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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 自主的生産調整活動とその展開


 摘果による計画生産

 前述したように、四七年、四八年の連続赤字とミカン需給見通しの暗さを反映して、生産者の危機意識は急速に高まりをみせ、その上に四九年は大豊作が予想されたことから、県下のミカン主産地で危機突破大会が開かれるなど、あわただしい動きがみられた。そのような基調が全国的に集約され、ここに史上初の「摘果を中心とした計画生産」が実行されることになるのである。すなわち、樹上摘果を主体とする「生産量二〇%カット、三二〇万tに抑制」という基本方針が、日園連(さらにミカン対策中央協議会)を中心に四九年四月に決定され、それが全国→府県→組合→生産者という形で下された。また農業団体は、この自主的な生産調整活動をふまえて、ミカンの摘果推進指導に要する経費の助成(一四億円の半分)を国に要求して認められる。もっとも、四九年の生産量は予想よりかなり少なく、生産調整の成果は明らかでなかったが、卸売価格は㎏当たり平均一〇〇円を確保することができた(東京市場)。五〇年も、引き続き計画生産(生産調整)が実施されたが、活動も低調で、市況の低迷と生産費の上昇から再び赤字に転落する。
 ともかく、産地の協調的な市場対応は、四七年から強化された主要市場に対する出荷調整活動に多少みられるものの、明治、大正、昭和にわたるミカン栽培の長い歴史の中で、生産者が自主的組織的に、摘果を主体に「生産調整」を実施したのは、おそらく四九年が最初であろう。

 減反による生産調整

 五一年は、予想収穫量四三〇万tという驚異的な大豊作が見込まれたことから、日園連の主唱による生産量三一〇万t調整案が機関決定された。この調整案は、四九、五〇年の摘果を中心とした生産調整というより、減反(更新、転換、廃園)による調整であり、主産県に対して減反面積が割り当てられた。またこの計画の三一〇万tというガイドラインは、生産者の目標所得の推定から、それを確保するための卸売価格の推定、卸売価格を実現するための生産量の推定、果汁・かん詰の予想、などをもとに「適正供給量」を算出したもので、所得視点の強いものであった。さらにこの計画は、これまでと異なり減反を明確に打ち出している点に特徴があり、樹上摘果といった単年度の生産量カットでは、到底このきびしいミカン情勢に対処できない、もはや減反しか方法はない、といった認識が強まってきたためとみられる。この時点から、ミカンの需給調整は、単年度の生産量カットから、期間にわたる面積の削減へ、さらに生産者の自主的・組織的生産調整活動から、国や県による行政主導型の生産調整へと大きく転換することになった(第四節参照)。なお、これら一連の全国的な生産調整活動の先頭に立って指導的な役割を果たした愛媛県(行政、団体、生産者)の実績を記録に留めておかねばならない。