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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 家畜人工授精事業の歩み


  1 人工授精のはじまり

 家畜の繁殖交配が、人為的に自由に行われることは古い時代から考えられていたが、人工授精のはじまりは、精子と卵子の発見から着想されるようになった。
 安永九年(一七八〇)にイタリアのスパラザニイの犬での成功からで、その後いろいろの人によって研究が継続されたが、結局ロシアのイワノヴが今日の基礎を作り、第一次世界大戦後に産業的に実用化したものである。
 従って我が国の場合も、このイワノヴの研究室に学んだ京都大学教授石川出鶴丸によって大正五年ころから馬での基礎研究に併せ、大がかりな応用研究が行われ、昭和三年に乳牛についての研究が始められた。以後豚・鶏・羊から兎・みつばちにいたるまで、農林省畜産試験場を中心に研究が行われた。
 しかしこのころはまだ流産や不妊の原因となる疾病予防が目的で行われていたので、人工授精に対する認識も浅く、また種雄畜の所有、管理者の反対もあって、その普及指導には隘路が多く、実際には不受胎のものに実施せられる程度で、昭和一六年では全国で僅か七〇頭の牛が授精されたにすぎなかったが、戦後になって急速に発展をみせ、二四年には一〇万三、一八七頭に達し、今日では乳牛の九九%、肉用牛の九五%に人工授精が行われるようになった。


  2 本県の人工授精の歩み

 本県では昭和一七年に野村種畜場(越沼節次場長)において黒毛和種による試験的応用を嚆矢として、一九年には乳牛による本格的な実用化試験に取り組むこととなったが、戦時中絶の止むなきに至ったのは誠に残念なことであった。
 しかし終戦後の切実な時代の要求や急速な技術の進歩と相まって関係者の認識も一段と高まりをみせ、またおりから二二年には県の家畜改良増殖五か年計画の樹立および畜産模範指定村の指定に続き、二三年には種畜法が施行されるなどにより、人工授精技術の積極的な応用が採り上げられて、県営の人工授精所をはじめ各地に民営の人工授精所が設置されることとなったが当初の実施状況は次表3-1のとおりである。
 さらに二五年には家畜改良増殖法が公布され、はじめて人工授精に関するこまやかな規制が行われることになり、授精師は知事の免許を受けることが必要となった。
 そこで市町村や農協の職員あるいは種雄畜の管理者などが資格免許を取得して人工授精所を開設するものが増え、また既存の県営人工授精所(当時一五か所)は家畜保健衛生所の設置につれて、それぞれ統合、併設されることになったのに勢いを得て、人工授精と繁殖障害の除去事業は飛躍的な発展を遂げることとなった。
 その後、鳩による精液輸送が試みられたり、丹原家畜保健衛生所で鶏の人工授精に成功して、今日の普及の基礎が作られるなど諸々の研究成果も多かった。
 また三〇年の夏季の異常高温による不受胎牛の多発問題から、これまで各人工授精所ごとに繋養されていた種雄牛を三三年度から野村種畜場に集中管理してメインセンターとなり、各家畜保健衛生所をサブセンターとし、続く三四年度には県家畜人工授精精液中継所規程(『資料編社会経済上』二八四頁)による精液中継所が、サブセンターとしての指定設置が始まり、ここに県下の人工授精組織機構が一元的に再編整備されたのは、まさに怪我の功名ともいうべきで、これにより県畜産予算に大きな比重を占めた種雄牛購入費は激減することになった。
 なお四六年度末における県下の家畜人工授精組織図を示せば次の図3-1とおりである。
 次いで三七年度から保存期間の短い液状精液から半永久的保存が可能な凍結精液への切り換えのため、野村種畜場に凍結精液の製造、保存施設器具の準備を計画すると共に、家畜保健衛生所と協同して凍結精液の受胎試験を併行して本格的な実用化に備えることになり、四三年に東予地区の一部に授精を開始し、順次区域を拡大して、四五年度から全面実施となった。
 その後、国の要請により家畜改良事業団精液を利用することとなり、本県は事業団の岡山種雄牛センターより凍結精液の譲渡を受けることとなると同時に、精液の配布業務を県家畜人工授精師協会で実施することとなって今日に至っている。
 なお昭和五五、五六年度における事業団移入精液の利用状況は次表3-2のとおりである。



表3-1 人工授精実施場所

表3-1 人工授精実施場所


図3-1 家畜人工授精組織

図3-1 家畜人工授精組織


表3-2 移入精液の利用状況

表3-2 移入精液の利用状況