データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

五 戦医師制度とその変遷


  1 獣医師制度

 わが国の獣医は大貴己命に始まり、古くは馬工連といったが、中国の韓退之が「伯楽一たび驥北の野を過ぎて馬群遂に空し」と絶叫してより「伯楽」は獣医の称呼となり、また軍馬の治療に当たることから「馬医」と称せられたことに始まる。江戸時代になって牛馬の飼育が盛んになって牛馬が商品化されるようになると「伯楽」「馬医」は広く一般に重要視されるようになった。
 本県においては、旧和気郡福角村中筋に祀れる成松大明神という小社の由来について、その末裔の成松時慶所持の旧記によると、祭神成松将監久行は往昔の国主河野家の家臣にして知行五〇〇石、奥家老職ならびに馬医を勤めたが、慶長年間主城落滅の節にこの地において討ち死にし祀られたものといわれ、その末裔には多くの馬匹、獣医が輩出している。このように旧各藩でも馬医掛りがあり、また各地に馬医を業とする者があったが、当時は専ら信仰をもとにして獣医術を施したようで、馬頭大明神や馬頭観音が祀られ信仰を集めていた。当時馬医になるには師匠について五年間位血採りの術から牛馬の治療術を修業し、書物によって病気の種類や治療、薬について習得して馬医を職としたようであり、馬針による鍼術が主体で「ちあいとり」などが施行されてきた。
 明治一四年にいわゆる馬医と呼ばれる者が一九九名で、その後一七年でも二〇〇余となっているが、当時は古来の陋習を墨守し、草根木皮を投じ烙鉄披針を施すのみで究明するところ少なきゆえ、一旦疫病の流行にあえばみだりに槌を揮いて天物を失うことが多かった。
 かくのごときを憂い、獣医養成のため明治一八年獣医開業仮規則を制定し、従来の随意営業から免許鑑札を一六四名に交付し、翌一九年七月獣医免許規則の発布により一旦既に交付の鑑札を返戻させ、各郡より獣医務に熱心な者を募り、速成科を設けて三六名に泰西の獣医学を教授し、同年の第一回、第二回の開業試験に合格した者は二一名であった。
 しかるに県下の牛馬数は既に一〇万余頭に達するため、僅か二〇余名の獣医では不便も少くないので第二次勧業諮開会に獣医学講習所の設置について下問し、さらに獣医学校建設計画を樹立し、予讃両国有志の義損金一、六〇〇余円を得て明治二一年五月一六日松山市小唐人町の県立松山病院構内の元医学校々舎において開校し、同二五年七月三一日の閉校までの間に養成した者は六〇名で愛媛県人二七名、香川県人一四名、その他の府県人一四名となっている。
 このように獣医は養成されたが、獣医畜産事業への関心は薄く牛馬のことはほとんどが博労さんなどの手に掌握されていたため折角の卒業生も倚るところなく、訴うるところない状態であったため、その免状を放棄し、他業に転じた者が少なくなかったといわれる。そして当時斬新な学術を修めながら獣医師・薬剤師・産婆は社会に立つ能わざるものの三つに数えられていた状態で閉校の止むなきに至ったことは誠に残念で、現在全国に国公私立一六校が存する中で四国地区には未だ一校もない状態が続いている。
 このように当時県内では学校卒業証書を得た者および開業試験合格者である本免許者と試験を経ることかく履歴による仮免許者の二本建てとなっていて、明治二三年の獣医免許規則および免許試験規則の改正に当たっても仮免許制度についてはそのまま残された。
 なお別項記載の警察獣医の設置に続いて明治三九年には県農会に初めて獣医が置かれることになり本県技手門多文治郎が就任し、次いで四一年には本県内務部にも獣医が設置され農業技師の名をもって本県初の畜産技師として千葉胤臣が就任し、四二年には千葉に代わって三井知義が就任した。なお明治四〇年、免許別獣医数は、本免許四五人、仮免許五六人計一〇四人であった。
 こうして制度の上では一応のまとまりは得たが、このころから獣医師法改正の気運が盛んとなって、大正一五年四月法律第五三号の公布となって免許資格が大きく引き上げられると共に法的規制も強められて格段の向上がみられた。
 その後昭和に入って戦火の拡大するにつれて、一三年の国家総動員法により獣医業務は指定業務となり、次第に獣医師不足が深刻となり、ついに昭和一五年四月四日「獣医師法等の臨時特例に関する法律」の公布により獣医手制度が設けられ、本県でも県立野村種畜場に獣医手養成教育が始まるほか、県立松山農学校に獣医科(昭和一六~二〇年)が設置されて多くの獣医手が育成された。
 終戦と共に県内獣医事関係の事情は一変した。多く獣医師の復員、法域外獣医師免許取得者の帰国、獣医手の処遇など混雑を極めた。一方畜産事情も軍馬の廃止、飼料事情などによる畜産の衰退も加わって制度刷新の必要に迫られ、GHQなどの勧奨指導の下に中央に獣医事審議会が設けられ、刷新に関する調査研究が行われた結果、二四年に新獣医師法の公布となるのであるが、これに伴い獣医学教育も、新制大学によるものだけに統一され、獣医師免許資格もこれを卒業し、国家試験に合格した者に与えられることになった。
 その後急速な畜産の進展、畜産食品の需要の拡大など獣医師の巣たすべき役割の増大に伴い、獣医学教育年限の延長により知識、技能の水準を高め、またこれを多様化することが重要、必須の情勢となり、五二年五月二七日に獣医師法の一部改正が行われて、大学院の修士課程の積み上げ方式による六年獣医学教育が実施されることとなった。
 さらに、五八年に学校教育法の一部改正による獣医学教育六年制一貫教育の実現をみて、獣医師法の一部改正による国家試験受験資格の改正も行われた。


  2 獣医師会

 大正一五年の獣医師法第九条に「獣医師は勅令の定むる所により道府県獣医師会を設立すべし」により県段階にも獣医師会が設立せられるようになったことが記されているが、当時愛媛県において県獣医師会がどうなっていたかについては、残念ながら詳かにすることができない。古くは明治三九年に獣医関係者が発企して発会した愛媛畜産会が獣医の集う場であった記録はあるが獣医師会の前身とはいい難いが、第二次大戦以前にも連絡活動程度の獣医会があったようである。
 戦後、二〇年に任意団体の愛媛県獣医協会(会長堀本宜実)が設けられ、事務所は県農務課内に設けられ畜産係防疫獣医が事務を兼任担当し、年一回の総会や講習会を開催してきたが、その後愛媛県獣医師会と改称し、さらに四一年五月二五日獣医学術の進歩発展により畜産振興と公衆衛生並びに福祉の向上を通じて社会に貢献することを目的に社団法人愛媛県獣医師会(会長堀本宜実)として再編成して出発することになった。現在傘下組織として旧郡単位の一二地域支部と職域支部二の計一四支部に所属する会員三四八名を有し、毎年各種会議の開催、獣医事諸問題の調査検討、学会及び研修会の開催、狂犬病などの予防注射の委託実施、会誌の発行、その他広報活動などの事業を行っているが、会員の中には何れも勲一等瑞宝章受章に輝く本会初代会長堀本宜実先生ならびに戦後しばらくの間会員であった小松町石根出身の元東京大学農学部長、同日本学術会議会長で現麻布獣医大学学長の越智勇一先生の存在は愛媛獣医界の誇りである。