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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第二節 中期(蚕糸指導奨励期)


 繭・生糸の審査

 明治一六年三月、前年産の繭・生糸を群馬県の官営富岡製糸場に委託し、審査批評を頂き、それを印刷して、県より各当業者あて配布し、将来の参考に供させた。県の公文書には、「各自、項目毎の表示に注意し、優劣の差を比較検討のうえ、優秀なものは益々奮い立ち、劣等なものは、益々勉励し漸次精良の域に進むよう」訓書されていた。審査表は次表1―1・2のとおりである。

 繭品評会の始まり

 明治一六年六月、宇和島で地方の産繭を丸の内和霊神社内に集め、本県で初めて品評会を開いた。一等賞は、宇和島の澤義嗣であり、その原種は、遠く福島県産の赤熟であった。このころ、吉田興業社をはじめ、各製糸業者は、工女を大分県など先進府県に派遣し、技術改善を図るべく努力し始めた。いわゆる養蚕・製糸両面指導奨励期の幕開けである。

 村上是哉の科学的指導

 大洲町出身村上是哉は、明治一七年四月、東京の佐々木長淳の門下生となり、蚕体解剖及び蚕種微粒子病検査の手ほどきを受け、この科学的技術を実地に応用し、幾多の業蹟を残している。蚕糸業の指導奨励に従事すること四〇年。その間明治二一年には愛媛県に赴任し、一八年間ひたすら本県蚕糸業の振興に尽くされ、大正六年には産繭量を三〇年前の一〇〇倍に達する一〇万石に到達させた。もちろん、村上是哉一人の力とは言えないが、その影響は大である。また、本県、古来からの蚕業の沿革を『伊予蚕業沿革史』にとりまとめ大正一五年発行されたのは、蚕糸業史上、貴重な遺稿であり、本県史にも活用しているところである。

 伊予蚕業協会

 明治一八年五月、三好保俊・池内信嘉らは、伊予蚕業協会を設立し、本県の蚕業振興のため、文書指導を強力に行うべく、次のような規則で運営した。

        伊予蚕業協会規則
  第一条 本会は、伊予蚕業協会と称し、仮りに伊予国温泉郡湊町一七番地 松山蚕糸会社内に事務所を設け事務を取扱
       うものとす。
  第二条 本会は、伊予国中に蚕業を拡張せんがため、通信応答をなすをもって業務とす。
  第三条 各地蚕業の景況を通信せんがため、各郡中に一名ないし二名の報告委員を置くものとす。但し、当分の内、各郡
       有志中へ本会より委託するものとす。
  第四条 各郡報告委員は、毎月一回(一〇日まで)養蚕中は、毎月二回(一〇日、二五日まで)づつ、その地蚕業の状況
       及び蚕業必要の件を本会に報告すべし。
  第五条 本会においては、各地の通信及び蚕業必要の件、その他蚕業質問応答に係るものを編集し、毎月一回づつ、会
       員に報告すべし。
  第六条 会員は、毎年一月、七月の五日までに、会費金三〇銭あてを本会に送付すべし。但し、郵便切手を代用するも妨
       げなし。
  第七条 報告委員へは、本会より毎月金二銭あて、養蚕中は金四銭あての割合をもって、郵便切手を送付すべし。
  第八条 会員は、本会に向って、蚕業に係る疑問を発し、又は意見を述べるものとす。
  第九条 会員より、質問を受けたる時は、本会の直ちに答え得る点は、その月の報告書に掲載し、本会において答え得ざ
       る件は、他へ問い合わせのうえ、追って報告すべし。

   (注)最初の会員は次のとおり 四三名であった。
     (新居郡)望月九八 (周桑郡)黒川予一右衛門 野口忠敏 (越智郡)松本鬼知二
     (温泉郡)四谷継之 広瀬唯七 三好保俊 伊藤栄太郎 白石孝之 三原恒因 池内信嘉
     (久米郡)池田輝秀 (下浮穴郡)得能通義 (上浮穴郡)石丸正安 正岡市平 土居通昌 二宮益雄 梅木正衛
    玉井貞範 山内賤男 鶴原太郎治 (喜多郡)倉辻明教 下井小太郎
     (東宇和郡)長尾信敬 吉田定 澤義嗣 清水長十郎 松本幸平 脇田勘信 梶原省三 清水七郎 末光三郎
    古谷綱紀
     (北宇和郡)小笠原長道 大久保忠茂 吉良壽一郎 山崎俊 遠山矩道 山崎忠興 国松武雄 岡本晋 松井俊信
     (南宇和郡)矢野五郎  (以上四三名)


 品川弥次郎南予巡歴

 明治一八年六月二六日、農商務省大書記官 品川弥次郎宇和島に着き、南予地方を巡歴し、各地で蚕糸業を奨励したので、宇和島、吉田の斯業有志の志気が一段とあがった。特に宇和島では、小笠原長恒が女子一七名を引卒し、富岡製糸場(群馬県)に入場させ、製糸工女の養成に力を入れた。

 西条養蚕製糸会社の設立

 明治一八年一一月、吉田藤九郎、望月九八らは、蚕糸業が有益で士族授産に適するものと考え西条町明屋敷で二・五反の土地を購入し、西条養蚕製糸会社を設立し、吉田藤九郎推されて社長となり、翌春より事業を開始した。数年後、施設を望月九八個人に移し経営に努めたが、まもなく解散した。

 蚕業専門技術者の設置

 明治一八年六月、松山蚕糸会社主催により県内有志蚕業集談会を松山で開き、さらに一〇月には、第三農区養蚕製糸改良会を八幡浜町で開催した。これらの会の決議事項として、県庁内に蚕業専門の技術者を置き、大いに斯業を奨励するよう知事に建議することになった。その後、関新平知事に対し、小笠原長道と遠山矩道の二名が建議書を提出し、口頭で種々陳述した。
 その結果、明治二一年二月、村上是哉が本県蚕糸業の主任に着任し、細田栄治(讃岐国一円担当)、大森得次郎(宇摩、新居、周布、桑村、越智、野間の六郡担当)、川口傅右衛門(風早、和気、温泉、久米、伊予、下浮穴、上浮穴の七郡担当)、村上是哉主任(喜多、西宇和、東宇和、北宇和、南宇和の五郡担当)、山本彦吉、後藤新次の六名がそれぞれ桑園管理法、桑樹栽培法を懇切に講話指導のうえ、実地指導を合わせ行うなど、蚕糸業の振興に尽力した。
 また、前述の改良会で小笠原長道は、顕微鏡による蚕種微粒子毒の検定法を発表し、病毒のおそろしさを認識させた。

 伊予之国蚕糸業組合

 明治一八年、農商務省令第四一号に基づき、本県でも布達をもって、蚕糸業組合を設置し、蚕糸業上の取締りを行うこととなった。なお、組合設置の目的は、「組合員が協同一致して養蚕、製糸蚕種の改良を図り、販路を内外に拡張すること」とあり、その手段として次の八項目を実施するよう規則で示されている。

   一 桑樹の改良及び培養の適否を講究すること。
   二 製糸に良好な種類を選び、育養すること。
   三 漸次、太陽殺を止め、製糸に適する殺蛹法を設けること。
   四 繭の貯蔵を完全に行うこと。
   五 蚕病の予防法を講究すること。
   六 蚕糸は精良を主とし、粗製濫造をなさざること。
   七 蚕糸は成るべく捻造になすこと。
   八 蚕糸は品位束装を一定にし、成るべく合同販売をすること。


 蚕種の病毒検査と検査員の養成

 明治一七年四月、農商務省蚕病試験場が東京に設置され、微粒子病の試験が行われていたが、一九年の秋から西ヶ原に移って蚕業試験場となった。
 一方、蚕種業者や養蚕業者からは、蚕種の病毒検査が必要であり、検査員を養成してほしいという声が高くなった。そこで明治一九年の夏、農商務省令で蚕種検査規則が公布され、ついで蚕種検査施行手続が規定されて、検査員の資格や検査方法がきめられた。ところで、その検査員になるには、原則として、蚕業試験場で検査法を伝習し、習得証書を得なければならなかったが、明治一九年には、全国から募集した講習生に三か月間、学理と実習による講習を行ったのをはじめとして、後には六か月に延長した。ここでは、微粒子病の検査法だけでなく、動植物・理化学・生理病理・養蚕術・製糸術・蚕種製造法などの学理と実際を教習して、各県養蚕伝習所、蚕種検査講習所などの教師や高級な巡回教師の養成をも目的にしたので、これらの卒業生によって全国的に蚕糸業の技術教育が行きわたって、多数の養蚕教師を送り出し、その水準もだんだん高くなった。

  本県大洲出身 村上是哉は、明治一七年四月 蚕病試験場で、佐々木長淳について蚕種微粒子病検査法などを学んだ。
  松山市 池内信嘉、籾山重豊も明治二〇年卒業した。

 当時、県の蚕種検査は、松山(県庁)大洲(喜多郡役所)八幡浜(西宇和郡役所)宇和島(北宇和・南宇和郡役所)の四か所で行われていた。

 蚕業振興のための各郡長会議

 明治二〇年三月、藤村紫郎が知事に着任。直ちに県下の状況を巡視し、風土民情が蚕業に適することを認め、赴任第一着手として、その年六月各郡長会議を招集し、地方政務の要綱を訓示すると共に、特に蚕業奨励の方針を力説し、今後熱意をもって指導するよう命令した。

   (注)当時、斯業奨励の意を体し、努力した郡長及び郡農商係主任は次のとおりである。

  郡名                郡長         農商係主任
  宇摩                綾野 宗蔵     田渡 清作
  新居、周布、桑村        薬師寺 篤行    真木 栄
  越智、野間            二俣 今朝松    中村 経満
  風早、和気、温泉、久米    土居 正蒙     広瀬 唯七
  下浮穴、伊予          黒川 通成     柳田 幹
  上浮穴              檜垣 伸       石丸 正保
  喜多                下井 小太郎    近田 綾次郎
  西宇和              都築 温太郎    布 行寛
  東宇和              告森 良       吉田 定
  北宇和、南宇和         竹場 好明     山崎 俊

   ○藤村知事の蚕業奨励方針
    一 栽桑希望者の桑苗要求数をとりまとめ、県庁であっせんの労をとること。
    二 明治二一年度において、松山、高松の二か所に養蚕伝習所を設置するべく予算を県議会に提出すること。
     (明治二一、三、七、県告示一九号で設置。明治三四年県立農学校設立により引継。)
    三 各郡役所へ蚕業技術専門員を置くこと。
    四 各郡有志を勧誘して、先進地視察を行うこと。
    五 栽桑希望者のある町村・部落へ、特に吏員を派遣し、栽桑法の講話及び実地指導をさすこと。
    六 製糸業管理者の実地養成のため、有為の青年の勧誘と、有名製糸場に委託研修を交渉すること。
    七 海外輸出向織物の伝習生を勧募して修業させるため、主産地へ派遣すること。
    八 県庁内に養蚕学術及び経済上に経験ある主任者を置くこと。


 県立養蚕伝習所

 明治二一年県で設置した松山養蚕伝習所(定員二〇名)、高松養蚕伝習所(定員一二名)のうち、高松は、明治二一年一二月分県後、香川県により一年後廃止された。松山は、明治三四年、県立農学校に引き継ぐまで続いた。松山は持田村、高松は栗林公園内に建設されたが、建築委員は、村上是哉で、蚕室は、幅四間二尺、長さ一六間二尺、柱立高さ一丈三尺五寸であった。桑園は、松山一町四反五畝一七歩、高松一反五畝歩であった。品種は早生種(市平・高橋)中生種(魯桑・柳田)晩生種(十文字・鼠返し)などであった。
 なお、職員、入学、教科などについては、『資料編社会経済上』三二七頁に記載のとおりであるが、松山で開所以来農学校に引継がれるまでの養成人員は次のとおりである。

 明治二一年   宇摩郡川之江村    竹内雅三郎ほか一五名
    二二年   新居郡玉津村     矢野広太郎ほか二一名
    二三年   周布郡福岡村     佐伯吉太郎ほか  九名
    二四年   下浮穴郡原町村    小笠原薫ほか   六名
    二五年   喜多郡五十崎村    河内清太郎ほか一八名
    二六年   東宇和郡溪筋村    土居丑太郎ほか一九名
    二七年   北宇和郡八幡村    清家信一郎ほか二三名
    二八年   西宇和郡四ッ浜村   河野 清ほか  二二名
    二九年   新居郡大島村     野間喜市、喜多郡喜多村下井盛夫ほか三〇名
    三〇年   温泉郡三内村     山口団十郎ほか  六名
    三一年   北宇和郡高近村    奥野常一ほか   九名
    三二年   周桑郡国安村     田中光三郎   松山市北京町  松本哲二郎 ほか一七名
    三三年   西宇和郡川之石村  那須善助     松山市出渕町  越智卯一ほか   一四名
            合 計           二二五名
   (注)郡市別内訳
         宇摩郡   竹内雅三郎ほか二二名     新居郡   矢野広太郎ほか  六名
         周桑郡   佐伯吉太郎ほか  八名     越智郡   矢野育太郎ほか一一名
         上浮穴郡 正岡保徳ほか  二五名     伊予郡   三井浅吉ほか  一三名
         松山市   越智卯一郎ほか  三名     温泉郡   長田忠太郎ほか一七名
         喜多郡   小野文夫ほか  四〇名     西宇和郡 清水岩治郎ほか一五名
         東宇和郡 兵頭総一ほか  二三名     北宇和郡 山崎八十七ほか二六名
         南宇和郡 中尾定吉ほか   三名
         合 計   二二五名


 新居郡中萩村の機械製糸

 明治二一年四月、蚕糸業取締規則(資料編『社会経済上』三二八頁)が交付され、繭、生糸、蚕種の販売について、厳しい規制が行われるようになった。相前後して蚕業中興の功績者といわれた藤村知事が退任し、白根専一が着任した。明治二二年には、新居郡中萩村の飯尾麒太郎が五人繰の小規模ながら「ケンネル式」の手廻製糸機械を製作設置した。繰業は、大洲の小野テルヨを教婦に招いて始めた。事業は順調に進められ、年々拡張して、大正五年ころには、一五三釜になり、優等糸を製造するようになった。

 蒸気機関使用の製糸工場建設

 明治二二年五月、宇和島製糸会社を解散し、懸案の南予製糸株式会社を設立し、小笠原長道が社長に、谷脇幸六が支配人となった。そして待望の蒸気機関の製糸工場を本県で初めて建設した。場所は広小路で、釜数五二個、ケンネル式で、設計は村上是哉が行い、汽缶、汽機は大阪鉄工所で製作、鍋は信楽、金物類は山梨県山田庄左衛門製、器械の木製部分は、当時愛媛師範建築中の山梨県人小林某の指導で宇和島の池清七・芝小四郎及び中萩村の塩田宗太郎が造った。年々隆昌に向かい、釜数も九六個に増やし経営中であったが、明治二七年一月、火災のため烏有に帰した。しかしながら再興を期して明治二八年より事業を継続したが、収支償わず、まもなく解散した。
 また、西宇和郡双岩村 摂津藤一郎も同様の施設を造り、優等糸として名高い「摂津製糸」の礎を築いた。

 稲扱風穴の蚕種導入

 明治二二年、東海信越の国鉄開通により、長野県南安曇郡稲扱村の風穴に貯蔵していた優秀な蚕種が全国各地に送れることになった。それまでは、運搬日数が長くかかり、途中孵化して原種とすることができず困っていた。本県でも吉田町の佐藤春興が移入し、飼育を始め好成績を上げ、次第に全県下に普及した。その後、明治三三年五月、上浮穴郡杣川村大字大成で天神村宮田儀三郎が風穴を発見し、活用された。

 足転器製糸

 明治二二年、吉田町 紀伊大六は、娘シガ子を群馬県富岡に行かせ、足転器(一名足踏機又は達磨という。)製糸を勉強させ、この製糸法で創業した。器具製作は、同町の木匠浜田十三郎が当たり、のちその子清太郎に伝え、さらに立間尻村児玉亀太郎、宇和島町芝小四郎、池清七らが引き継いだ。そして足転器製糸法の手軽さが受けて、九州及び山陽地方に供給する盛況を招来した。

 各地に製糸場建設

 明治二〇年代は、養蚕・製糸両面からの斯業奨励が活発に行われ、明治二三年には、松山測候所も開設され科学的農法が進展した。そのころ、大洲の河野喜太郎及び程野宗兵衛は、同地にケンネル式一二釜製糸場を建設した。先進山梨県で修業した河野駒治郎の設計管理によるものである。
 宇和島では、赤松伊平が製糸場を設け、卯之町でも、別宮今治郎、和気庫太郎らの主唱により小規模ながら製糸場を建設するなど、ようやく養蚕振興のみならず、付加価値を考慮して製糸業へと進み、その後も陸続と後を追った。かくては、本県で産出する生糸は貿易市場で優位をしめ、後日の「伊予糸」の声価を博するまでに至った。なお、原料繭は、常に不足がちで九州又は中国筋より移入していた。
 一方、製糸には婦女子の手が不可欠であり、県では製糸教婦養成の必要性を痛感し、明治二四年、県下各地より一五名を募集し養成のため、富岡製糸場へ派遣した。
  応募婦女子は次のとおりである。

  宇摩郡川之江村(三好エイ・高津ヨシノ・石川ナヲ・石川キヨ・高原タカ・楠崎クス・石川ツヤ・藤井ケイ) 松山市通町(高木シゲ・野中ユキ) 喜多郡大洲町(一色ムラ・郡コヨシ) 喜多郡久米村(城戸モリヱ) 喜多郡喜多村(大月ハルヤ) 喜多郡菅田村(高井マサヲ)   以上一五名


 共捻式機械製糸の開始

 大洲町では、前述の河野、程野両氏合名経営の製糸場を明治二五年に至り、分離し独立経営に移した。河野は旧城廓内に、釜数七二個の共捻式工場を建設し、程野は、元の工場跡に建設した。これが、本県における共捻式機械製糸の始まりであり、その後、能率的な設備として、県内に普及した。

 蚕種取締規則と蚕種製造者

 明治二九年、蚕種取締規則(『資科編社会経済上』三二九頁)が施行され、蚕種を製造し、蚕種を  売買し、蚕種を飼育しようとする者は、すべてこの規則を受けるようになった。そして違反者には、罰則が適用されることとなった。当時、蚕種製造業者の主なものは次のとおりである。

   (宇摩郡) 川之江町 清水駒次郎  松柏村 藤枝見取  小富士村 三木達太
   (温泉郡) 雄郡村 珠川慶郎  持田村 三好保徳
   (松山市) 松山蚕糸会社
   (伊予郡) 南伊予村 阿部倍太郎
   (喜多郡) 喜多村 小渕正明  南久米村 小倉通勝  大洲町 程野宗兵衛  宇和川村 泰元四郎  天神村
          栗田熊雄 滝川村 鎌田鉄一郎
   (西宇和郡) 喜須来村 河野文平  川之石村 兵頭寅一郎  日土村 清水岩太郎  神山村 飯田忠平  平野村
            大藤嘉重郎
   (東宇和郡) 卯之町 清水長十郎  下宇和村 古谷綱紀  横林村 安倍小源太
   (北宇和郡) 清満村 山崎徳広  丸穂村 小笠原長道  明治村 芝来三郎  好藤村 山崎儀蔵(清延社代表)
            同村芝縫太郎  旭村 兵頭明治  吉田町 山内猪熊  同町 西川綱男            (以上)


 虫供養と製糸職工の慰安会

 製糸業者は、営利目的もあり、農村婦女子らを職工にして可酷な就労を強いる向きが散見された。そこで明治二五年八月、大洲町曹洞宗法華寺二〇世の住職 密山和尚は、地方養蚕製糸業は、物質的にはよろこぶべきことではあるが、一面、多くの益虫を無惨にも火殺に葬るのをあわれに思い、これの救霊施餓鬼の実施を思い起も、龍護山 月庵和尚の賛同を得て、檀徒で蚕糸業者の程野茂三郎らを誘って発起人となり、付近一二か寺の僧侶を集め、肱川河原に施餓鬼柵を設け、「蚕苦哀慰救済施餓鬼」なる牌を安置し、最も壮厳といわれる、「水陸会」を挙行した。その後、毎年同町五か寺(龍護山、大禅寺、壽永寺、清源寺、法華寺)輪番で実施すると共に、製糸職工の慰安会もあわせ行い、永く大洲町の行事として続けられた。
 宇和島地方でも同様の会を開き女子職工の慰安が行われるようになった。俗に「虫供養」といわれ、女子職工らの夏のたのしい行事となった。また、明治二六年三月、大洲町の法華宗小倉山光明照院の住職富永龍昇は、丹波国桑田郡細川の二条公別邸にあった「養蚕大明神」を移し、祭日、二のつく日には「講」に入った信者らが崇敬参拝した、この日も一種の慰安日であった。

 日清戦役時も蚕糸業振興

 明治二七年一一月、東京芝増上寺境内の弥生館で全国蚕糸大会が開催され、蚕糸業振興について各県ごとに努力するよう申し合わせた。それを受けて本県の出席者 小笠原長道・赤松伊平・程野宗兵衛及び村上是哉らの名をもって開会中の県議会に対し、蚕糸業振興策の推進方陳情した。蚕業議員ともいうべき、山崎儀蔵・紀伊郷篤・近田綾次郎らの努力もあって、日清戦役中にもかかわらず、蚕業大家による講習会費一九四円か追加予算として可決成立した。そこで東京から佐々木長淳翁を迎え、明治二八年二月一一日から三月七日まで、川之江・西条・今治・松山・宇和島・御荘・旭村・野村・卯之町・八幡浜・大洲・郡中・久万の一三か所で講習会を開き、斯業関係者の志気を奨励鼓舞した。

 製糸資金供給機関

 明治二九年に至り、大洲町の程野茂三郎らが製糸資金供給機関の必要性を切望し、創立委員一〇名でもって同年三月一日「大洲商業銀行」の設立認可申請を行った。程野らの熱意が上意に達し、同年四月三日許可、五月二〇日開業した。資本金は最初二〇万円、明治三一年五月増資金二〇万円、同四四年五月同二〇万円を加え、合計資金六〇万円となった。同銀行は専ら製糸資金融通を目的としていたので斯業発展上、多大の貢献をした。

 養蚕技術の改良

 上簇器は、養蚕の省力化を図るうえで重要なものであるが、明治二八年四月、西宇和郡双岩村の井上鹿市は、便利で安いものを考案し「井上氏改良簇」と名付け製造販売を始めた。また、秋蚕飼育の増加に伴い蚕種冷蔵の必要ができてきたが、当時は人工冷蔵装置や氷庫貯蔵を知らなかったので困っていたが、同年周桑郡千足山村折掛の高地に風穴を発見し、「折掛風穴」後に周桑農会経営の「石鉄風穴」として、技術改良上、非常に役立った。

 主要農村で養蚕開始

 明治三〇年になり、国策的蚕糸業奨励の結果、養蚕実施町村は、二八七か町村に及び、蚕業皆無町村は非農村的町村の数か所に過ぎなくなり、蚕糸業は隆盛に向かっていた。しかしドイツの膠洲湾占領など外部要因により、生糸価格の低下がしばしば起こり、安定増収の道は遠しの感があった。









表1-1 繭審査表

表1-1 繭審査表


表1-2 生糸審査表

 表1-2 生糸審査表