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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 前期(士族授産奨励期)


 伊予八藩の蚕糸業

 明治初期の蚕糸業については、伊予八藩の士族などの活路として蚕種・生糸が海外輸出品として、利益が多いことに着目し、各藩とも蚕業の奨励に努めた。各地(藩)における主な記録について記述することにする。
 今治藩においては、明治二年物産方に、養蚕教師真鍋氏を招き、桧垣氏らに養蚕術を伝習させ、桑は鈍川・鴨部の山桑を採り常盤町で飼育した。その規模は狭少であった。その後まもなく廃藩となり、養蚕の仕事は桧垣氏に払い下げられ、同氏を中心に各地で続けられた。
 宇和島藩では、明治三年の春、物産方で養蚕・製糸・機織の教師を滋賀県より招いて藩士に伝習した。なお、滋賀から招かれたのは老練者二名と工女三名であった。八幡村生産場で経営し、飼料の桑葉は日振島より取り寄せ、製糸は手挽座繰で行い、機織は縮緬の類であった。養蚕の技術は主として藩士の小川信賢らが習い、製糸の方は次女の小川安子らが熱心に習っていたが、明治四年廃藩置県となり、これら藩営事業は廃絶されることになった。
 小川信賢は、明治七年、長男信理(二八歳)、水原益雄(二〇歳)及び門田顕敏(一五歳)の三名を群馬県相生町の沢吉右衛門のもとに派遣して、捻糸・色染・機織の技術を研修させた。小川信賢はその後も各地に蚕糸業の拡大に尽力した。
 大洲藩でも明治三年桑苗(滋賀県の細江種及び市平)三万本を購入して士族に与え、屋敷内または路傍などに栽植させて、順次養蚕業を広めようとしたが、時勢の変遷によってその目的を十分に果たすことができなかった。この蚕業を奨励したのは藩の大参事山本尚徳で、蚕業は将来有利な業であると考え熱心に事に当たった。昭和六年その徳をたたえるため頌徳碑が(大洲市立南中学校内)建立された。
 西条藩では、信藤潮重固が自ら信州を訪れ、蚕業技術を学び、明治四年帰郷後、藩の賛助を受け、付近数村を勧誘して桑を栽植させ、育蚕術を教え奨励したが、天領も廃藩置県制への大変革の影響を受け、藩も蚕業奨励どころでなくなり、所期の目的を達成できなかった。なお、和田義綱も就業の道として大いに協力した。
 松山藩では、白石孝之らが養蚕技術修得のため、京阪地方で研修を受け、帰郷後、岸重崔・菅谷清敬・由井清・東修・新海・吉野・清水・村井の八氏と共に、松山養蚕会舎を設立し、養蚕・製種の業を開き、その端緒をつくった。
 その後、明治一〇年に県の勧誘奨励により、機械製糸が優れていることが各所で認められ、旧大洲藩士の福井茂平は、大橋有らと共に、旧藩の子女一一名(大洲七名、松山四名)を備中(岡山県)の笠岡製糸場に派遣して機械製糸技術を修得させ、翌年松山市外立花橋畔に製糸工場を建設し、翌一二年には、各郡より子女を募集して機械製糸技術を伝習した。なお、明治一一年には松山城山で、同一三年には琴平神社で、それぞれ博覧会を開催するにあたって実地に機械繰糸の技術を大衆の観覧に供した。
 小松藩でも、青山操・喜多川明承・黒川予一右衛門らが蚕糸業に従事し、一時期努力したあとがうかがえる。

 愛媛県の設置と蚕糸業

 明治六年二月二〇日、神山・石鉄の二県を併合して愛媛県となり、松山に県庁が置かれた。明治七年に一時、宇和島に県出張所を設け、松倉恂が長となり、南予一円の地を分轄させた。
 その時、旧宇和島・吉田藩の士族中、主な者を招集して、士族授産の方法を諮問すると共に、養蚕製糸が有利であり、士族に適した業であることを説いた。松倉の郷里、福島県二本松は、古くより蚕糸業をもって名を成した所であり、その説くところは、当を得ていたため、両藩の士族は、大いに同氏の説を信じ、率先して各地の同志を糾合し斯業をはじめ、官地を借用して桑苗を植え、又は野桑を摘採して育蚕を試み、さらに子女に奨めて製糸の技術を修めさせるなど、士族の間において、ようやく蚕糸業に注目する者が多くあらわれた。当時の桑苗は、松倉が江州産の細江をあっ旋した。
 旧大洲藩士福井茂平も、二人の子女(長女ミチ、小川ヌイ)と共に京都府綾部在安場村において、養蚕製糸の技術を習得した。そして、明治七年四月には、大洲町柚木の自宅で蚕を飼い、座繰製糸業を起こすと共に地方有志を勧誘して技術の伝習に努め、一方、同志と共に梁瀬山麓に桑を栽植するなど、栽桑、養蚕、製糸業のやや秩序だった方法を開始した。

 県勧業課の設置と蚕糸業

 明治九年に至って、これまで士族のみで実施してきた蚕糸業は、不安定で不振の状態であったが、民間でもこの蚕糸業の存在をようやく知り始めた。そこで民間有志においても各地でこれを試みるものが現れた。同年四月には、愛媛県にも勧業課が設置され、これまで庶務課で主管していた殖産興業の事務を移し、杉山新十郎が初代課長となった。以後、県当局も積極的に蚕糸業を勧誘することとなった。ちなみに、維新後九年間に蚕糸業を始めた者の数は、僅かに三二町村四〇人であった。古来より養蚕農家町村を累計しても六六町村に過ぎず、県内一、〇九二町村中、六%であった。大正五年には三万戸となり全郡に及んだ。

 機械製糸法の奨励

 県は、蚕糸業を奨励するにあたり、まず機械製糸法の必要を認め、明治一〇年春期から旧松山藩士白石孝之を臨時雇いとして県内の指導奨励に当たらせ、大洲の士族大橋有が、その邸内に一〇人繰りの機械を設置し、製糸業を開始した。機械は笠岡より持ち帰ったケンネル式であった。
 この原料は、東宇和郡中川村真土産の夏蚕繭であった。これが本県における画期的な機械製糸業の嚆矢であり記念すべき事業であった。ケンネル式製糸法の本県への普及については、河野文平(喜須来村)、村上是哉(愛媛県属)の功績も忘れてはならない。明治一二年新谷町松田角太郎も機械製糸(座繰一二釜)を始めたが、数年後には、廃業のやむなきに至った。

 魯桑栽培の始まり

 明治一二年一月、杉山勧業課長退任し、第二代課長として藤野漸が迎えられた。そのころ、北宇和郡丸穂村 小笠原長道は、内務省勧業寮所管元新宿試験場より魯桑苗五〇本(一本一銭五厘)の払い下げを受け、自分の畑に栽植した。これが本県における魯桑栽培の始まりであり、長く本県で栽培された。

 製糸伝習会の開講

 明治一二年一〇月、県は各郡より製糸伝習のため子女を募集し、松山で六六日間製糸伝習会を開講した。場所は立花橋南詰興産社製茶場。講習科目は繭質検査・生糸製造・熨斗糸・真綿製造・名僊糸手挽の五科目であった。受講者名次のとおり。梅木好、石丸静、伊藤唯、清居節、林夏、小川安、垣本咲、近藤安、加藤幸、飯嶋末、友庫亀、信部留、大野常、二神竹、平田松、矢野清、小川咲、服部清 以上一八名(新居三、温泉五、伊予一、上浮穴二、下浮穴二、北宇和四、南宇和一)

   伝習生心得 明治一二年八月 愛媛県勧業課
    一 規則を守り、課業に勉励し教師の指図に違反すべからず。
    一 就業中猥褻の談話等すべからず。
    一 常式の喫飯を除くのほか、集会飲食の事等禁ず。
    一 病気等にて不参する時は、その旨教師まで届出ずるべし。
    一 就業時間中は、場外へ出ずるを許さず。
    一 伝習場へ寄宿を望む者は、夜具類は貸し渡すべし。
    一 寄宿生徒は、午後四時後といえども場外へ出ずるを許さず。

 県内産生糸海外へ初売り

 明治一三年四月、前記伝習生の製造した生糸を横浜の飯嶋栄助に委託して貿易市場で販売した。これが本県生糸の海外初売りである。当時、県内の産繭量少なく原料不足のため、長野県より繭一〇石を購入した。販売生糸量 三〇斤六厘、代金二四九円七六銭二厘(一七六・七六$)であった。なお、原料繭代金三九六円三一銭二厘と諸経費八一円二六銭、合計四七七円五七銭二厘の支出に対し、収入は前記のとおりのため、差し引き二二七円八一銭の欠損となり、前年度繰越の勧業費より支出弁済した。

 統 計

 明治一二年より蚕糸業にかかる生産品がはじめて、県の統計に記載され始めた。ちなみにその年の繭生産量は八九石、生糸は二一八貫であった。

 養蚕教師

 明治一三年三月八日、岩村高俊知事退任し、関新平が後任に着いた。県はかねてからの計画に基づき、養蚕教師二名を滋賀県より招き、松山(小倉与五郎教師)宇和島(柴田幾太郎教師)で指導に当たった。
 松山では、三好豊保が中心になり、松山養蚕会社を再興し、中村清躬・玉川為行・新海清幹・白石孝之らと共に育蚕・製種の技術を習得のため掃立蚕種一〇枚を使って実習した。宇和島では、都築温郡長の勧めに応じ、小川信賢を中心に養蚕伝習所を設け、澤義嗣・宇都宮二郎・小笠原長道らを含む男子三名、女子一二名が実習に励んだ。

 宇和島製糸会社の創業

 指導の成果を踏まえ、小笠原長道は、備中笠岡の製糸機械工匠重見杢四郎を迎えて、宇和島町一宮に八人繰製糸機械(ケンネル式)を築造した。そして松山で修業した工女を使って機械製糸を始めた。社名を宇和島製糸会社と称し、一、五〇〇円の株式とし、土居春敏・水野政豊が専ら協力し、小笠原が、社長におさまった。小笠原は研究熱心であり、かつて先進地の大分県を視察の際、円形蚕筐が使い易いのに着目し、南予地方に普及した。このかごは、大分県では考案者小野惟一郎にちなんで小野筐といっているが、南予地方では小笠原筐として親しまれていた。製作人は、八幡村の藤本初太郎である。

 吉田町の蚕糸業と遠山矩道

 吉田町でも遠山矩道を中心に、西川武美・佐藤忠和・甲斐春水らが協力して明治一三年授産興業社を設立し、春期に松山の白石孝之を養蚕教師に招き、各戸を巡回して指導を仰いだ。次いで備中笠岡より製糸教師を迎え、機械を県庁より借用し、社員の子女を中心に製糸を始めた。明治一四年、遠山は推されて社長となり斯業の拡張を進め尽力した。即ち、吉田町広小路に製糸場を建設するため、先進地である京都・滋賀・愛知・三重・神奈川・群馬・埼玉・長野・岐阜の諸府県の実地経営を視察し、帰県後、明治一五年三月起工し、同年七月竣工した。また、佐賀県より桑苗九紋龍を、福島県より赤熟蚕種を導入し、地方の有志に配付した。遠山は、明治一六年五月農商務省の蚕糸諮開会に出席し、全国著名の同業者に接し、新知識・技術を学び、その内容を印刷し県内関係者に配布した。さらに、工女若干名を引率して大分県の蚕業原社及び共同社で技術の奥義を習得させた。同時に屑物整理の有利性を感じとり、そのため座繰器一五台を直ちに製作して社員に貸与活用させた。
 明治一七年には、「経済繊維」と題する小冊子を作成し、有志に配布し、栽桑養蚕の必要性などについて普及に努めた。同一八年、東京上野の五品共進会開催にあたり、選ばれて繭糸審査補助員となり、先輩諸氏との交わりも一層深め、本県蚕糸業振興上、ひ益することが多かった。当時は中央で活躍する県人はまれであり、帰県後、海南新聞、その他の雑誌などに「東京みやげ」として蚕糸業者に役立つ記事を連載し、好評を博した。人々は遠山矩道の斯業への熱中ぶりを見て、「生糸爺」と呼んでいた。(資料編『社会経済上』三七四頁)

 繭・生糸の鑑定

 明治一三年に至って、県の積極的奨励の成果がようやく稔り、宇和島・吉田・大洲・松山・西条の五か所においては、宇和島製糸会社・吉田興業会社・大橋有農園・白石孝之農園・和田義綱農園を中核に繭、生糸を産出し始めたので、その筋の批評を仰ぐため、前五社(園)よりサンプルを集め、内務省勧農局及び群馬・福島両県に送り鑑定依頼をした。その結果、松山・宇和島は、おおむね輸出品の中等に値するが、その他は輸出に適さないとのことであった。理由は、綾取り少なく、かつ留ロがなく、繰返しが難しいこと。西条のものは、特に枠の周囲小さく、枠角広く、故に固着が甚だしいこと。また、大洲黄生糸は質が劣り、上等の織物には使用できないことということであった。

 士族授産養蚕の反省

 明治七年、岩村高俊権令着任後五年間は、地方政務の秩序ようやく整い、殊に家禄奉還の武士は、資金下賜の恩典に浴し、それぞれ競って産業を探している状態であった。その時、県は、蚕業奨励の道を講じ、あるいは士族の子女に勧めて蚕糸業技術を修めさせ、また蚕種、桑苗の配付を行うなど各種施策を推進した。そのため各地域で奮起し、蚕糸業の道に就かんとする機運が醸成されていた。しかしながら、明治一三年ころには、新たに蚕糸業を始めようとする町村は二九か所三五名であり、明治九年の六%に対し、九%に伸びたとはいいながら、指導の割には、伸び率は軽微といわざるを得なかった。
 明治一〇~一三年の四年間の創業者は三五名であった。

 柞蚕放養の奨励

 明治一四年三月、嶋忠之が県勧業課長に着任した。そのころ、県は柞蚕放養の有利性に着目し、種卵を東京で購入し奨励に努めた。従前の普通養蚕は奨励を緩めた。即ち、明治一四年の春秋二季にわたり、東京神田の小林滝蔵を教師として招き、下浮穴郡麻生村、喜多郡五郎村及び県庁構内の三か所で放育または筒育法で飼育した。種繭八〇〇顆で収繭一七万余顆の好結果を得た。そこで将来、県の一大物産にしようと、士族を始め、民間有志に奨め、種繭五万顆を一〇か所以上に配布し、飼育に当たらせた。明治一五年春期は創業後日浅く不慣れの仕事にもかかわらず、各地でおおむね良好な結果を得た。このため柞蚕放養は、一時に発展し、特に種繭(一顆五銭位)を販売して利益を得るもの多く、他県よりも続々注文などがあってすこぶる繁盛した。
 しかしながら、その後価格が低落し(一顆五厘ないし三厘位)病害虫被害もあり所期の利潤を上げられなかった。それにもかかわらず、県は勧業のほぼ全力を柞蚕に傾注した感があり、わが国での「柞蚕本場」を自他共に認める程となり、他府県から視察員や伝習生も派遣され、暗に本県に師事するようになってきた。
 また、本県産柞蚕糸は、わが国屈指の絶品と認めるものもあり、天皇・皇后両陛下の通常御衣として宮内省へ献納の栄に浴した。

    天皇陛下御召服地  冬白羽二重 幅(鯨尺)  一尺八寸   長さ 六丈八尺
                  夏奈良晒   織幅・長さ  同前
          御袴地    緋精好織   幅       一尺二寸  長さ 八丈八尺
    皇后陛下御召服地  冬白羽二重 幅       一尺     長さ 八丈
                  夏奈良晒   織幅・長さ  同前

 一方、明治一八年、アメリカのニューオリンズ万国工業品博覧会において、本県出品の柞蚕糸に対し賞状を贈られる光栄をみたが、祚蚕放養の弱点も多く、この奨励は四、五年で停止された。明治一七年の宇和島養蚕製糸改良会では、県は柞蚕のみ奨励保護し、家蚕をかえり見ないと不平を鳴らして散会した記録がある。

 東宇和郡卯之町の伝習会

 明治一四年ころ、東宇和郡卯之町でも清水長十郎は、同町末光三郎らの協賛を得てヽ宇和島から小川信賢・同ヤス子を教師に迎え、光教寺で町内婦女子を集めて、養蚕製糸(座繰)の技術を伝習した。当時その付近には桑葉は少なく、不足分は溪筋村大字長谷より採ってきたといわれている。

 池内信嘉の指導

 旧松山藩士池内信嘉は、愛媛師範卒業後、群馬県で教鞭をとっていた時、その地方の養蚕が盛んなことに感動し、これを郷里松山に持ち帰り普及しようと一念発起し、同県富岡町の佐藤国太郎及び七日市町の黛治邦について養蚕製糸の技術を学んだ。そして明治一四年ころから旧藩士を中心に「蚕糸業が国家経済に一大関係をもつことや士族授産に最も適当な事業である」ことなどを唱導勧誘した。その結果、明治一五年、同志を糾合して松山蚕糸会社を設立し、社長となった。続いて明治一八年、三好保俊と共に伊予蚕業協会を組織し、しばしば予讃両国を巡回し、蚕糸業の有利性を説述すると共に「蚕飼のしおり」、「養蚕問答」の書籍を著作し、技術の指導に大いに貢献した。一方、旧藩士の子女二七名を募り、養蚕製糸技術研修の目的で群馬県に三年間派遣し、黛治邦に委託した。

 原嶋聴訓と伝習所

 旧今治藩士原嶋聴訓は、明治一四年以来、専ら農事の改良に熱血をそそぎ、殊に蚕業が今治地方に有利なことを鼓吹し、実地奨励を行うと共に、毎年桑苗数千本を自ら育成し、無償で有志に配布した。明治二三年には、越智郡内有志と相談して、「私立養蚕伝習所」を開設し、数十名の生徒を養成するなど、蚕糸業発展に貢献した。

 第三農区養蚕製糸改良会

 明治一五年三月、宇喜五郡と上浮穴郡の有志が大洲町に集合し、第三農区養蚕製糸改良会と称する団体を組織した。そこで、蚕糸業発展のため当事者間で知識を交換する目的で、第三農区内(六郡)各郡ごとに臨時談話会を開催することを決議し実施に移された。

   出席者次のとおりである。
    中尾與三郎(御荘村) 小笠原長道(丸穂村) 遠山矩道(吉田町)
    清水長十郎(宇和町) 河野文平(喜須来村) 倉辻明教(大洲村) 
    佐伯義一郎(久万町) 梅木源平(明神村)    (以上八名)

 下井小太郎の挙家指導

 大洲の下井小太郎は、明治一三年、喜多郡長に着任後、郡内の状態を視察し、蚕業を奨励しようと計画し、二、三の有志と共に私財を投じて桑樹苗ほを設置した。苗木は知己の広島県勧業課長十文字信介に依頼し、鳥取県より、市平・十文字・赤木・高助・青木飜・鼠返しなどを購入した。明治一五年、郡役所勧業係倉辻明教と老農有志高田繁(菅田村)・白石林七(柚木村)と共に無賞で町村に配布しようとしたが、村民は歓んで受領する状態ではなく、村長や村内有志に懇願して配布した。明治一六年には、模範桑園を大洲村大字若宮の新谷・長浜街道分岐点に設置した。早・中・晩生の各種を二反余の土地に植栽し、良好な管理をしたので、枝条は一〇尺余(三m余)に伸長し、見学者は驚いたということである。これが喜多郡で耕地に桑樹を栽植した最初である。(それまでは、畦畔や路傍に植えていた。)
 明治二一年春、松山養蚕伝習所が開かれると、下井小太郎は、特に願い出て妻を入学させ、その技術を修得させた。さらに明治二九年には、養子盛夫も同所に入学させ、卒業後は、農商務省蚕業講習所の第一期生として上京させるなど、下井家を挙げて蚕糸業振興に貢献した。
 下井喜多郡長、在任一五年間のその他施策は次のとおりである。

  一 明治一六~二二年の間に私立養蚕伝習所を三回開催し、生徒毎回二〇名程度を養成。
    (教師は、吉野正・坂本菊吉・岡本篤義で学理と実地教育)
  二 喜多郡の蚕業主任者で、「蚕桑摘要」(養蚕培桑参考書)を編集し、郡内有志に実質配布。
  三 喜多蚕業協会主催で繭、生糸、蚕種、蚕具品評会または、展覧会を開催し、優良品に対し表彰を行った。
    (合計六回実施)
  四 県立松山養蚕伝習所開設以来、大勢の入所者を勧誘し、二八名を卒業させた。