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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 牧野(草地)の造成・利用

 藩政までの牧野利用

 中世までの牧(今日でいう草地)は飼料用、緑肥用採草地である草刈場と家畜の放牧地である牧場とに区別されるようになった。この区別は、牛馬が舎飼いされるようになったこととも関連している。
 牧は水田農業の発達と共に牛馬用の草刈場として広く利用されるようになり、牛馬の飼養が増えると、牧も次第に普及し定着して行った。
 本県では遠く安閑天皇の時代に、さきに述べたように、温泉郡中島の長師の松原に牛を放つと記せるものあり、醍醐天皇のころ、延喜式に、貢馬、貢牛、貢蘇の制定あり、全国に三九牧が設けられ、その一つとして「伊予国忽那島馬牛の牧」が挙げられている。草質、特に石灰その他の微量要素の多い良質の草が生える畜産の適地として牧が設けられたものであろう。
 特に牛が農耕用として利用されるようになって、柵垣型放牧が普及し保護されるようになる。藩政時代になると「士農工商」として農民を遇し、農業保護に意を用いたために、農業技術も発達し、これが今日の機械化農業に移るまでの手作業から牛馬耕と堆厩肥の時代の農業の基盤となってきたのである。従って、県下各藩こぞって、勧農・牧畜・開墾に関する諸施設に努め、牛馬の放牧、採草利用が進んだ。
 地域別では、東、中予で古くから行われていた預け牛(本編和牛参照)の慣行などから、放牧、採草の牧の利用が盛んであったことが知れる。また南予地方においても古くから放牧の習慣があり、そのいずれもの草刈場は「入組」とか「入込」とかいわれる入会慣行によって利用を認められてきた入会牧場であって、地域の畜牛飼養者は初夏より秋分のころまで飼い牛を放牧した。当時の牧場は囲柵もなく、番人も居らず、放牛は交互相親しみ、成牛が先導し、子牛がこれに従って行動する状態はあたかも訓練を重ねたようで、夜間は成牛が囲いを作り、子牛がその中に臥し外敵に備える様子は人間と異なるところがない風情が各所にあったことがしのばれる。
 ちなみに、その起源は明確ではないが古くから存在した。明治一〇年における西南伊予の牧場は次のとおり。

西外海村福浦宇塩崎      山    五町歩        
東外海村水浦         山   一〇〃         
同   脇本浦        山   三〇〃         
同   柿ノ浦大浜      山    二〃         
同   深浦敦盛       山    三〃         
緑僧都村緑重木山       山   三八町五反歩    
同   寺ノ段        山    五町歩        
同   僧都丸山石原山間   山   三〇〃        
同   同 大僧都小僧都間  山   二五〃        
同   同 地蔵堂山長月間  山   一五〃        
同   緑長月間       山   四五〃        
御荘村長月西牧場       山   一〇〃        
同  同 東牧場       山   二〇〃        
同  長洌          山   一五〃   
同  和口東蔭ヒラ      山   四〇〃
同  菊川桜谷        原野  九〇〃
同  同 横野        原野  一〇〃
内海村柏           原野  一二〃
同  長谷          原野  一六〃
同  磯崎          原野  二〇〃       
同  中山          原野  三〇〃
一本松村小山ツバノ川     山   二〇〃
同   正木シバシウ山    山   八〇〃
同   同 水谷山      山   六〇〃
同   中ノ川満ノ尾山    山   四五〃
八幡村柿原鴻ノ内       不詳
来村祝森モミジ               三反歩
  計 二九か所          七二一町八反歩

 このように南郡を主とした地域においてさえ、多くの広い牧場が存在し、牛馬の群れが放し飼いにされていたことが記録されている。


 明治年代から昭和前期までの牧野の変遷

 先に述べたように明治一〇年ころには県内にも多くの民間牧場が存在していた。そして一二年には県立牧牛場の建設の計画があり、予算一、八一三円余をもって設計をしたが、時期尚早であるとして成立するに至らなかった。この時代には多くの牧場が建設されており、これらは洋式農法や洋種の牛馬の導入など新しい形で発足したが、その大部分はおおむね失敗に帰して閉鎖された。
 しかし、牧場の廃滅は必ずしも畜産の衰退を意味するものではなく、一般農家の飼育する牛馬は相変わらず各地の山林原野に放牧され、これらの土地から収穫される乾草は冬季の粗飼料として牛馬を維持した。しかし、明治六年ころから林野の官民有区分が明確になるにつれて、多くの入会地が官有として編入されることになったために、民間の牛馬の放牧が大幅に制限されるようになった。
 さらに三〇年に「森林法」が制定せられて、牛馬の放牧利用はさらに厳しいものになり、罰則まで設けられたが、従来からの放牧慣行を無視できないことなどから翌三一年には「牛馬放牧方取扱いの件」という内訓により国有林野の放牧については条件をつけて許可する方向が指示され、従来の罰則だけで取り締まっていたものが、若干方針を変え、一定の枠内で放牧利用を認めるという条件づきでの放牧利用がその後の国有林野の牛馬放牧に関する基本的な姿勢となった。さらに明治三二年に「国有林野法」が公布され牛馬の放牧利用は「貸付」と「使用」という制度で認められるようになったが、この制度は昭和二六年に公布された現行「国有林野法」でも受け継がれている。
 すでに述べたとおり、明治初年から中期の個人牧場の多くは不成功に終わり、残ったものは官営牧場や一部の地域共同放牧場の形のものに過ぎなかった。
 これは明治初期は野草利用に主体をおく畜産で、当時の林地面積は国土の二割九分に過ぎないと言われたように、地力維持の資源としての山林原野が農業の再生産に必須であり、林業地化の成立も顕著でなかったこのころの山林原野は、もっぱら飼肥料の採取と放牧地として農民の手によって管理利用されてきた。一連の草山で占められていた時代で一般農家で飼養する牛馬は相変わらず、これらの広大な山林原野の野草類を放牧地として、また飼料や肥料用の採取が主体であって経営経済的な意味での利用はほとんどなかった。
 加えて明治一〇年代から化学肥料使用時代を迎えると共に、農耕の畜力利用の普及などは必然的に家畜飼養の目的や飼養方式をも変えることとなり、山林原野の自然草を利用する長期放牧形態の牧畜から、農繁期の労役と厩肥の踏み込みを目的とする舎飼い方式へ移行し、あるいは明治三〇年から開始された造林事業の積極化による山林原野が林木生産に向けられ、牧野はその機を得ず、逆に山の上へと追いやられることとなった。
 そしてこの時期特に注目されるのは自然草の利用が収奪の繰り返しとなって荒廃し、牧野としての機能を果たし得なかったことや、さらに牧野の荒廃を草種、草生の改善に置かず、荒廃を避ける方法としていたずらに面積の拡大を選んだことが、山林原野が畜産利用に定着し得なかった大きな原因であると指摘されている。
 明治後期になり馬産についての山林の牧野利用が討議されたが、結局明治年代においては具体的なものは得られずに終わり、明治四四年から大正時代にかけて山林原野の効率的な牧野利用を確立するための調査研究が初めて行われた。
 そして大正五年に、国有林野のうち古くから放牧採草の利用慣行のある特定部分に対し、森林施業を限定して馬産に供用するため解放されるという基本制度ができ、放野改良事業への補助金も交付されることになった。
 昭和六年牧野法の制定により馬牧野の改良奨励が行われ、主として野草利用の効率化をはかりつつ昭和終戦時まで続けられた。
 県内では軍用候補馬の育成が行われていた大野ヶ原牧野以外は零細な数多くの採草牧野が存在し、自生する野草の保護・利用にとどまっていた。

 昭和戦後における牧野・草地

 昭和二〇年第二次世界大戦終了後の情勢は、緊急食糧増産が最大不可欠の命題であり、牧野はおろか、畜産計画自体顧みる余裕がなかった。
 そして牧野の解放は農地改革以上の関心事となり、二三年に行われた牧野調査の結果においても、当時は畜産の在り方についての観測も困難な時であったので、畜産に重点を置いた解放とならず、むしろ戦前から利用していた牧野が縮小される結果になった。
 そこで二五年「馬牧野」から一般家畜の飼養基盤としての新しい牧野行政を推進する必要性から、国は公共牧野を管理規程設定による管理牧野と知事の改良保全の指示を受ける保護牧野の指定などを内容とする「牧野法」が改正公布せられた。これに基づく補助事業として、牧野改良、草地開発などの名称により、先ず二七年度より土壌改良剤の投入による酸性の矯正、草生の改善や飼肥料木の植栽に対する補助事業に始まり、翌二八年には野草牧野を牧草牧野に改良するための障害物の除去、起土、牧道設置、燐酸施肥などの高度な事業が順次数多く実施されるようになったが、三七年以降は公共事業費の中に組み入れられて実施されるようになり、草地改良事業として画期的な進展を見たのである。

 牧野造成(草地改良、草地開発)事業推進の概要

 昭和二六年当時の本県の牧野、草地面積は一万町歩余りで、草地の内訳、依存頭数、所有別は次表のとおりとなっている。
 前述のとおり採草用地が主力となっており、放牧はその頭数からみても微々たるもので、当時は耕地面積七万一、八〇一町歩に対して一四・四%を占めていた。
 一方家畜増殖計画の達成、購入飼料の高騰などと相まって畜産経営の改善合理化のため粗飼料の自給と草質の改善が必須の条件となった。
 ところが牧野のうち地形や距離の点で利用度の低い地域は作業のやりやすい所だけ刈り取り、以外は放置するため雑木が繁茂してますます手入れが難しくなったり、採草適期を失したり、あるいは庇蔭樹の欠除、土壌流亡などが累加する状況であり、従って急傾斜地や丘陵地帯では多くはPH三~四・五度の強酸性を示し、産草量も一〇a当たり一〇〇~一五〇貫の低収量だった。
 従って前述のように二七年度より本格的な牧野利用の黎明期を迎え、牧野施策も土地利用の一環として草地造成改良事業が始められる訳であるが、この時点における牧野法に基づく県内牧野の現状は次の表3-12のとおりである。
 このようにして発足した牧野改良事業は二九年までの三か年で二三市町村・六九八町歩の牧野改良事業を実施した。
 従って、三〇年七月には県下一四市町村を会員とする県牧野改良協議会が結成され、四二年五月には発展的に県草地飼料協会に改組されて会員数も二農協連、二四市町村、一〇農協、一肥育組合で構成されることとなった。
 なお河川敷・堤防・畦畔などは一般牧野に比べて概して地味肥沃で利用上でもよく、しかも県内耕地面積の六%を占めていることから生産上でも大きく着目され、草の週間などで大きく啓蒙宣伝されると共に、重信川・肱川など主要河川敷でのモデル採草地設置や全県的な規模での利用が展開された。
 かつて、昭和八年から実施された高度集約牧野造成事業は手開墾が主体で実効の点から二年間で中止となったが、その後レーキドーザーなどを使っての機械開墾工法による高度集約牧野造成事業として三七年再開されて従来の牧野造成事業がこの年から草地改良事業と改称されると共に昭和三九年から土地改良法に準拠する公共事業として取り扱われ次いで四〇年から地域的に大面積にわたるものを大規模草地改良事業とし、一方小団地などを対象とするものを小規模草地改良事業として組かえられ、さらに利用施設などを整備するために別途に施設整備事業が実施せられたが、昭和四五年からは草地改良事業と開発パイロット事業を農用地開発事業として、一体的に草地開発事業に整理し、国営・県営の外に団体営が加えられ、特に団体営のなかで、愛媛県農業開発公社による建売牧場の造成が四九年から行われ、五三年までに四団地二〇戸の公社牧場が建設された。




表3-11 県内草地面積表 (昭和二六年六月一日現在)

表3-11 県内草地面積表 (昭和二六年六月一日現在)


表3-12 牧野法による県内牧野明細

表3-12 牧野法による県内牧野明細