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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 前期(蚕糸興隆期)


 女子蚕種検査員の養成

 大正期に入り蚕業の興隆時代を迎え、蚕種の需要も増大し、優秀な女子蚕種検査員を多数養成することにした。県では、大正二年から制度改正でこの蚕種検査員検定試験を行うことになり、同年二月、宇和島・大洲の二か所で講習会を開き、さらに試験を続いて行った。
 大正二年、女子蚕種検査員養成試験合格者は、九九名であった。郡別にその人数を次に列記する。

     新居郡 一四名。 周桑郡 一名。 上浮穴郡 三名。
     喜多郡 二三名。 西宇和郡 一二名。
     東宇和郡一三名。 北宇和郡二五名。 南宇和郡 七名。
     (高知県 一名。)

 第一次世界大戦と蚕糸業

 明治時代における養蚕組合の成長段階を幼少年期にたとえるならば、大正時代は青年期だったということになる。その発展を促したものは、その母体になる蚕糸業の発展であったが、日本の蚕糸業を発展に導いた主要因は、アメリカにおける絹工業とわが国生糸貿易の発展とであった。
 アメリカの絹工業は、その国の経済の発展と共に、ほぼ明治初年から順調に発展を続けてきた。ところが、大正三年にはじまった第一次世界大戦にはあまり深入りをせず、専ら軍需品や生活資材の供給国として漁夫の利を得る立場に立った。これによりアメリカの経済は空前の活況を呈し、絹工業も同時に発展した。
 この時、イタリアやフランスは、戦争のために、また中国も革命による内戦で、いずれも生糸を供給するゆとりがなく、そのころまでに品質的にもこれら諸国に劣らぬものを作っていた日本に、生糸の需要が集中し、年々生産する生糸の九〇%内外がアメリカに向けられた。それと共に生糸の価格も上昇したので、日本蚕糸業の黄金時代が始まった。
 本県においても、『伊予蚕業沿革史』によれば当時のもようを次のとおり記録している。「機械有名糸の如きは、一、〇〇〇円内外の糸況を保ち、近年とかく不況の愁眉は、稍開くに至れり。本年(大正二年)本県の養蚕は、掃立量非常に多く、殊に春秋ともに順気を得て、蚕児の発育健康なりしより、南予地方では桑葉の不足を告げ、ために蚕児を放棄する者あるに至れり。しかれども前年に比して繭価好況にして、養蚕家の収入多く、殊に全県の産繭を前年に比すれば、ほとんど一万石の激増を表わせり。」と。

 蚕種の人工孵化法実用化

 大正期に入って、夏秋蚕種の人工孵化法が実用化され、夏秋蚕種の保護貯蔵についての不安が除かれた。そのうえに人工孵化で飼育の時期が自由になったり、不作防止の技術が向上したために、夏秋蚕を飼う農家と収繭量が年を追って多くなった。
 そこで、松山製氷会社と北宇和郡蚕種同業組合との間に交渉がまとまり、大正二年二月に宇和島町に蚕種貯蔵氷庫が建築され、貯蔵業務を開始し、夏秋蚕は安定的に増飼された。

 繭取引市場の増設

 大正三年二月一〇日、「繭取引市場建設補助規程」が公布施行され、蚕糸業界では、明治三二年設置された大洲繭売買所一か所のみでは不足する旨、陳情を重ねた結果、次の四か所が建設され、合計五か所で繭の流通が行われることになった。

北宇和郡宇和島町 繭取引市場。  北宇和郡吉田町 繭取引市場。
新居郡垣生村 繭取引市場。  喜多郡大洲町繭取引市場。
(山泉安治 新設)


 愛媛県製糸同業組合の認可設立

 大正二年五月一日、愛媛県製糸同業組合定款が農商務大臣の認可を得て、その事務所を大洲町三の丸に置き、事業を開始した。『伊予蚕業沿革史』によれば、「蚕糸業組合のごときは、明治一九年以来、設立すること数回なりしも、いわゆる朝設暮改の有様で、本県人の旧藩意識が災いして成果を上げ得なかった。」と、本県人の一致団結力の薄弱さを記録している。一面、『養蚕団体史』によれば、「この時代の蚕糸業同業組合中央会は、養蚕組合派と論争があり、商工業者を対象にして制定されていた同業組合を、経営状況を全く異にする養蚕家に組織させよという主張そのものが、また農村の実情を知らぬ空論でもあった。」と述懐している。

 蚕業技術指導者の養成

 技術は絶えず進歩する。また経済的・社会的な環境も変わるから、その変化に即応して、たえず技術や経営を改善してゆかねばならない。そこで、いつも養蚕農家には技術指導者が必要になり、この両者はいつの時代でも離れることができない。養蚕については、奈良時代初期の桃文師に始まり、江戸時代には、幕府が「養蚕の適地や養蚕製糸の技術については、武家(支配層)も田舎の者ども(農家)も恐らく不案内のことと思われるので、生糸を扱う商人が、その指導をするがよかろう」と、諸国の商人へお触れを出したことがある。幕府が考えたのは、商人の営利心を利用して増産技術を普及しようとしたのであろう。その後、篤農家による指導も進められた。さらに、養蚕農家の中から蚕種を製造するものが現れると、それらの蚕種製造者や蚕種商人が養蚕技術の指導をするようになった。
 明治三年の二月、民部省は「養蚕方法書及び下問書」という布告を出し、広く民間の業者から養蚕方法や蚕種栽桑技術についての概要や発明考案を調査報告させ、抜すいして一編の方法書をつくり、これを農家にくばって養蚕技術の指針とした。続いて生糸貿易が年ごとに盛んになり、蚕糸業の経営を有利にする一方、海外からの輸入品によって、それまで農家の副業としていた畑作仕事が圧迫され、綿花や小麦粉や石油などの輸入で畑作経営を困難にし、作付転換を迫られ、そのうえ貨幣経済の発展によって農家も現金収入の必要が年ごとに増し、いわゆる、「明治の輸入外圧」に農家は疲弊をきわめた。この時の養蚕はまったく農家の救世主にもひとしい役割を果たした。そこで国も地方も極力その奨励と指導に努めたが、他方、農村の養蚕技術の指導や教育の面は、ほとんど、閑却放任されていた感があった。明治三二年になって、ようやく実業学校令が制定され、養蚕の学術についての教育課程も農業教育の一部として実施されるようになった。
 大正六年一月に至り、愛媛県原蚕種製造所(大洲市中村)に講習部が開設され、試験研究機関と有機的な連けいを保ちながら、理論と実習、師弟同行の理想的な蚕業技術者教育が、系統的、本格的に実施されることとなった。第一回修了生は、一九名であった。

    (参 考)
  原蚕種製造所講習部は、大正一二年一月 蚕業試験場講習部→昭和二二年四月 愛媛県蚕業講習所→昭和四六年四月 愛媛県立農業大学校蚕業科→昭和五八年四月 愛媛県立農業大学校蚕業分校 となった。

 講習部修了生は、官公立の技術者養成学校卒業生と共に一部は県の乙部巡回教師となり、県庁に配置され、一部は常置養蚕教師として団体などに所属し、養蚕振興計画の策定や庭先指導にあたっている。また、常置教師の七倍位の季節的教師もおり、春蚕期を中心に庭先指導にあたった。なお夏秋蚕期だけに雇われる季節的教師もあった。
   (注)甲部巡回教師は一般農事、乙部は養蚕製茶指導であった。

 大正九年の蚕糸業法改正と指導員の資質向上策

 大正九年の蚕糸業法の改正で、地方長官は主務大臣の認可を受けて「指導員等の取締まり上、必要な命令を発することができる」ようになった。
 そこで、愛媛県でも、順次養蚕指導員届出規則を出し、あるいは免許制度を実施して、いかがわしい養蚕教師を排除し養蚕農家が安心して指導を受けられる良い教師を設置するよう改められた。
 しかしながら、指導員の資質向上のみでは技術指導の成果は期しがたく、試験研究部門でも、違作防止を中心に、桑の品種・栽桑法・給桑法・蚕の膿病・軟化病などの研究が進められた。当時は、試験体制、試験器具なども不備なため、例えば、膿病による違作防止試験を行うのに、二時間毎給桑で一日一二回も、蚕に接触し、却って病気をまん延さすなど、農家の熱望する膿病・軟化病も長い間、防止の実用技術を創出することができなかった。

 蚕糸恐慌と養蚕農家

 大正三年の第一次世界大戦ぼっ発による蚕糸恐慌は、政府が五〇〇万円、当業者が一〇〇万円、計六〇〇万円で第一次帝国蚕糸株式会社をつくり、滞荷生糸を買い入れて供給調整を行い、この恐慌を乗り切った。しかしながら第二回目の蚕糸恐慌が、大正九年に起こった。これは、大戦後のアメリカや日本の好景気の反動として現れたものである。ニューヨークの生糸が三か月分も売れ残っているところへ、日本の株式が暴落し、銀行の破綻や生糸商の倒産などが現れ、年頭に一俵四、〇〇〇円以上を示した生糸が五月には半値以下に落ち込んだ。これにつれて繭相場も下落し、一貫目二〇円以上を予想されたものが八円にもならないことになった。そのために、こんどは糸価維持ばかりでなく養蚕救済をも行うことになった。
 この時、蚕糸業同業組合中央会が目覚ましい活動をし、当時の原内閣を動かし、蚕糸業者の組織するシンジケート(第二次帝国蚕糸株式会社と呼ぶ。)に一、〇〇〇万円が低利で融資された。これを臨時産業資金と呼んで、養蚕農家やこれを組合員とする産業組合とその連合会に低利で一年間貸し付けられた。これがいかほど養蚕家の救済に役立ったか疑いを持つものもあり、むしろ借金を負わせたばかりだと非難する意見さえあったが、ともかく、糸価は、帝蚕会社の事業の円滑実施や生産制限やアメリカの景気好転で急速に上昇し、繭価も次第に上がった。なお、第一次帝蚕会社は約一年間、第二次帝蚕会社は、約二年間で役割を果たし解散した。

 大正前期の養蚕農家数

 全国で大正八年の養蚕戸数は、一九四万二、〇〇〇戸で、わが国始まって以来、最高の戸数となった。また収繭量は二、二四八万一、〇〇〇貫を産したが、大正一二年の八、六〇〇万貫には、はるかに及ばなかった。本県の大正八年の統計を見ると、養蚕農家は三万八、一四九戸(全国比二・〇%)、繭生産量一五七万三、九八〇貫(全国比七・〇%)で、全農家数の二九%が養蚕農家であった。養蚕農家の増加は、蚕種製造業者・繭仲買人・製糸業者・製糸工女・蚕具店などおびただしい内需拡大、就業機会を与えたものといえる。