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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第七節 高度成長期


 畜産の企業化で再編進む

 このころになるともはや戦後ではない、などと経済白書が唱えるようになり、昭和三〇年以降の日本の経済は世界の奇跡とも言われる高度成長、重化学工業化がスピードアップし世界第二のGNP大国にのし上がった。この高度経済成長、独占資本の強蓄性に対応を求められた農業の役割は、豊富な低賃金労働力の供給と安価な食糧生産にあったが、昭和二七年にはじまる米国との協定による過剰農産物の軍事的受け入れ飼料穀物の輸入は国内農業を強く圧迫すると同時に、畜産の不安定拡大の契機となった。
 このころから「農政の曲がり角」が叫ばれ選択的拡大の補助金政策から、安上がり金融政策へと合理化農政への転換期を迎える。そして昭和三一年から適地適産をモットーとする新農村建設事業が開始され、これに呼応して酪農振興法が発動される。この合理化農政をさらに強め、「離農-土地売却-経営規模拡大-機械化経営-国際競争力」を農構事業によって促進し、自立経営の育成と大量低賃金労働力を工業に動員しようとするのが昭和三六年の農基法であった。
 この合理化農政のもとで畜産もまた急進する需要に支えられて安上がり多頭羽化を進め、昭和三六年には乳牛・豚・鶏などは数倍の拡大を遂げ、量的拡大のみならず、生産の主力は主業、専業に移り副業畜産の没落は著しく、手飼い技術から部分機械化へ、群体管理へと多頭羽、加工畜産の構造が打ち出された。家族自営による専業規模が乳牛二〇頭、養豚二〇〇頭、養鶏二、〇〇〇羽が一般化し、更に拡大が進み乳牛では五〇~一〇〇頭、養豚一、〇〇〇頭、養鶏二万羽が優に家族専業のスケールに入り、殊に豚鶏では何万頭何十万羽の企業畜産も現れ、その生産様式は家内手工業制から機械化マニファクチャーヘ、更に全自動機械化工業畜産へと発展し、加工畜産の急成長となった。
 このため公害問題、環境保全問題に苦悩することとなった。
 こうした発展は配合飼料工業の発達に負うところ大で、家畜頭羽数の急増と正比例して飼料の需要量も昭和四〇年の一〇万四、三四一tから四七万一、〇七八tと四倍に澎れた。しかし県内自給率は低く四本足のうち三本は輸入飼料に依存する加工畜産となった。加えて飼料などの生産資材のみならず畜産物の加工流通機構についても農外大資本の畜産進出を大きくすることとなった。
 こうした情勢から県においても高度経済成長に呼応する畜産再編をめざして、適地適産政策を主柱に累次の畜産振興計画の樹立、酪農、肉用牛の振興地域並びに豚鶏の主要生産地帯の指定をはじめ種雄牛の集中管理、家畜の経済能力検定事業などによる家畜改良、自給飼料増産などのための草地の改良、造成など飼料生産基盤整備、四国カルスト牧場など公共育成牧場の建設、協和飼料今治工場並びにプリマハム四国工場などの導入、食肉取り引きの近代化、公正化のための経済連伊予食肉センターの建設、家畜、畜産物の価格安定のための基金の創設などに併せ県立酪農指導所や養鶏試験場の発足、畜連と経済連の合併など畜産界一体の躍進は、やがて四五年ころになると豚肉、鶏卵が生産過剰となりブロイラー同様価格は暴落し、独り肉用牛だけが強い需要に支えられて高値に推移するのである。
 また昭和四〇年代に本格化する独占インテグレーション支配が強まって来るのであるが、幸い本県では県経済連や酪連の先手の努力により系統事業の拡充が早く、その取り扱いシェアーは他県に比較して高く、いち早く主導権を握ったため企業商社系列の支配は大きくけん制された。
 だが石油ショックによる日本経済の変革が始まり、畜産ももとより安定成長への転換を余儀なくされるのである。