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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 家畜の診療と共済制度


  1 家畜診療の変遷

 家畜の診療術は、多くは朝鮮半島や中国大陸から伝来したものであり、鍼・灸・瀉血・焼烙・薬餌などによる施療が行われ、多くは家畜商を兼ねる馬医の業として広められたもので、これらの診療技術は世襲的家伝として継承された場合と徒弟として養成された場合とがあって、鎖国時代までは技術の進歩は少なく、しかも個人的技術差も大きかったようである。また当時の薬餌処方の特徴は、ほとんどが単味のものを用いるのではなくて、何らかの佳薬が使用されて、複方となっていた。そのため、多くは散剤や煎剤として使用され、服用度数は、一日二~三回で、一〇日間程度の連用となっていた。そして胸部の疾病には食後、胸部以外の疾病には食前、四肢や血脉疾病には食間に投薬するのを原則としていた。
 その後蘭学が導入されるようになり、泰西獣医術がとり入れられて、技術の進歩に大きく貢献することとなった。
 現代獣医学の基礎が導入されたのは、主として明治時代になってからで、西洋文明の伝来とともに、逐次体系化されると共に、特に軍陣獣医学の発達につれ著しく進歩した。
 大正年代に入ると畜産団体の診療や開業者も現れるようになり新技術による家畜診療が開始された。
 昭和に入り畜産の進展や動物医薬品の進歩に伴い、診療技術は画期的な進歩をみたが、大戦と共に一時さびれた。しかし戦後家畜保健衛生所の整備により充実され、その後農業共済組合連合会の家畜診療所が診察業務を一括引き継ぐことになり一層自衛診療と予防衛生に重点がおかれるようになった。
 また近年になってはペットブームにより小動物診療も多くなり、むしろ産業用動物獣医師の過疎化が進んで問題となっている。


  2 去勢

 県内では、明治の初期に去勢が奨励され、先ず県庁が犢牛三〇頭を購入して各郡で去勢し、農家に預託飼養することにすれば実効があがろうとの議論があったが、松山付近の農家に諭して去勢を実施すれば、甲呼び乙伝えて県下に普及するのは遠きにあらずとの異議起こり、そこで松山付近の犢牛去勢を行ったところ、手術後の管理などが適当でなかったため、その成績不良にして長い間去勢するものはなかった。
 その後、日清戦役によって軍馬の改良が痛感され、馬匹調査会が発足し、馬匹改良の具体策の一つとして去勢の必要性が強調された。
 明治三四年四月二日法律第二二号をもって馬匹去勢法が公布されたが、技術上あるいは予算上の問題で長い間施行されることがなかったが、日露戦役となり再び軍馬改良の急務が露呈され、馬政局の設置などにより漸く基礎が確立し、諸般の施策も進行されて、ようやく大正五年、馬匹去勢法施行規則が発令され、翌六年一一月一日から馬匹去勢の制度が実施に移されたのである。
 県内の馬匹去勢については、愛媛県農会が明治四〇年以降、愛媛県馬匹去勢施行規程により馬匹去勢の施行を担当して来たが、大正三年三月三一日限りで廃止し、以後馬匹去勢の施行は愛媛県産牛馬組合連合会に移り、さらに、同畜産組合連合会~県馬匹組合~農業会から再び県畜連へと幾度かの変遷の中で去勢班による巡回専行手術が行われてきたが馬の退潮と共に自然消滅する形となった。


  3 家畜共済制度の変遷

 家畜保険法の制定

 わが国の常平倉の制度や、五人組、頼母子講の如きはみな多少の危険分散、損害分担の隣保相互の精神であり、保険的な部面を多分に持っていた。そして牛馬に対しては牛馬講・万人講・無尽などがあり、おおむね家畜の事故に対する隣保の弔慰に起源している。また一部には信仰的観念に基づく「厩の運開き」として応分の喜捨をする寄合もあった。そしてこれらが次第に組織的に進んで行って、明治三〇年代ころから家畜共済組合となってきたのであるが、法制的には大正四年制定の畜産組合法をもって畜産組合または同連合会における家畜の共済事業を認めたのが初めてである。
 しかしこの制度は給付、反対給付をともなう保険事業ではなく、一種の救済事業的性格のもので、一部の申し合わせによって設立されていた組合が行っていた共済事業よりも不完全な面があったと言われている。
 従って、こうした畜産組合の家畜共済事業の実態が次第に明らかになるにつれて、大正一〇年ころから、より近代的な家畜保険制度の実現を望む声が高くなってきた。
 これらを背景にして、大正一五年政府は制度の調査委員会を設け、実施の可能性について諮問し、以降これの審議を重ね、遂に昭和四年九月一日から家畜保険制度の第一号として「家畜保険法」が施行されることとなった。
 これは、家畜飼養者が所有する牛馬の相互保険を目的とした家畜保険組合が元受けし、政府は家畜再保険特別会計法に基づいて再保険を行うものであった。そして、家畜保険組合は法人とし、原則として郡市の区域を範囲とするよう定められ、専任の技術員を設置するために要する経費の二分の一が、組合設立後三年間、国から補助された。
 愛媛県でも一二郡市畜産組合区域に家畜保険組合が設立され、昭和二三年の「農業災害補償法」の施行まで続いた。

 農業災害補償法による家畜共済制度

 昭和二二年一二月一五日、農業災害に対する総合補償政策として「家畜保険法と農業保険法」を統合した「農業災害補償法」が公布され、六月から同法に基づく農業共済組合による家畜共済事業として家畜保険事業が継続実施されることとなった。
 こうして県下では昭和二三~二六年間に二六九の農業共済組合が設立されたが、昭和三〇年~三三年に市町村の合併に伴い一一三組合となり、次いで事業の零細な組合では市町村へ共済事業を移譲するなどして昭和四四年には七三組合となり昭和四五~四九年には市を含む旧郡単位の広域合併推進を全国に先がけて推進するという過程を経て現在の一二組合へ統合整備を実施した結果、その後の事業の発展は著しいものがあった。
 また家畜共済関係については、昭和二四年より各郡支部に家畜診療所を開設したが、その後県下の畜産事情に即応して再編整備されてその事業の概況は表3-26図3-3のとおりである。





表3-26 家畜診療所の整備状況と設置場所

表3-26 家畜診療所の整備状況と設置場所


図3-3 家畜共済加入頭数と死廃、病傷事故件数の推移

図3-3 家畜共済加入頭数と死廃、病傷事故件数の推移