦災により松山繭検定所を全焼する。
        国において基本法が蚕糸業法に変わる。
        二〇年度は温泉郡湯山村(現在の松山市溝辺)、
        二一年度は宇和島市朝日町において開繭検定
        を実施する。
〃 二二年 宇和島市の現在地に復旧、大洲市に検定繭受
        付所を設置して、春蚕期から座繰機(四〇釜)
        による繰糸検定開始。(二六年まで)
〃 二七年 繭検定用多条繰糸機一〇台新設。
〃 二八年 前年度の継続事業として、繭検定用多条繰糸
        機一〇台、繭検定用煮繭機一台新設。
〃 二九年 春蚕期から多条繰糸機による検定を実施する。
〃 三五年 当庁、敷地の一部に県宇和島庁舎、宇和島社
        会保険事務所を設置のため、建物の一部変更。
〃 三九年 繭検定用自動繰糸機四セット(一六台)、検定
        用H型煮繭機一台新設。
〃 四〇年 春蚕期から自動繰糸機による検定を実施する。
〃 四二年 当所敷地内に宇和島保健所を設置のため、建
        物の一部変更、重油ボイラー一基新設。
〃 四三年 一段バンド型乾繭機一台・バッヂ型乾繭機一
        台の新設。
〃 四四年 繭検定用ステンレス製H型煮繭機新設。
〃 五一年 建造物の整備と作業環境の改善を図るため、
        庁舎の新改築が行われ、同時に新型繭検定専
        用自動繰糸機(一五台)を新設。
〃 五二年 春蚕期より新型専用自動操糸機により検定実施。
〃 五四年 中予検定繭受付所を蚕業試験場敷地内に移転
        し、ボイラーステンレス式乾繭機一台新設。
〃 五五年 春蚕期より前記にて受付開始。
〃 六〇年 宇和島地方局農政課繭検定室と改称。


 その後、政府が乾繭取り引きを奨励し、乾繭装置や乾繭倉庫の設置に多額の補助金を交付することとなったので、特に乾繭の品質鑑定が生繭より困難であることなどにも起因して、一層繭検定が必要視され、乾繭取り引きの普及に伴い、検定所設置を行うようになった。しかし、当時は県の蚕業試験場に繰糸設備を施設してその一部の事業として検定事業を行ったのが大多数であった。
 しかるに、県の独立した役所として繭検定所を初めて設置したのは愛媛県であって、初代所長田頭宗一氏(後の農林省初代繭検定班長)の苦心談によると、大正一四年に繭検定所設置を時の県会に上程して協賛を求めたのであるが、県会ではその設置場所が問題となって、その年は成立せず、翌年の県会において満場一致で可決、その施設の完成をまって、昭和二年より独立した県立繭検定所として発足した。これが繭検定所の嚆矢である。
 蚕糸業者が繭検定の効果を認識するに伴い、漸次各府県に繭検定所が設置された。よって政府は昭和六年に各府県の繭検定所設置に助成金を交付することとし、同時に繭検定方法を全国的に統一するため、繭検定の設備並びに規程の標準を制定して、各府県に通牒し、これに準拠させることとした。
(繭格付方法と繭価協定に関する資料は、資料編「社会経済上」三六一頁参照)

 乾繭組合の設置

 大正一四年以降農林省の助成による産業組合組織の乾繭組合は、県内六か所に設立され(昭和一二年四月県経済部発刊「愛媛県の蚕糸業」より)其の組合員数は二万五、九二五人、組合地域県下全般に及ぶ。繭倉庫設置箇所一二か所、延坪数二、九九二坪、繭保管能力六万三、〇〇〇余石で、地域内繭産額の約四割を保管できる。乾繭設備箇所二一か所、装置乾繭機四三台、一昼夜本乾能力八万四、〇〇〇貫である。

 蚕業取締と蚕糸業奨励

 大正七年三月「蚕糸業法施行手続」、同年五月「蚕業取締所規程」が相次いで制定公布され、蚕種製造に関する指導取締りが行われることとなったが、昭和一〇年一月蚕業取締所の規定改正により、取締りに関する事務と蚕糸業奨励事務を合わせて行うことに改められた。昭和一一年一月、愛媛県蚕種配給統制組合が新発足し、蚕種製造の組合員が造る蚕種は、ことごとく組合を経て県内各郡市の養蚕組合の斡旋により配給されることになった。なお、斡旋蚕種に対しては、奨励賞としてその価格の二割を各郡市養蚕組合に寄付する。ただし、違作または特殊な事情で蚕種価格を減免した時は、その減免した価格に対しては寄付をしない。

 蚕種配給統制組合

 はじめに設立の動機について述べる。本県の蚕種業は明治四四年のころは、業者一四三名の多数であり、また製造額は昭和三年には一、二〇八万七、五八二gの最高記録を示していたが、その後蚕糸業の不況から漸次とうた整理された。昭和一〇年ごろに至っては、業者三四名となり、産額も昭和六~八年の平均合格額は六六八万五、〇五〇gとなったが、実際に県下の掃立量を調べてみると、昭和一〇年度における掃立総数は、四五一万〇、五五六g県外からの移入蚕種は三一万二、九四六gであるので、県内蚕種は四一九万七、六一〇gとなる。また、県外へ移出した数量六七万六、七八三gを合計すると、四八七万四、三九三gが消費せられた数量である。即ち、県下を通じて三割近くの過剰蚕種の損失を受けているので、その経営困難であることは想像以上である。今後各事業者が余剰蚕種を多く出さないようあらゆる手段を尽くして販売方法を考える必要がある。ことに近時の様な不況続きであり、その上特約製糸の進出が盛んになっては、従来の蚕種家の販路が一層縮められ、販売競争はさらに猛烈になって来るのは当然である。このままでは自滅のほかはない状態で、予約製造の秋蚕種はほとんど破約となって、その損害は二〇余万円にも達し、再起不能の状態になった。ここで活路を見出すためしばしば会合話合いの結果、自治統制によって更生の方策をたてるより外はない、一致団結して本県蚕種業のため進むことを決意し、蚕種配給統制の大綱を定め、関係蚕糸業各団体に呼びかけ、相互に真剣な協調を遂げ本組合を創設したのである。このような動機から創立された蚕種配給統制組合の設立の要旨と組織についてのべる。

①組合設立の要旨は、蚕種の生産を調節し、その販売と価格の統制することを大きな方針として、業者に実質蚕種の向上に全力を尽くさせ、自らの業を更生すると共に養蚕業者の蚕作を安定させ、産繭の品質向上斉一にして、製糸業者の要望を満足させ、あくまでも共存共栄の覚悟で本県の蚕糸業を全般的に更生させることを企図したものである。

②組合の組織は、法人である蚕種業組合の統制施設として、「申し合せ組合」を組織し、蚕種業組合員は絶体に加入することにした。蚕種業組合の総会において合法的決議をし、組合員は蚕種製造業を廃業しない限り組合を脱退しない旨の誓約書を組合長に提出することを決議した。(大正一五年一月愛媛県蚕種同業)


 蚕業取締所の変遷

 大正七年五月蚕業取締所並びに支所が設置されて、蚕糸業法による取り締まりが施行され、昭和一○年一月蚕業取締所規程の改正により取締り事務と蚕糸業奨励事務を併せ行うことになり、松山市ほか県下一二郡に蚕業取締所支所を設置し、蚕業取締りと指導奨励に努めた。その間、多くの変遷を経て、昭和三六年三月一日県告示第一九二号で、最終的に愛媛県蚕業取締所を大洲市におき愛媛県一円を管轄区域とした。「愛媛の蚕糸業」「伊予生糸」の名声を高めた先輩諸氏を偲びつつ、五〇余年の歴史を閉じた。
 昭和四二年四月一日県告示第二九七号をもって、蚕業取締所の名称・位置及び管轄区域に関する件は、昭和四二年三月三一日限り廃止した。

 戦時統制と蚕糸業

 政府は輸出生糸確保の必要から、一連の輸出増進策を遂行することとなった。それは昭和一三年八月、横浜の生糸輸出商が、生糸輸出同業会規約及び細則を規範にして、輸出生糸取引法第一一条による農林大臣の統制命令に準拠して、九月一〇日から実施した最初の統制施策である。このことは、輸出生糸の割当制によって、生糸相場の安定、海外実需に生糸買付上の安心を与えて、消費の増加を図り、輸出の振興を期することを企図したものである。当時の実情から考えると、貿易統制の手段であった原料の輸入と製品輸出のリンク制がねらいであった。しかし、この措置は実施後二か年を出でずして、米英の資産凍結令が発動され、やがて太平洋戦争となったので、実証するに充分な期間が与えられなかった。
 米国における生糸消費高が飽和点に達した上に、日中戦争による対日感情が悪化したため、米国向けの輸出に余り希望が持てなくなったので、政府は生糸の新販路を開拓することが急務であると認め、昭和一三年度予算二七〇万円を計上して研究を援助した。政府所有生糸のうち約三万五千俵余りが新規用途、新規販路に向けられた。一方、内地生糸消費高は、輸入繊維の統制と共にますます増加し、生糸の需給関係からは楽観材料となって来たけれども、輸出生糸の確保という点では、むしろ憂慮すべき情勢となり、特に昭和一四年に至って激化するに至った。
 生糸が国内に転流した理由は、海外需要が不振であること、国内において高価に売れる市場が現れたこと、従って輸出価格より高く取り引きされるなど、国内向けの生糸の方が非常に有利となったためである。このような情勢から、輸出生糸確保のために何らかの措置を必要とすることになった。そこで輸出生糸義務出荷という措置が製糸業法第三条の規定による農林大臣の統制命令によって行われることになった。しかし、製糸業者に対する出荷義務に、何らの反対給付が用意されなかったために、翌一五年の第三期(七月から九月)になると自然解消されることとなった。これは第二期(四月から六月)以後国内用生糸配給統制規則によって、国内消費が激減したためでもあった。
 その後、日本の国際的立場が急速に悪化の一途をたどったので、昭和一四年は三八万俵と対前年一九%の減退で輸出の行き詰まりが鮮明となって来た。昭和一四年九月にはドイツのポーランド攻撃に端を発し、英・仏両国が対独宣戦を布告するに至って、第二次世界大戦に発展した。
 生糸は内地消費の増加と第二次世界大戦及び為替相場低落の要因から、生糸一俵一、五〇〇円にまで高騰した。この需要は、日本国内のみでなく、米国市場も同様で生糸価格の高騰と消費増で、一〇月の米国消費高は四万俵に達した。このような事情のために、生糸の高騰を放任するか、抑制するか物価政策上の大問題となり、世論がいろいろと分かれた。当時日本は輸出増進と国内のインフレ防止の見地から、低物価政策をとり、公定価格制度を実施しているため、慎重を期せねばならなかった。
 九・一八価格停止令は、第二次世界大戦ぼっ発のために措置されたものであるが、種々議論を重ねた結果、繭と生糸についてはこの価格停止令から除外することにした。ただし、生糸については、蚕糸業維持安定積立金という名称で積立金制度を実施し、今ひとつは生糸配給規則によって異常な消費を抑制することにした。

 糸価安定施設法

 生糸配給統制を実施するため、糸価に対して完全な頭打ちの材料となった。この規則は生糸の配給そのものを統制する規則であって、その消費は生糸割当票の交付高によって統制を受けることになるので、一時の生糸投機の熱は冷却し、また糸価も急転直下した。一方この糸価安定法の制高・制低機能にあきたらない空気が漸次台頭してきた。このような空気は、より強力な統制組織を求める世論にまで展開して来た。
 この世論は、単に糸価安定の関係からのみでなく、日中蚕糸業の調整問題、蚕糸業の企業整備問題、国際関係善処などからも必然的に生まれて来たと考えられる。

 蚕糸業統制法の成立

 日米通商航海条約が昭和一四年七月廃棄通告されてから、生糸の統制も国際問題を誘発する恐れがあるとして、慎重に処理した。しかし、昭和一五年秋になって、維持することが難しい情勢となって来た。同年八月には近衛新体制準備委員二六名が任命され、わが国の戦時体制を推進する準備中であった。中央蚕糸会時局対策委員会が、日本蚕糸業統制会社案を可決し、一方政府では一、三五〇円の維持価格によって生糸五万俵を買入れ、翌月から帝蚕会社をして同様の挺入れを継続するように決定した。九月二七日には、日独伊三国同盟条約締結が発表された。それまで静観状態を持続して来た農林当局は、ついて蚕糸業統制法案の立案を決意することになった。
 政府は、現在のあらゆる機関を活用する方針をとり、統制のために犠牲になるものは一つもないように仕組むと共に、蚕糸業組合法、蚕糸共同施設組合をも統制機関の中に編入する途を講じた。昭和一五年一一月には統制法の骨組はほぼ成立し、昭和一六年二月七日第七六回帝国議会に提出された。当時の農林大臣(石黒忠篤)の提案理由を次に記載する。(原文のまま)

 「蚕糸業は我が国輸出産業の大宗として時局下戦時経済の目的を遂行する上に、多大の貢献を致しておりますことは申すまでもありませんが、現在並びに今後に於ける国際情勢に顧みますと共に、大東亜共栄圏内に於て、自給自足を基調とする国防経済の完成と云う大方針に照しまして、従来輸出に依存することの多かった蚕糸業は之を根本的に考え直す必要がございます。固より我が方から生糸の輸出を断念するものではなく、否、今後と雖も出来得る限り輸出の伸長に力を致すこと勿論でありますが、同時に情勢の赴く所如何なる事態が発生するか予断を許さざる事情に鑑み  まして、予め蚕糸としての最悪の場合を覚悟し、之に備ふるの体制を急速に樹てて置く必要があります。蚕糸業は、之に関係しております者が養蚕農家を始め極めて多数でおります。是等の業者をして安んじて其の業務に従事せしめますと共に、我が国として繭生糸の繊維資源を国民の実生活に必要なる方面に、十分利用するの方途を講ぜねばなりませぬ。斯の如く蚕糸業と致しまして、国内繊維資源の充足に重点を移して、其の根底を鞏固に致しますと共に、輸出に力を致しつつ、一朝事が起きました場合には迅速円滑に其の転換を遂げしめますよう、茲に蚕糸業全体を通じて生産、消費、輸出の計画化を行ひますと共に、綜合的統制の下に之を運営し得るの機構を確立することが緊要であります。
  本法案は、以上の目的をもちまして、事態に即したる一定の計画の下に、蚕糸類の計画生産をなすと共に、日本蚕糸統制株式会社を設立し、原則として蚕糸類の一手買入及び売渡を行はしめ、以て蚕糸業を統制運営するの制度を樹てんとするものでありますが、同時に政府の糸価安定に調整力を拡充致します為に、糸価安定施設特別会計法の蚕糸証券発行限度を、現在の七千万円より之を二億五千万円に拡張し、相俟って蚕糸業統制の万全を期する事と致したいのであります。何卒慎重御審議の上御協賛あらんことを希望致します。」

 法案の審議過程において論議された主な項目は次の通りであって、現行蚕糸政策の上において重要な反省資料とも考えられる。

 イ、生糸の軍用価値  ロ、繭価決定の基準  ハ、繭の集荷と配給機構  ニ、糸価の適正生産費保証
 ホ、輸出生糸の数量調整  へ、蚕種業者の失業救済  ト、乾繭組合の設備買収  チ、桑園の登録制
 リ、養蚕違作の救済  ヌ、製糸業整理と低能率製糸の企業合同

 昭和一六年度より事業を開始したのであるが、統制会社の配給事業は、蚕種・繭・生糸の買入れと売り渡しを行うこととし、繭については、農林大臣が蚕糸委員会に諮問して、毎年蚕期別、用途別に生産目標を定め、それを道府県の養蚕団体に割り当てる。同団体は地方長官の指示を受け、右の割当生産目標に基づいて下部団体に割り当てる。生糸については、輸出生糸製造工場の指定、生糸製造数量、原料繭の割当てを行う。(国内向生糸製造工場についても同様である。)このような生産割当(計画生産)を行うについては、統制会社は養蚕・製糸に対する奨励施策を行うことになった。その主な施策を次に記述する。

 イ、蚕業指導力充実に関する施設――養蚕実行組合指導員設置費補助。これは昭和一七年から二〇年まで行われ、一万
  二六一名の指導員に対し、毎年三八〇万円の補助金が交付された。
 ロ、蚕業技術員養成施設――昭和一九年度から実施され、相当の成績をあげたが、二〇年度は実施出来なかった。
 ハ、繭増産に関する施設――繭増産運動を推進するために、養蚕精神作興文化施設(講演会・映写会・幻灯会などを催
  す。)、繭増産運動本部を設けると共に、道府県にも推進支部を設け、繭供出の万全を期することにした。(経費三二万
  四、五〇〇円)晩秋蚕全桑繭化運動・桑園の清潔強化期間の設定・蚕繭緊急増産篤農養蚕者動員施設・その他蚕品種
  改良普及費・繭増産褒賞施設費・災害又は違作に対する救済施設など全く行き届いたものであった。


 日本蚕糸製造株式会社設立

 事変、戦争の進展に伴って繭生産は年々激減し、加えて繭短繊維(昭和一六年から製造開始、一九年には政府の物資動員計画に編入し工場数九六、繰繭機台数五、八六四、開繭機台数三三八に上って、製品の統制会社買入数量も三八二万貫に達した)の生産が始まったので、製糸工場への原料繭配給は次第に窮屈さを加えてきた。製糸業はすでに昭和一五年七月に八万余釜を整理し、一七年の第二次整理で七万余釜を整理したが、その後一層激しくなってきた繭生産の減産と、短繊維による繭処理能力増大の両面から脅かされて、いよいよその設備能力と原料繭供給力とのバランスを失っていった。
 昭和一七年以降になると、軍需生産拡充や軍需工場疎開のため、製糸工場・蚕種製造所・乾繭工場などの設備で転換要請を受けるものが著しく増え、この面からも又、製糸業をそのままの形態で存続させておくことが困難になって来た。
 そこで、一七年の暮れから一八年初冬にかけて、製糸を統合して一企業にまとめようとする構想――日本蚕糸製造株式会社設立――が浮かび上がって、製糸経営機構確立要綱が決定され、製糸業の統合が進められることになった。昭和一八年四月二六日、日本蚕糸製造株式会社が設立された。大部分の製糸業者と蚕種製造業者が参加加入したが、これに加入することを渋った鐘紡・若林その他は、後で全国共栄蚕糸組合を結成した。結局、業界はこの二つの統合体に分かれることになった。なお、日本蚕糸製造株式会社は、その資本金を当面流動資金に必要な限度にとどめて一億円とし、設備買収の進行につれ漸次増加させて行く方針をとったが、それでも、その資本金は蚕糸統制株式会社のそれを二千万円上回った。一元統制の困難な理由の一つに資金関係のあることが判明した。

 蚕糸業統制の効果

 日本蚕糸統制株式会社が設立されたのは昭和一六年五月七日で、すでに日米の関係が相当悪化していた時であった。しかし、蚕糸業は本来輸出産業であること、また、特に事変下において外貨獲得上重要な商品であることを考慮して、輸出生糸に限り、これを統制から除外した。それは「会社が一元統制的に輸出生糸をも買い取ることとするときは、その買入価格は各糸の格によって買値を定むる結果、生産者は最も有利な糸を作り、種類・品質がある種に偏して、そのために輸出が困難となるおそれがある。なお価格を一定にすれば、最も優良なる糸を作ろうとする努力を怠り、品質の低下をきたす恐れがある。故に生糸の輸出は現在の方法によるを適当」と、考えたからであったが、このような折角の配慮も無駄となった。統制会社を設立して僅か二か月余の七月二五日に、アメリカ合衆国が日本の資産凍結をしてしまった。
 資産凍結は一切の通商関係の断絶を意味する。従って蚕糸業に極めて大きな衝撃を与えた。生糸の主輸出先アメリカへの売り込みが不可能となったのである。もし蚕糸業統制法が制定されていなかったら、糸価は暴落して大恐慌に陥ること必至であった。統制法が制定され、統制会社が設立されていてさえも、糸価は一、六〇〇円から一、四〇〇円に急落して、応急措置を必要としたのである。
 蚕糸統制会社はこれが対策として直ちに生糸生産計画の変更縮小に踏み切り、さらに生糸標準価格の絶対維持と、米国向けに太平洋を航行中であった船が積み戻す生糸六、三四〇俵の会社買入れを決定した。それで投げ売りと値崩れを防止、市場を安定させて人心不安を一掃することに努めた。この効果は絶大で、日米開戦にも糸価は一、五〇〇円台を維持して、問題を起こさなかった。その後も、蚕糸類を安定した価格のもとにおいて、生産計画を漸次縮小して行きながら蚕糸業者全般が被る被害をほとんど可能な限りの最少限度に食いとめることができた。この功績は戦時中の他の諸統制機関に例をみない独自のものであった。

 統制と養蚕団体

 蚕糸業統制法により、蚕糸統制株式会社が蚕種を蚕種業者から買い上げて製糸工場に配給する制度――蚕種と繭の新流通径路が打ち立てられたことは、養蚕団体にとってまことに歓迎すべき「新体制」であった。
 この制度の実現によって蚕種・繭の配給地盤は組み替えられ、養蚕実行組合の蚕種は統一され、その産繭処理もまた一組合一工場となった。しかも、蚕種家や製糸工場と養蚕組合又はその組合員との間にあった過去の因縁など一応解消した。新しい流通経路の樹立によって、養蚕系統団体の最大の障害であった特約取引が一挙に解消し、上級団体と末端組合をつなぐパイプが太められたのである。系統養蚕業組合はこの統制によって、初めて全国段階から最末端まで完全系列によって結ぶことが出来た。組織の強化をかちとる結果になった。
 統制がもたらした繭・生糸の公価による買い入れ、売り渡しと、ことに生糸輸出の途絶によって大企業製糸がこれまで獲得していた超過利潤(高格生糸の生産販売による格差金)が消滅したこと、また原料地盤の割り替えによる旧特約地盤の大きな変動などは、製糸業者がこれまで異常に力を入れていた原料繭生産指導での熱意を急に冷やして、これまで支出していた原料経費を急減させた。そして製糸側から特約組合に派遣していた蚕業技術員による指導の廃止を導くことになった。
 そこで、蚕糸統制株式会社は、この蚕業技術員網の弱体化を補強して指導組織を強化再編成し、さらにその待遇も改善するため、昭和一七年から毎年、年額三八〇万円の補助金を府県庁を経由して、府県養蚕組合連合会に交付した。そのため、郡市養蚕業組合は、この年から技術員配置網を一躍完備させることが出来、その指導力を著しく強化した。それまで数名ないし十数名にすぎなかった郡市養蚕業組合所属指導員を一挙に倍加して各町村に常駐させ、直接に、かつ上級団体の指導方針をそのまま持ちこんで指導することが出来るようになった。
 系統養蚕組合はこれによって初めて完全に系列化し、さらにそれを戦後再編成の基盤とすることが出来た。
 蚕糸統制株式会社は道府県に出張所を設置して、蚕種・繭・生糸の配給に携わることになった。

 太平洋戦争と蚕糸業

 蚕糸統制株式会社はその出発点において、需要を見通して供給量を策定せねばならない。しかるに、その設立初年度から、統制経済の原則に従って、蚕種・繭・生糸の生産計画を樹立したが、その一六年度産繭計画は八、〇〇〇万貫であった。この数量は昭和一二~一五年の三か年生産高の平均八、四五四万貫を基準に、約五〇〇万貫の減産を見込んだものであった。しかるにその実収は六、九七〇万貫となって、計画量の八七・三%に止まった。米国の資産凍結令によって生糸の輸出が全面的に途絶したこと、食糧増産のための桑園整理などが養蚕農家の意気を阻喪させたこと、相次ぐ大動員による労力不足がその主因であった。また、府県によっては学徒を動員しての桑園整理は、食糧増産と飛行場の新設拡張のためとは言え、養蚕家の気持ちを著しく阻喪せしめた。
 一六年の著しい大減収に驚いた統制会社と当局は、翌一七年度の産繭計画を七、三〇〇万貫に引き下げ、実績がそれをさらに下回ることを恐れて、別に八、〇〇〇万貫の努力目標を掲げたがこれまた、その実績ははるかに下回って、計画より一、七〇〇万貫減、前年実績より一、四七〇万貫減の五、五〇〇万貫となった。
 繭の生産割り当ては、農林大臣が蚕糸委員会の同意を得た計画数量を全国養蚕組合連合会に指示し、全養連は、それぞれの実績に応じて各府県養連に割り当てる。府県養連はまた、過去の実績や桑園反別などを勘案して、これを郡市養蚕業組合に割り当て、郡市養蚕業組合はさらに、それぞれの養蚕実行組合に割り当てたのである。
 このような制度であるがら、桑園の減反や養蚕戸数の変動なども一応は割り当ての際考慮し、生産力からみても、毎年大きな無理のない割り当てになっていた。
 しかるに、産繭額がこのように急減したのは、一七年にはいって太平洋戦争による軍の動員と、徴用令による軍需工場動員のため農村の労働力が次第に枯渇して、農山村に残留するものは老人婦女子が主体となり、しかもその労働は食糧増産に振り向けられ、桑園向けの配給肥料も食糧作物用に回される状態になっていた。昭和一七年には、年度初めから繭価引き上げの要望が強かったにもかかわらず、それが認められなかったことも、減産の一因であった。統制会社はその埋め合わせとして、貫当たり二〇銭、総額一千万円の生産奨励金を支出したが、その程度では何程の効果もなかった。
 そこで、一八年の生産目標は、前年よりさらに一千万貫引き下げて六、三〇〇万貫とし、特に労働生産性の低い夏秋蚕の目標を引き下げ、春蚕に主力をおいた体制のもとに計画の確保をねらったが、それでも目標に達せず、四、五三〇万貫に減退した。
 ところが、繊維資源の供給は繭以外はほとんど皆無で、いよいよ急迫して来た軍需・民需が、総てこれに頼る外はなかったため、一九年にはいると、政府は生糸・繭短繊維を物資動員計画に編入、その原料の繭生産にも生産供出の責任制を敷いた。特に、夏秋蚕繭に対しては、出荷奨励金一〇掛(貫当たり一円四〇銭)を統制会社に支出させて、その確保を期待した。しかし、この年の生産も、また計画の五、三〇〇万貫に対して実績は四、〇〇〇万貫となり、達成率七六%に過ぎなかった。
 昭和二〇年(終戦の年)の繭生産計画は五、〇〇〇万貫とし、連年大減産となる原因の一つが繭価の抑制にあることから、その価格を一挙に前身の倍の二〇〇掛に引き上げ、その確保を期待することにした。しかし、この年の春蚕期から次第に激しくなった空襲で、養蚕どころではなかったことや、続く敗戦の混乱が国民を茫然自失に追い込み、生産資材や労力の不足も加わって、その生産高は二、〇〇〇万貫に大激減した。
 参考までに、昭和一六年度から二〇年度までの上繭買込売渡高の集計は表3―2の通りである。















表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(1)組合組織・組合員数

表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(1)組合組織・組合員数


表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(2)設備その他

表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(2)設備その他


表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(3)事業状況

表3-1 昭和11年度事業の概要・設備(乾繭組合調)(3)事業状況


表3-2 上繭買入売渡高

表3-2 上繭買入売渡高