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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 馬産奨励の概要


 幕藩時代までの馬産

 馬は古くは主として軍事と交通上の目的で飼われてきたもので、農耕馬としてはとり残されていた。
 応神天皇の一五年(四〇〇年ころ)百済王からの馬の献上にはじまり、ポルトガル、フランスなどから、しばしば洋馬が輸入されて馬産の改良に貢献している。醍醐天皇の時代の延喜式の中に、諸国の駅伝の馬数を規定しているが、当時伊予国には各駅各五疋の馬を備える駅伝五か所が設けられていて、同式左馬寮の条下に諸国の貢馬数が規定され、伊予国には馬は六疋が割り当てられている。
 また天慶二年(九三九)伊予椽藤原純友が乱を起こした時、山陽の総追捕使を迎撃して暴威を振るい、あるいは河野氏が累代伊予を根拠として武勲を立てることなどは、当時軍馬が県下に豊富であったことを証するに足るものであろう。
 のちの治承四年源義経、義仲と宇治川に戦うや、源頼朝の家臣佐々木高綱と梶原景季がその先陣を競った時の名馬池月、磨墨の名声は四海に喧伝せられているが、このときの梶原景季の乗馬磨墨号は口碑に伝えるところによれば、実に本県周桑郡丹原町大字北田野の国広某の所有する牝馬国広号の産出した馬で、しゅん足であったので、これを頼朝に献上したところ、頼朝大いに喜び磨墨と命名し、恩賞として良田三反三畝に感状を添えて国広氏に贈って、母馬を愛育せしめたところから、その田を駒ヵ扶持と名付け今なおその名を残している。
 この田の中に丘状の母馬国広号の墓所がある。
 一方当時馬産地として名のあった直入郡や大野郡のある大分県の佐賀関に土着した源経基の子孫が頼朝に献上した名馬望月が、のち池月と名を改め佐々木高綱の拝領馬となって本県産磨墨と宇治川で先陣を競ったというもので、当時の産馬事情の一端をうかがうことができる。
 鎌倉幕府が開かれ大いに産馬を奨励し牧の復興に努め、流鏑馬なども流行したが、天下ようやく太平に慣れ次第に官牧なども荒廃した。
 江戸時代に及んで産牛馬政策に意を用い、各藩も盛んに牛馬の生産を奨励し、特に三崎半島や野間郷地方はほとんど各戸産馬に従事するほどの盛況であった。
 また松山藩でも元禄二年(一六八九)奥州、甲州筋より一三疋の種馬を導入し、和気郡釣島に牧場を開き産馬の奨励をはかり、のちにこの種族が風早、野間両郡においても大きく貢献をすることになった。
 一方久万郷も農民馬を愛し、郷内貨物の集散は一日一〇〇頭以上の駄馬の出入りがなければ需給の均衡を失う状況であって郷内には馬匹飼養者も多く、藩もまたこれにかかわって天保(一八三〇~一八四三)のころ、ときの代官をして九州より優良種馬を求めて川瀬村大字上畑野川、せんぼしの原に放牧場を設け、のちまた美川村大字日野浦にも牧場を設けて、日野駒の銘柄を作り出すなどの記録が残っている。
 この当時の馬はことごとくが日本在来馬であって、ここには特に木曽馬・対州馬・トカラ馬などと共に残存する日本在来馬の八系譜の一つである本県野間馬について今少しく詳記する。

 県産在来種野間馬

 野間馬は乃万馬とも書かれるが、旧野間郡あたりに、古くから飼われた日本在来馬である。現在野間郡は地域としては消滅し今治市と越智郡に分かれている。昭和四七年、野間馬は県下にわずか五、六頭しかおらず、このうち三頭が県立道後動物園におり、このままでは近い将来滅びて幻の動物になるだろうと報道された。
 野間馬の起源は寛永一二年(一六三五)伊勢国松阪から松山に転封された久松定行が弟の今治城主、定房に命じて来島海峡にある小島、馬島に軍馬の放牧場を作って馬を放牧した。しかし飼料不足のため成功しなかった。そこで藩は馬を野間郷一帯の農家に委託飼育させて良い馬が生まれると飼育料と報賞金を与え、一方小さい馬が生まれると無償で農家に払い下げたのである。この結果農家で馬産が盛んになった。
 地元の人達は生まれた小型馬を「野間駒」「野間子」「野間馬」などと呼んでおり体高一一五~一二五cm、体長一三〇~一三七cm、胸囲一四五~一五〇cm、首囲一四~五cm内外のもので日本在来馬の中でもトカラ馬や与那国馬などと共に最も小型である。一般に胴長く斜尻で四肢は細いが関節は太くて締まり、蹄は堅く厚くてすり減りにくく、なお背中には美事な鰻線が見られる。性質は精悍で歩行も速く粗食に耐え駄載能力が秀れ七〇㎏の荷を背負って段畑などの急坂を容易に登り降りすることができた。
 四国には土佐駒・越智駒などの在来馬が飼われてきたが野間馬もその一種である。瀬戸内海の島や沿岸、久万高原には、急傾斜の段々畑がいたるところに拓かれているが「耕して天に至る」畑への道はけわしく、普通の馬ではとても使えない。その点側対歩で駄載するのに便で傾斜に強い野間馬がよく使われてきた。特に下肥や収穫物の運搬にはなくてはならぬ生産手段だったのである。
 明治になって軍馬を確保するため、小型馬の生産が禁止されたために野間馬の飼育は急減の方向をたどることとなったが、このころ乃万町に大沢佐之ヱ門(弘化四年三月二四日生、大正一一年二月二六日没)という人がいて、この人は廃藩置県後最後の野間馬生産に貢献した人で、自家で繁殖に努めるかたわら他の町村にできる一歳の子馬を集め、旧盆から旧盆を一期にして新居郡大保木村方面に預託し、二~三歳まで飼ってもらいその後主として上浮穴郡方面に売却していたとのことで、当時交通の不便な上浮穴方面の産物は一人の馬子が三~四頭の野間馬に積んで一日四〇kmの道程を一団となって松山方面に運んでいたものである。
 こうした秀れた利点を持つことで親しまれた野間馬も明治一八年、明治三〇年の再度の種牡馬検査法の制定によって、法律で繁殖が禁止されるという大きな障害にあいながらも、野間馬の強健な体質と秀れた駄載能力は忘れ去ることができず、大島などの瀬戸内海の諸島ではミカンの栽培運搬などには必要欠くことのできないものとして人目を忍び僅かに飼われてきたが大勢は既に絶滅寸前に追い込まれ、大正一四、五年ころには大島泊村の重松万治によって野間馬の代用として同じ小格馬の朝鮮の済州馬を三〇頭余り移入したが体格こそ似ていても能力の点で比較にならず買い手もなくあとを絶つこととなり、昭和一五年にも地元の重松一政が北海道の同じような小型の土産馬を移入し野間馬希望者への需要をみたそうとしたが評判が悪く、加えて太平洋戦争が始まり軍馬の生産に力が入り野間馬のあとはとれないで終わった。
 次いで第二次世界大戦後はミカン畑には動力索道が施設されるようになり、一層野間馬の出番はなくなり、衰退の一途をたどった。
 そこで昭和五三年の午年に当たり、松山市南高井の長岡悟の四頭と県立道後動物園の二頭を数えるのみとなっていたので、地元では今治市長を会長とし、乃万農協に事務所を置く野間馬保存会が設立され、故郷に野間馬放牧場を開設し長岡氏などより譲り受けた四頭(雄一、雌三)を基礎馬に地元の経験豊かな新開豊が委託を受けて、繁殖保存に努めた結果誕生する子馬が雌ばかりで絶滅が心配されていたが五八年四月と六月に続けて二頭の雄馬が誕生したことによって野間馬の血統が保てると放牧場は活気づいている。

 明治・大正から昭和前期の馬産

 明治前期に本県に関連するものは一二年ころから二一年ころにかけて、宮城県産などの種牡馬の貸し付けが行われたことや、一八年に旧松山藩士の馬術家友近などによる馬匹調査が実施され、その調査結果について農商務省に報告書が提出されたが、その概況は次のとおりである。

明治一八年馬匹調査書
  一、目下地方において使用する馬匹は悉皆日本種にして多くは地子と唱えて、野間・風早・上浮穴の三郡等より産出するものを専用す。なお他に大洲・宇和島・九州等の産馬をも使用する有れば一地方の産馬を限りて之を断言する能はず。然れどもその沿革の概要を云へは文化・文政の頃までは右地子なるものを専用せしに天保初年の頃より漸次大洲産馬を使用し弘化年代に至っては混じて宇和島産をも使用することとなれり。然るに嘉永より安政年間に及び少しく其の慣習を改め、侭又九州産を使用せしも明治三・四年の頃より現今に至り、再び地子を専用するの勢となり、此地子なるものは体格少しく小形なるも担重致遠の力量に於ては九州産の大形なるものに譲らず其形体の小なるよりしては自然食料も小量を以て足るの便あるが故に漸次之を称用するもの多し。是は之れ農馬を謂ふものにて乗馬に在ては地子は却って之を称用せざるものなり。
  一、馬匹の性質は右に挙ぐる地子の如きは通常の馬質にして九州産の温良なるに比すれば稍等を下ると雖も別に甚しき悪癖あるに非ざるを以て農家の作馬に使用する宜きに適するものゝ如し。
  一、目下使用する馬匹は(以下省略)
  一、馬の食料は農馬に在ては夏秋の間は青草を専用し冬春の季に於ては善良なる藁を刻み水を以て洗ひ之に粉糠を加えて用ゆるを常とす。其力役を為すの日に於ては大麦を煮て之にすくも(荒米の外皮也)を合せて常食の外に飼ふことを一般の習とせり。乗馬は別に法有り茲に畧す。
  一、駄量は通常の牡馬に在ては三十貫目より六・七十貫目を負担せり、牝馬に在ては概ね其半を減す。
  一、馬の価格は現今は価格大いに下り十円以上二十円以下を以て売買をなすもの多し。

 また明治一九年一月には種用牛馬取締規則が発布され、この年初めて種牡馬検査が実施され、同二〇年四月には巡査教習所飼育の仙台産種牡馬(青毛六才)を購入し、野間・風早の二郡に巡回種付けを行うほかは日清戦争が終わるまではみるべき施策はほとんどなかった。
 日清戦争により軍事に殖産興業に重要な役割を果たす馬匹の改良増殖の緊急性、重要性が力説されるようになり、二八年一〇月第一回調査会から、三〇年六月の第三回までにおいて審議決定された事項について、先ず馬匹改良方針は国防上の必要に基づいて乗輓駄の各用途別にそれぞれに適する馬を産出することなどが決定され、種馬牧場・種馬所・種馬検査・産馬組合・馬籍・馬市場制度などが順次実施されることとなった。
 また三〇年には種牡馬検査法が公布され、全国画一的な標準をもって種牡馬検査が行われると共に、時々種牡馬の監督検査及び産駒の成績調査を行うこととなった。
 三五年に本県馬匹馬政調査を実施したが、さきの一八年の調査を一新するものではなく、県内産馬状況は宇摩・新居・伊予・西宇和郡の四郡は多少の産出はあっても産馬地としては挙げるに足らず、当時の産馬の最も多い地域は越智郡で、そのうち主産地は乃万・亀岡・津倉・宮窪・西伯方の五村くらいで、当時の県内産馬の等級差は青森県産馬を一とすればおおよそ〇・五~〇・六程度と評定されていた。
 又当時県下における駄用その他力役に供する馬匹は過半数が大分・宮崎の両県産にして、当歳・二歳馬を秋に本県牛馬商人が該県市場若しくは産馬家から購入したもの、あるいは同県牛馬商の移出によったものである。
 そして多くの場合県内家畜市場、特に西宇和・喜多、両郡の市場において農家に売り渡し、大抵一~二年間育成し、再転売するのが普通のことで、三歳以上のものに到っては本県牛馬商が随時渡航して移入し、直ちに売却した。
 また両県のほか鹿児島・高知・徳島・広島の四県には多少売買関係を有するものがいた。
 なお調査時の郡別馬匹数は次表2-10のとおりである。
 日露開戦の三七年には臨時馬政調査委員会が設けられ前後九回にわたる審議を経て、三八年一月わが国馬政史上画期的な馬政第一次計画が樹立され、我が国馬匹改良上の憲法となった。
 そしてこの年兵事の急に応ぜんがため、県では馬匹去勢施行規定を定め県吏員を馬産地に派遣して去勢を勧誘し、翌三九年より県農会が施術に当たることとなったが、この年の去勢を実施し九牛馬は五〇頭で、うち一二頭は牛であった。これに対し、牛馬商などが多少反抗したが、そのうち去勢の効果が認められるようになり、次第に奨励の必要もなくなってきた。
 また同年三月、トロッター雑種牡馬一頭と、サラブレッド牝馬五頭の国有馬の貸し付けを受け、牡馬は県農会に貸与し巡回種付けに当たらしめ、牝馬は喜多・西宇和・東宇和・北宇和郡の有志に配布し五か年賦をもって払い下げを行い、ついでサラブレッド牡馬一頭、トロッター牝馬三頭、露馬一頭が国から無償下附されたので県農会ならびに上浮穴・伊予・越智・周桑の各郡農会に配布せられた。
 さらに同年に産馬奨励規程が発布され、次の者に褒賞若しくは奨励金が授与されることになった。

(1) 検査の上優良と認めた馬匹所有者または管理者
(2) 一郡以上を区域とした馬匹共進会、またはこれに準ずべきものにおいて賞を受けた馬
(3) 馬匹改良上功労のあった者
(4) 優良種牡馬の種付けをした牝馬であって、優等と認めたものの所有者または管理者

 次いで四〇年度からは乗馬税も四月から三円と減額され、五月には馬車取締規則も改正されてせん馬(無去勢馬)も使役された。
 そしてこのころから馬産地には種付所が設けられるようになり、四一年には馬政局よりアングロ、アラブ二回雑種の貸与を受け越智郡で繁養中、翌年斃死する事態などもあったが、こうした改良増殖への努力の結果県下に多数の良馬を産するようになった。
 大正三年二月、県令第一〇号で愛媛県産牛馬組合連合会の担任で馬匹去勢施行規程が制定せられ、八年八月には、産馬事業上必要な牧野ならびに採草地として慣行のある国有林野の限定供用について、県内務部長より、馬産に供用すべき国有林野に関する通牒が出されて産馬のための開放が認められた。
 同七年一二月二七日高知種馬所庄内種付所が設置され翌四月から種付けを開放すると共に八年二月県令第八号で優良馬飼育奨励規程を公布し、優良馬匹の県内保留奨励金が交付されるようになった。
 大正一〇年四月二七日、馬籍法の公布をみて翌一一年四月一日から市町村長管掌のもとに国有馬を除く県内全馬について馬籍が作成されて馬匹に関する正確な統計資料を確保できることになった。
 次いで一四年ころから馬の役利用の奨励方策として、県畜産組合連合会主催、後援による畜力利用伝習会や競犁会、役馬能力共進会などの開催や施設の設置が相次いでブームを呼び農村における娯楽の一つともなった。
 昭和に入り六年の満州事変勃発により第二次馬政計画が樹立され、同一一年には愛媛県牛馬生産奨励規程および種馬飼養奨励規則が制定され、さらに一二年には日中戦争へと拡大した。
 そこで、一三年には新馬政計画を推進すると共に、馬の生産率増進専任技術員ならびに軍用候補馬鍛錬馴致施設が設置され、翌一四年には種馬統制法・軍馬資源保護法の二大法案の発布、続く一五年に臨時馬の輸移出の制限令、一六年は種馬登録制度の発足、馬の最高販売価格の指定、馬事団体令の公布に併せ県の犢駒売買取締規則が制定されるなど相次いで戦時統制の強化が行われ、同年末遂に太平洋戦争に突入し、その後の戦局は拡大熾烈を極めた。
 かくて一七年には県並びに地方輓馬組合の設立指定に続き一八年七月には県内馬事に関する総合的統制運営に当たる国策遂行の協力機関として愛媛県馬匹畜産組合の設立をみたが戦後二三年に指名解体された。
 このように馬産は国家の介在が極めて強かったが、反面国家の保護も非常に手厚いものがあって、国家資金が補助金やいろいろの形で大きく投入されて、馬の産業経済上の不利・弱点をカバーしてきたのである。

 昭和戦後の馬産

 第二次世界大戦の終戦とともに、馬は軍馬としての需要が失われて、産業用馬として一般農民のものとなった。
 ここにおいて、国・軍の馬事施設は急転して崩壊するに至ったが、なお戦後においても馬産復興に対する努力は続けられた。
 昭和二二年には馬事対策委員会により馬事推進五か年計画が樹立されると共に農林省でも畜産振興五か年計画の中でその復興が審議され、県においても同年馬産協議会の設立に続き、県畜産増殖計画の中で、実用強健な経済的農用馬の生産を重点に保有馬数は七、五〇〇頭を目標とし、農用馬六、一〇〇頭(うち繁殖兼用馬一、〇〇〇頭)輓用馬一、二〇〇頭、競争用馬二〇〇頭の達成をめざし、このため二四年三月一日より実施の種馬登録要綱の制定をはじめ牧野調査を実施するなど努力したが、これまでは国防的見地から強力な助成奨励が行われてきただけに他の家畜に比して虚脱昏迷の状態に陥ったことはいうまでもなく、加えて占領軍などの意向もあって馬産は一大転換を余儀なくされることになった。
 しかしなおもその復興を期待したが、いずれも当時の客観情勢がこれを許さず、何らの方向づけもないまま、食糧増産に対する国家の緊急要請のもと牛と共に動力源の立役者として推移したが、時代の変遷には抗し難く、経済の高度成長下、道路の整備とモータリゼーションと共に馬力は消滅し、やがて機械化農業の進展と共に農耕馬は無用の長物となり、石油パニックの四八年には僅かに八〇頭を数えるに過ぎないものとなった。
 その後五三年ころから馬肉ブーム、土作り、競馬人気などから馬の高値を生み、見直されて復興を目指す旧馬産地もあったが、本県では大きな意義も見出し得ないままじり貧が続きその動向が注目されている。



表2-10 郡別馬匹数 (明治三五年)

表2-10 郡別馬匹数 (明治三五年)