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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 酪農先進地の概要


 中島町の乳牛飼育

 清和天皇の貞観年間(八五九~八七六)既に牛馬三〇〇~四〇〇頭が飼育され、年毎に貢馬貢牛をした記録の残る中島町は、醍醐天皇の朝延喜式の発布があって、貢馬、貢牛、貢蘇の牧場の制定があり、全国に三九牧の一つになった県内最古の畜産地であると共に、明治・大正から昭和前期にかけての乳牛飼育の先進地であった。
 明治二〇年ころ大浦の牛馬商、中野藤松が短角牛五頭を育成後原価の倍額に買い取る約束をして、神戸の商人花村源太郎から受胎した乳牛を購入して来たのに始まる。
 明治二三年には神戸からエアシヤー種五頭と、京都からホルスタイン種子牛二頭を入れているが、当時の乳牛は搾乳が目的でなく、肥育が主目的で経営方式としては特異なものであって、当時肥育牛が二~三円の時に、乳牛の牡が一二~一三円、牝が一二~一五円で有利なためであった。
 前記の中野藤松の導入牛は俊成又五郎が飼い始めたもので先覚者はこの両人であった。
 明治末期には乳牛は七〇~八〇頭であったが、大正三年には東中島で五一六頭、西中島で四三三頭の牛を飼っておりその殆んどが乳牛であったと言われ、牛馬商も二〇人に達し、一戸平均二頭を飼い、全部舎飼いで、分娩一~二か月前に阪神方面へ、中島を中心に一〇〇隻もあったという瀬戸内海を上り下りする牛船で送り販売する習慣であったが、当時の乳牛は一日一頭八升程度の乳量であり搾乳業では採算がとれなかった。
 大正一二年には「伊予中島乳牛購買販売利用組合」も設立され、乳牛頭数も四一二頭いたが玉葱やみかん栽培が盛んになったため昭和四年には三六一頭となった。
 以降余り発展改善心なく経過したが、戦争と共に飼料不足などから昭和二二年には二三八頭に減少したが、昭和三三年には三八五頭まで回復し、その技術と共に県内に存在を誇ったが柑橘経営への志向が強く乳牛は激減し現在では二戸を残すのみとなった。

 野村町の酪農

 野村町の乳牛の歴史は比較的新しく、計画的に導入したのは昭和一八年からである。
 戦争による養蚕不況対策として、桑園を半分牧草地とする計画を樹て、昭和一一年にできた県立種畜場の指導もあって、宇都宮勇太郎の振興策が成功した。
 彼は先進地の視察に続き乳牛の計画的導入を累次にわたり行って、野村町を中心に東宇和酪農協組合を設立した。
 一方牛乳の処理加工については、明治乳業を誘致して一九年に分工場を設置し、二五年四月からバターを、二七年二月からチーズを造り始めた。当時八〇〇頭で、日産乳量一九石を確保し、チーズ専門工場として一〇年余り続いた。二五年五月練乳工場を造ったが、二七年一二月からは練粉乳よりもチーズ、バターに重点を置き、当時チーズ向き八石を一三石に増やした。
 かくて大洲喜多地区をはじめ宇和、城川からの原料乳も集荷するようになった。昭和二四年の一四五頭から、二八年七五〇頭、三八年二、三二〇頭、四八年三、一六〇頭、五七年四、〇五〇頭と増加しているが飼育戸数は三八年をピークに減少しており、多頭飼育が進んでいる。
 特に大野ヶ原の開拓農家(約三〇戸)が多頭飼育の草地型酪農を採り入れて地域の原動力となっている。
 しかし戦後二〇年間、本県酪農の中心であった野村町にも変化が起きた。昭和三九年大洲市若宮に明治乳業の愛媛工場が新設され粉乳製造が始まり、同年九月から野村町でのチーズ製造は中止され、市乳処理を主にするようになった。
 このことから大洲地域の酪農は大きく発展するが紙面の都合で紹介を省くこととする。