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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 家畜防疫衛生対策


  1 家畜防疫衛生の変遷

 わが国における家畜防疫の変遷は、各時代における畜産事情と流行した伝染病に対処して、種々の防疫措置が行われ、現在の進展をみたわけである。従って愛媛県の家畜防疫の歴史も、全国的な動きの中の一つとして推移してきたものであって、また世界の防疫動向とも密接な関係をもっていることも当然である。従って、ここでは明治、大正、昭和前期および昭和戦後期の四期に分けて、全国的な動向の中から県内の動勢の要点を防疫事情と一般保健衛生を含めてその経過について述べることにする。

 明治時代の防疫衛生

 幕藩時代から全国各地に狂犬病の流行が記録され、さらに内羅・扁次黄・いち病・かさ病などの名のもとに、腺病・炭疽・気腫疽・仮性皮疽などの発生が見られたようである。牛疫についても、元和元年(一六一五)以来、対馬・壱岐などに侵入したことが記録されている。しかし当時はまだ畜産が低調な時代であって、知識も技術も幼稚なものであったため、家畜の伝染病の予防、治療は、一部を除き防疫の手段危なく、伝染病を一種の天罰なりと迷信し、ひたすら祈祷加護にすがっていたのが実情のようである。

 (1) 牛疫 まず明治六年六月にわが国、また、本県の家畜防疫史に残る大事件として西条地方より一種の牛病(のち牛疫とわかる)が発生し越智郡以東にまん延し、その勢すこぶるしょうけつを極め、牛の屍の山野に埋没せられたものは掘穴が浅くて野犬がこれを発掘し、海中に投ぜられたるものは海岸に打ちあげられて、鳶烏がこれを啄食し、まん延が一層ひどくなって、東予六郡の畜牛はほとんど全滅の状態となり、加えて当時は牛疫たるを知るものなく、犬馬の斃るるも同病を信じ、人への感染を疑懼し、人心きょうきょうとしていたため、県は松山会社病院(赤十字病院の前身)の医師今井鑿を兵庫県に派遣するが、同県においても流行まん延中で当局者はなすすべもない状況であったため、今井はさらに大阪に至り、御雇教師蘭人「エルメレンス」に就いて初めて牛疫たることを知り、その治療、撲殺、焼却、燻蒸などの消毒予防法を学んで、あまねく現地に施行すると共に県でも治療薬の頒布をはじめ、家畜市場・と畜場の閉鎖、予防法の発令(六月に続き、七月九日、八月二七日、一〇月四日、一一月二日、明治七年三月二八日と牛疫予防法を逐次増補)するなど防遏に必死の努力を重ねたが、県内でも無慮三、〇〇〇余頭の畜牛を失い、全国では二府二四県に流行し総計四万二、二九七頭の畜牛が失われ、その惨害は目を覆うものがあったという。
 なおこの牛疫は明治九年再び喜多・宇和の二郡に発生数百頭に及び、次いで九月には宇摩・浮穴・宇和の三郡に流行まん延したがその頭数は不明である。全国では明治一〇年までくすぶり、初発以来約五万頭の牛が失われており、その被害額は実に莫大なものがあった。
 このように家畜伝染病の予防制圧は到底家畜飼養者個々の力ではなすすべもなく、国家的な措置が必要であることが強く認識され、欧米各国では一八世紀に入り、相前後して予防条例の発布をみており、当時シベリヤ海岸には牛疫の流行があり、日本への侵入が警告されていたので、わが国においても、明治四年に太政官布告第二七六号をもって「牛病予防に関する件」が公布され、とりあえず一連の防疫措置がとられており、これが現在の家畜伝染病予防法の始まりで、その後、逐次整備されて今日に及んでいる。
 牛疫は、明治二一年にも松山付近の乳牛に感染して業者らを狼狽させたが、間もなく終熄した。越えて同二五年一〇月二三日広島県備後国野々村高橋政平なる者畜牛七頭を船積みし宇摩郡妻鳥村字新浜に上陸し四頭を金生村に、一頭を妻鳥村、川滝村に、他の一頭は徳島県山城谷村に売却、何れもが発病死亡し、これより順次宇摩郡一四町村にわたりまん延流行し、一二月二〇日の終熄するまでに死亡頭数は二〇頭、殺処分一七八頭に達し、防疫費の国庫支出は一、三五二円を要したという。
 その後も明治二八年一一月二五日宇摩郡三島町外三町村に死亡四・殺処分一三頭の発生あり、ついで三六年一一月五日に朝鮮牛の密輸入により、越智郡東伯方村および大山村に発生し、死亡一一頭殺処分四一頭に達す。また明治四一年七月四日越智郡大井村に発生し、次いで波方村および周桑郡楠河村・三芳村に発生、さらに越智郡富田・関前・桜井村および周桑郡国安・福岡・中川の六村にまん延し、七月三〇日に至り終息したが死亡九・殺処分三四頭に達し、防疫費は国庫支出金三、八四七円、県費八六四円を要したという。またこの時農商務省技手蛎崎千晴来県し、大井村波方村両村予防区域内の畜牛二四頭に初めて牛疫血清の注射が実施された結果さしもの難病も次第に衰えて行ったのであるが、黎明期の愛媛の畜産にとっては誠に大きな試練であった。

 (2) 流行性鵞口瘡 明治二一年松山市およびその付近にまん延し、特に松山市の乳牛はほとんどが侵され、乳業者は大きな打撃を被ったが、当時は予防、治療法も不明で地方の獣医師も病名診断できる者もなく、罹病頭数も調査の途なく、流行一か年ばかりにして自然終息した。

 (3) カナダ馬痘 明治三八年一二月 高知県に仮性皮疽の発生の報あり、次いで同病が南宇和郡に侵入し、調査の結果、カナダ馬痘と診断され、その予防は自衛に委せられたので詳細は不明であるが罹病頭数は一〇〇余頭に上ったようである。

 (4) 炭疽 炭疽は古くから常在し、しばしば発生があったようである。県内では明治二五年一一月宇摩郡上分村に牛一頭、三四年一二月、越智郡西伯方村に牛三頭、三五年三月同村に牛一頭の発生があったがまん延しなかった。三六年一〇月北宇和郡吉野生村に発生した炭疽牛は、無届剖剥した人二人が死亡し、さらに隣村明治村にまん延、ついで三七年八幡村、泉村を襲い牛馬二六頭が死亡した。三九年北宇和郡三島村に九頭、明治村および吉野生村に三頭の牛馬が斃れ、その後この地方においては地方病の性質を帯び年に少数の牛馬の発生があったという。一方三六年には新居郡角野村で牛一頭の発病をみているが予防薬が使用されるのは数年後からのことである。

 (5) 畜牛結核 明治三三年警察獣医をして県下の乳牛に「ツベルクリン注射」による結核病検査が全国に先鞭をつけて実施した。そして翌三四年法律第三五号を以て外国種牛・同雑種牛・乳用牛に対する結核予防法が発布され、検査員五名を選抜講習を受けさせて、三六年より定例検査を実施した。その成績は次のとおりである。


 大正時代の防疫衛生

 明治年代において基礎づけのできたわが国の畜産は大正年代に入り飛躍的な発展を遂げ、国・県の畜産施設が相ついで整備され、今日の土台が築かれたわけである。この時代には第一次世界大戦(大正三年七月~同七年一一月)が勃発し軍需景気で好況を招来したが、反面諸物価が高騰し米騒動なども起こったが畜産物の需要は急増し、国内自給がこれに伴わなかったため、青島牛の輸入が始まり、朝鮮牛の移入も漸増した時代であった。
 このような背景の中で県内の家畜防疫衛生事情は、大正末期すなわち一四年五月二八日大阪市の牧場に牛肺疫の発生を初発とする大流行は、ついに緊急勅令の発動を見た程の家畜防疫史上の重大事件で、県内にも何時侵襲するかと戦々恐々たるものがあった。
 その他炭疽および気腫疽については、大正五年七月二四日北宇和郡明治村に炭疽牛一頭が発生し、一二年宇摩郡天満村に二頭、一五年周桑郡庄内村に一頭の炭疽牛の発生があった。気腫疽は大正五年八月九日南宇和郡緑僧都村に炭疽牛一頭の発生につづき城辺町に三頭の炭疽牛の発生をみており、さらに一二年には今治市・新居郡大保木村の牛各一頭が、一四年には越智郡盛口村の牛三頭に発生をみた。
 このほか一三年には宇摩郡上山村で当時各地で猛威を振るっていた狂犬病に牛一頭が罹病したほか、結核病については明治末期の摘発が効を奏してか、大正初期から中期にかけては発生も少なかったが、末期になり乳牛などの検査対象牛の増加につれて発生頭数も増加した。

 昭和前期の防疫衛生

 昭和に入ってからの畜産は、有畜農業の奨励と相まって畜産組合などの組織も次第に確立し、獣医畜産技術者も質量ともに増強されて著しい進展がみられた。
 しかし反面初期の不況と世情不安を反映して、昭和五年の五・一五事件以来、第二次世界大戦の終戦を迎えるまで、かつてない長期の戦時体制下に置かれて、この時期の後半は人材・物資不足などで畜産は著しく衰退した。
 この時期における防疫事情を顧みると、先ず特筆されるのが昭和初期における牛肺疫の発生である。

 (1) 牛肺疫 昭和三年温泉郡東中島村において京都府下より移入した乳牛一頭が牛肺疫の発生を見たのについで、同四年五月一一日広島県尾道家畜市場を経由して移入した和牛が周桑郡小松町および新居郡橘村において八月一〇日牛肺疫と決定されたのを初発として、以来新居・周桑・温泉・伊予・宇摩の五郡に亘り続発まん延し、年末に至るも終熄せず、翌五年三月には越智郡渦浦村にも発生を見て県下六郡に二六頭の発生を見たのである。
 そこで県では同五年六月一〇日牛肺疫予防のため、家畜伝染病予防法第一六条により取り締まり方法について愛媛県令第五六号を公布、即日施行して、第一線および第二線区域を指定して警戒区域を定め、畜牛の出入り往来および病毒伝播のおそれのある物品の運搬を停止すると同時に発生牛舎の厳重な消毒を励行し、病毒に感染したおそれのある畜牛はことごとく予防法の示すところに従い殺処分に付し、その頭数は八五頭に及んだ。
 そして警戒区域内には臨時家畜防疫委員二〇余名を配置して畜牛の検診に従事させ、さらに第一線区域内の畜牛は全部採血して、血液検査を西ヶ原獣疫調査所に依頼し、さらに八月一日以降九月一一日の間に尾道家畜市場を経由して移入された畜牛約五〇〇頭に対しても同様採血検査を推進して予防制遏に努めると共に当時は時期的に畜牛使役の最盛期を控えていたことから、これら予防計画と相まって段階的警戒区域の縮小による畜牛使役の緩和対策あるいは畜牛使用専業者など二八名の生活手当金の交付などにも努力した結果この年を最後にその跡を断った。
 このように明治以来最も恐れられ防疫に腐心した牛疫、牛肺疫、口蹄疫が昭和前期において何れも根絶されたことは県下畜産の発展に大きな貢献であった。

 (2) 気腫疽および炭疽 気腫疽は土壌病として定着し昭和に入っても頻発しているが特に九年前後の発生が多かったが、後半には病気に対する正しい認識と予防接種の励行によって逐次減少の傾向となった。
 炭疽は昭和二年に温泉郡久枝村に一頭、四年に新居郡西条町・神戸村に三頭の発生に続き、五年、七年、八年としばしば発生をみているが、いずれも散発に終わっている。

 (3) 結核病 人畜共通伝染病として当時は深刻な疾病であった。このため専任検査員をして毎年一回定例に厳重な検査を実施、毎年数頭の散発を見てきた。

 (4) トリコモナス病 昭和初期から原因不明の流産や不受胎牛が集団的に発生を見ていたが、九年に至りトリコモナス原虫を発見することができ一斉にトリコモナス病の防疫が展開されることになり、県でも牛の生産率向上専任技術員を設置して検診に当たり、一一年七月一〇日東中島村に二頭の発生を初発として、検診の拡大に伴い増大、一三年の宇摩郡の検診でも四〇頭の発生をみておりその後も跡を断たず、二三年になりようやく終息した。

 (5) 豚コレラ・豚疫・豚丹毒 全国的には豚コレラの発生は多かったが、県内では発生をみなかった。また豚丹毒は少数の散発にとどまり、豚疫も一五年一〇月越智郡乃万村で二六頭の発生をみたのみであった。

 (6) 雛白痢 昭和年代に入って、鶏のひな白痢の被害が増大し、その伝染は介卵伝達によることが解明された。
 そこで、種鶏群の保菌鶏摘発を、血液の凝集反応法で行うことになり、県でも昭和一六年から、ひな白痢検査が実施されるようになった。


 昭和戦後期の防疫衛生

 この時期は、古今に類をみない変転の時代であった。その中にあって本県の畜産は復興期から安定経済成長期の今日まで、畜産の歩みと表裏一体となり、一貫してその保護育成に努めてきた家畜衛生部門への評価は非常に高いものがある。
 戦後の家畜伝染病の発生状況をみると、幸いなことに牛疫、牛肺疫などの海外悪性伝染病の侵入はなかった。
 しかし昭和二〇年代には牛の流行性感冒、馬・豚の流行性脳炎、馬の伝貪、豚コレラ、豚丹毒の流行が見られ、家禽にはアメリカ型のニューカッスル病が進駐軍の残飯を感染経路として侵入し、その他牛の結核病、ブルセラ病、ひな白痢など多種多様な伝染病が続出し、家畜衛生組織の再建整備が急がれた。
 次いで三〇年代には畜産振興の波に乗って増えた家畜に、引き続き前記の疾病が発生まん延して多大の被害を蒙った。
 特に四〇年代に入ると畜産経営の規模拡大などに伴う中小家畜の豚コレラ、豚丹毒、ニューカッスル病、蜜蜂のふそ病などが各地に大流行がみられた。殊にニューカッスル病は四二年から病勢の強い、アジア型が侵入して四四年まで流行し、県下の養鶏業界を恐怖のどん底に陥れたことは記憶に新しく、こうしたことから自衛防疫の必要性が強く叫ばれるようになり、昭和四六年六月には家畜伝染病予防法の一部改正が行われ、第六二条の二により予防のための自衛的措置が明文化された。そして、このための組織として家畜畜産物衛生指導協会が県にも設置され、自衛防疫を強力に推進することになり、家畜防疫の一翼を担って大きな力を発揮することになった。
 このような努力が実を結んで、現状の家畜防疫事情は、法定伝染病は次第に清浄化の方向をたどり、その発生が激減してきた。反面密飼い化による飼養環境の変化に伴い、牛の喉頭鼻気管炎、豚の流行性肺炎、萎縮性鼻炎、伝染性胃腸炎、鶏のマイコプラズマ感染症、喉頭気管炎、気管支炎、大腸菌症、伝染性ファブリキウス嚢炎などの伝染性疾病が定着化の様相を示してきた。そして、さらに急性法定伝染病や伝染性疾病は、ワクチネーションの徹底などにより次第に抑圧される傾向の中にあって、一方では乳房炎などの慢性疾病が次第に浸透して著しく生産性を阻害し被害が増大している。ほか人畜共通伝染病の問題がその対応を迫られるようになってきた。
 なお戦後県下における家畜伝染病の発生状況は表3-23のとおりである。







表3-22 初期定例結核検査成績 (明治三三~四四年)

表3-22 初期定例結核検査成績 (明治三三~四四年)


表3-23 昭和戦後期における家畜伝染病発生状況

表3-23 昭和戦後期における家畜伝染病発生状況