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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第三節 後期(官民協同推進期)


 蚕種検査の強化

 明治二九年、前述のとおり蚕種取締規則が公布されたが、この取締の不備を補い、検査を強化して、輸出品にふさわしいものとするため、明治三一年三月「蚕種検査法施行手続」が公布された。
 そこで、県では「蚕種検査員」にたりたい志望者を募集し、特別講習を行い、さきに養成した者とあわせて、蚕種検査員に任命し、県下九か所に派遣して検査業務に従事させた。(『資料編社会経済上』三三二頁)
 民間より検査員を募り、蚕糸業振興を図ったことは、斯業の官民協同推進期に入り、官民協力による輸出振興の幕明けといえる。

 大洲繭売買所の開設

 明治三二年、大洲町河野真太郎・程野宗兵衛・河野駒治郎・今岡梅太郎・津国八太郎らの発起により、大洲繭売買所を本町三丁目横丁恵美須神社境内に開設した。そして、需・給両者の中間に介在して、双方の便益を図った。しかしながら、新規不慣れな事業のため、当初は種々困難に遭遇したが、不撓、百難を排して円滑な取り引きができるようになった。なお、売買法は、公許入札で、生繭一〇〇目につき、売買両者より各金二厘を徴する方式であった。

 繭乾燥場の建設

 明治三二年には、共捻式製糸場が次々と建設された。即ち、大洲町の河野真太郎の「カ製糸場(七五釜)、大洲村の近藤勝蔵の喜多製糸場(七〇釜)、喜須木村の河野庫太郎(二二釜)、岩松村の兵頭通孝の兵頭製糸場(四〇釜)。さらにケンネル式三〇釜が、日土村の宇都宮鹿太郎の赤岩製糸場に建設され、斯業発展が官側のみならず、民側からも推進されるようになった。
 そこで、吉田町の田鶴谷岩治郎は、養蚕家が生繭で販売すると不利であること及び小規模製糸業者が乾繭するのに不便を感じていることに着目し、同町に大規模の繭乾燥場を建設し、当地域に広く利用された。これが本県での乾燥専門業者の始まりである。また、この年から生繭の売買が、従来のます量から、重量により取引されるようになり、公正売買に向かって一歩前進した。

 京都蚕業講習所の新設

 高等教育機関として明治二九年国の蚕業試験場から独立して、東京蚕業講習所が設置されたが、三二年には、京都蚕業講習所が新設され、講習所は二か所となった。東京の蚕業講習所まで行かなくてもよくなり、本県で初めての卒業生は、大洲町の安井半太郎、愛治村の高田岩太郎の二名であった。明治三三年八月には、喜多郡農会長 有友正親の要請で同講習所長松永伍作みずから、五十崎村・大洲町・菅田村・粟津村で講話会を開催し、すこぶる役立ったということである。
 同講習所は、京都高等蚕糸学校となり、現在、京都工芸繊維大学繊維学部となっている。

  (注)東京蚕業講習所→(東京高等蚕糸学校)→東京農工大学農学部となる。
     明治四三年上田蚕糸専門学校設立(文部省令)→信州大学繊維学部


 愛媛県農業学校の設立

 明治三二年実業学校令が公布され明治三四年四月一三日、松山養蚕伝習所の敷地跡に愛媛県農業学校が設立された。養蚕の学理と実習を教育すると共に伝習所を廃止し、その事業を継承した。この学校が前身となり、松山農業学校、愛媛県立農林専門学校、松山農科大学を経て、国立愛媛大学農学部となった。松山市持田町当時のことをしのび、旧校舎跡の松山東警察署前に「愛媛農学教育発祥之地」の記念碑を同窓会で昭和五五年建立した。

  (注)同年一二月一六日、新居郡立農業学校が開設され、蚕業科も置かれた。
     明治三六年四月一日、周桑郡の補習学校を拡張し、乙種農学校とし、さらに養蚕科も置かれた。
     明治四一年三月三一日甲種農蚕学校となる。(後年、西条へ移転)
     明治三七年四月一日、宇摩郡立農林学校が開設され、養蚕実習科も置かれた。
     その後、南宇和水産農業学校、東宇和郡立農業学校開設し、養蚕教育が進められた。


 屑物専門の業者開店

 大洲町の桝田與三郎は、明治三五年、屑物専門業を開店し、年を経るごとに繁栄し、大正時代に至っては、四国、九州及び中国の屑物の多くは、桝田の手によって売買されるまでに成功した。

 蚕具店開店

 蚕糸業の発展に伴い、付帯業務も起業され始めた。明治三六年には、大洲町大野亀太郎が完備した蚕具店を開き、地方蚕業家の便利を図った。それまでは、各地に小規模のものはあったが、各種の蚕具を網羅したものがなく、当業者は、不便を感じていた。また、宇和町の玉正新八も、同町上ノ町で蚕具商を始めた。三九年には、八幡浜町菊池政太郎も新町の自宅で開業し、順次県下で開店された。

 氷庫利用による蚕種冷蔵

 西宇和郡川之石村日進館主 兵頭寅一郎は、明治三七年、金山出石寺山に氷庫を設け、自家製造の蚕種貯蔵を始めた。これが本県の氷庫利用の始めである。寅一郎は、毎年、数万枚の蚕種を販売し、その範囲は全国に及び大正五年には、蚕種製造全国七位に躍進した。一方、蚕種は売れても日露戦役時の三七、三八年の貿易市場の糸価は不振の傾向であった。

 蚕病予防法の公布と県農会の指導

 明治三八年政府は、蚕種検査規則を廃止し、かわりに蚕病予防法を公布した。県では庁内に蚕病予防事務所を置き、高等官待遇浦部嘉四郎が所長に就き、宇和島・卯之町・八幡浜・大洲・西条の五か所に派出所を設けて、各主任を常務させ、母蛾検査事業を掌理させ、蚕病の予防駆除に努めた。一方、屑繭整理にも意を用い、熊本県より吉永信子先生を招き各地で実地講習を行った。
 また、県農会にも蚕業専門技術者を置き、各郡に稚蚕共同飼育組合を設けさせるなど、民間側も組織的な指導に尽力することとなり、三九年度より奨励規程により県下各市町村で、官民協同推進体制が、名実ともに整備され始めた。

 共同養蚕組合

 明治三九年、日露戦役終結に伴い、本県蚕業も急激な進歩を図るべく養蚕組合の結成を官民協同で推進した。結成奨励の趣意は、①県下各市町村内に養蚕業者相より一小組合を組織すること。②各組合ごとに一名の現業教師を招き、蚕業万般の業務を実地指導し、斯業の改善発達を期すること、であった。
 その具体的方法は次のとおりである。

   一 蚕種を共同購入し、格安で強健優等な品物で混ぜ物のないものを飼育する。
   二 蚕種の貯蔵催青を共同して行ない、省力、正確を期する。
   三 稚蚕の共同飼育を行ない、初心者を保護し難しい作業をさせない。また疾病の素因を作らせない。
   四 飼育技術の改善を図り、桑葉、炭火、労力の軽減をはかり、殺蛹乾繭法を習得させる。
   五 生繭の取扱上の損害を除去し、売買を有利にし、繭価の維持向上をはかる。
   六 共同販売、共同蚕病消毒などあらゆる共同事業を実行する。
   七 必要な蚕具を貸付ける。(一組合に対し、蚕種貯蔵器一個・消毒器一個・殺蛹乾繭器一個・消毒薬品類若干)

かくて、明治四〇年、共同養蚕組合は四六となった。(三二組合県費補助、一四組合郡又は郡農会補助)


 郡立大洲高等女学校養蚕科

 現大洲高等学校の前身である郡立大洲高等女学校では、ローカル色のある学校運営に当たっていたが、明治三九年特に養蚕教育を重視し、養蚕思想の啓発に努め、本科四年生、実科二年生に対しては、養蚕実習も課した。その後、西条高等女学校や周桑高等女学校でも養蚕教育を行った。

 母蛾検査吏員として女子を採用

 明治四二年、母蛾の顕微鏡検査に従事させる目的で女子三一名を採用した。検定試験は農商務省の検定制度に基づき、同省が出張検定試験を執行した。なお、試験に先立ち予備講習が行われた。場所は蚕病予防事務所南予出張所。学科及び実習は養蚕法、蚕体解剖、蚕体生理、蚕体病理、消毒法、顕微鏡使用法、母蛾検査実習で、講師は西村弥吉、廉田秀太郎、亀井茲孝、田仲伸一、森重行、村上是哉の六先生であった。

 郡農業技手(蚕業専門)に県費補助(俸給)

 明治四二年四月より各郡ごとに蚕業専門の技手を置き、指導に当たらせた。この技手に対しては、郡農業技手俸給補助規程により補助されることになった。当初の専門技師は次のとおりである。

  (宇摩郡) 瀬川千秋  (新居郡) 横井実太  (周桑郡) 田中伸一  (越智郡) 西山幸蔵
  (上浮穴郡) 青木喜市  (伊予郡) 中西信夫  (喜多郡) 木上垣蔵  (西宇和郡) 糸井徳三郎
  (東宇和郡) 橋本文吾  (北宇和郡) 小林儀三郎  (南宇和郡) 松尾傅吉    (以上一一名)

 なお、補助内容は、農業技手俸給の半額以内で、一郡の補助金額は、一か年二〇〇円以内となっていた。


 共同揚返場の設立

 明治四二年、吉田町の有志製糸業者一〇名が共同揚返場を設立し、小規模業者の便益を図ることとした。加入釜数一〇〇釜、揚枠四〇窓であったが大正四年解散した。明治四四年大洲町でも、河野駒治郎らが発起人となり、株式会社大洲共同揚返場を設立し、零細業者はよろこんだ。総釜数は、六か所で二九六釜、揚枠一二〇窓、揚返女工定員一五名であった。

 共同殺蛹乾燥場の設立

 明治四四年、県は補助政策として共同殺蛹乾燥場の設立を促進したので、徐々に建設するものが現れた。しかし一方では、蚕種の保護奨励をないがしろにしているとか、製糸業者の好まない共同殺蛹施設作りであるとか、批判的な意見もあったようである。

 愛媛蚕友会

 明治四二年、有志が集まって「愛媛蚕友会」を組織し、その後月刊雑誌を発刊して本県蚕糸業界の耳目となった。会長には、三間村の岡本景光を推し、雑誌の主筆及び経営者は、明治村の池下常五郎であった。

 大日本蚕糸会愛媛支会設立

 明治四四年、大日本蚕糸会愛媛支会を設立し、各郡に支部を置き役員を配した。支会長は伊沢多喜男知事、幹事長武内鼎吉、幹事廉田秀太郎・西村弥吉・池田栄太郎・前田政吉・土上重助・村上是哉、支部長には各郡長を充てた。

 蚕糸業法の施行と制度の改廃

 明治四五年、蚕糸業法(明治四四年三月法律第四七号)の施行に当たり、蚕病予防規則が廃止され、蚕業取締所が県庁内に設置された。初代所長には、農業技師 西村弥吉が就任し、県下に五支所を置いた。各支所の主事は次のとおりであった。宇和島 西原節二郎、宇和 日浅栄一郎、 八幡浜森政信、 大洲 加藤傅次郎、 西条 亀井茲孝。なお、従来、南予及び東予両出張所で実施していた母蛾検査の事業は廃止し、五支所で分担執行することとなった。

 大洲繭・生糸・屑物売買取引所と盛況さ

 明治四五年一月、大洲繭売買所は、事業の進展に伴い組織を改めて株式会社大洲繭・生糸・屑物売買取引所となり、従来の規模を拡充して売買両者の中間に介在し、双方の便益に大いに貢献した。資本金は五、〇〇〇円、社長河野竹三郎その他重役 今岡梅三郎、河野駒治郎、程野真太郎、程野萬次郎、新家久二郎であった。
 明治三二年売買所開設時は、一か年の取引高三~四、〇〇〇貫に過ぎなかったが、明治晩年の四五年には、六万貫余と実に一七倍以上になる盛況さであった。大正六年には場所狭隘となり、県費補助一、六二〇円を受け、総工費四、八八三円で新築した。

 愛媛県原蚕種製造所

 明治四五年五月八日、愛媛県原蚕種製造所規程が定められ、県庁内に仮設し、農商務課長 武内鼎吉が所長を兼務した。原蚕種製造所では、種繭審査会で合格した繭の中より、何ロかの種繭を購入し、原蚕種を製造していた。第一回地方種繭審査会は、明治四五年六月卯之町で開かれた。審査請求者六四名 一二八点 うち、合格者一八名 二三点であった。この合格繭より七口の種繭を購入し製造した記録が残っている。製造所は、卯之町光教寺本堂を仮用し、村上是哉監督のもとに清家卯太郎助手となり、女子九名も従事し、一万六、三二四蛾の蚕種を製造した。
 その後、原蚕種製造所を喜多郡大洲村に移した。選定に際しては各地より誘致運動があり難行したといわれている。なお、この原蚕種製造所が前身となり、蚕業試験場、蚕業講習所へと拡張して行ったのである。

 乾繭場の設立補助

 明治四四年から四五年にかけて、県は乾繭場の設立を奨励し、製糸の効率化を図らんとした。そこで補助金を支出することとなった。その結果、県下で早くも四六か所の設立がみられ、補助目的を達成したので助成設立は二年間で終了した。
 四五年共同養蚕組合の設立は一九八、うち県費補助にかかるもの七八組合、其の他によるもの一二〇組合であった。

 明治四五年の蚕糸業統計

 桑園  五、六三四町歩
 養蚕戸数  春蚕二万八、四三四戸 夏蚕七、七四〇戸 秋蚕二万一、五三五戸
 繭  七万六、八七七石(春四万一、二九五石 夏七、四五四石 秋二万八、一二八石)
 生糸  六万五、四五九貫
 蚕種  框製 一、〇五八万三、三五六蛾  普通製 一、五三四枚
 蚕業関係の県予算  金六万五、六八〇円
             (内  訳)
        蚕業奨励費          一、五〇〇円
        蚕業取締吏員費    三万六、三五〇円
        原蚕種製造所建設費 一万一、〇一一円
        原蚕種製造所費       三、一一九円
        養蚕技手給補助       二、四〇〇円
        共同養蚕組合補助費    七、〇〇〇円
        乾繭場補助費         一、八〇〇円
        風穴設備補助           五〇〇円
        桑園増殖費          二、〇〇〇円
               計      六万五、六八〇円




表1-3 乾繭場設立者

表1-3 乾繭場設立者