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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 果実加工事業の発展


  1 果実加工をめぐる条件変化

 近代的農協果汁工場の新設

 四〇年代に入り、果実加工をめぐる諸条件は、急速に変化してくる。まず第一に、果実生産量の増大-過剰化への対応である。とくにミカンは、前節でみたように、四三年には生産量が二〇〇万tを超え、価格暴落と収益性の低下に見舞われ、加工による需要拡大が強く要請されてくる。そこで国は、四五年に「果実加工需要拡大緊急対策事業」を発足させ、果樹主産県に近代的な果汁工場を新設することとし、四五年から五〇年にかけて、表6-8のような政府助成による果汁工場が各地に新増設された。
 第二に、飲料消費構造の変化。これまで急速に伸びてきた「炭酸飲料」「乳酸飲料」に代わって、果汁飲料の伸びが目立つようになってきたが、これは消費者の自然食品志向やジュースの規格改正による影響が大きい。すなわち、四五年に果実飲料のJAS規格が改正され、「天然果汁(果汁含有率一〇〇%)」、「天然果汁(濃縮還元)」、「果汁飲料(五〇%以上)」、「果汁入り清涼飲料(果汁含有率一〇~四〇%)」、「果汁入り炭酸飲料(二酸化炭素を圧入したもの)」に区分し、一定の表示が義務づけられた。これによって、一〇〇%果汁のものだけジュースと呼称されることになり、品質が明確化された意義は大きい。
 第三に、搾汁方法の近代化・効率化。これまで果汁は、外皮を剥皮して搾汁する方法がとられており、自動剥皮機なども開発されてきたが、能率はかなり低かった。三八年ころから密閉式全自動搾汁機(インライン)が導入され、これが緊急対策事業で新設された果汁工場に採用されたことで、搾汁能率は飛躍的に向上した。またこれまでの搾汁方法では、九三度Cの加熱殺菌が義務づけられていたが、インラインによる濃縮果汁のカットバック(濃縮果汁を還元してジュースにする)に限って加熱殺菌が免除され、品質の向上を促進した。
 第四に、輸出入の増加。三二年頃から果汁製品の輸出が開始されてはいたが、本格的に増加したのは四六年以降である。これは、とくに中近東(アラビア方面など)への輸出が伸びたことに関係がある。一方輸入は、第七章で眺めるように、五二年まで一、〇〇〇tの枠を維持してきたが、その後、グレープフルーツ、オレンジの果汁の輸入枠が次第に拡大されてくる。


  2 愛媛県における果実加工の動向

 果汁生産の伸展

 愛媛県の果実加工は、表6-9に示したように、温州ミカン・夏ミカンがびん・缶詰と果汁、ブドウ・モモ・ビワがびん・缶詰、カキが干しがき、クリがびん・缶詰で、製造数量、原料所要量からみると、やはりミカンとクリが圧倒的に多い。またその推移からみても、ミカン果汁とクリのびん詰の伸びが大きい。これは、原料背景と市場動向によるものであろう。
 果実加工場は、四三年に三二か所(五四年に二〇か所)あり、うち農協系が一〇か所、果汁工場は、愛媛県青果連と宇和青果農協(ただし四五年以降)、びん・缶詰工場は、愛媛県経済連、宇和青果農協、長浜青果農協、伊予園芸農協、中山町農協、温泉青果農協、中島青果農協、越智園芸連、東予園芸農協などである。
 果実加工の中心であるミカンについてみると、表6-10のように、加工比率が四七年以降増加しているが、これは前述した緊急対策事業による果汁工場の新増設によるものである。


  3 愛媛県青果連の果汁加工事業

 第五章第四節で述べられたように、愛媛県青果連の果汁加工事業は、二七年に三津浜に建設された三津工場にその歴史が始まる。その後のあゆみは、四六年、安城寺に松山工場が新設された時点を境いに、その前期と後期に分けて眺めることができる。(資料編社会経済上二五九頁)

 前期(二七年~四六年)

 二七年にポンジュースの製造が開始され、翌二八年には、このジュースが一八〇ccびんで、全国指定青果市場に販売される。二九年に、ポンの商標権を取得。三〇年に、三津工場に濃縮機(モジョニアLFS)を設置し、濃縮果汁の製造を開始する。三一年、ポン濃縮ジュース、さらに缶詰ジュースの製造を開始。三二年、中近東向けに缶ジュースの輸出を開始する。三六年、愛媛県青果連、果汁業界のトップメーカーの地位を確立。三津工場に大型濃縮機(モジョニアLTSC-16C)を設置し、規模拡大をはかる。三八年に、一〇〇%ネオポンジュースを発売。自動剥皮機の開発と取り組む。さらに三津工場にインライン搾汁機(FMC)を導入する。
 四二年、三津に新ジュース工場が完成、搾汁ラインのフルオートメ化がはかられる(自動剥皮機、APV全自動濃縮機を設置)。さらに、冷凍濃縮果汁の製造、販売を開始する。四四年、ポン純生オレンジジュースを発売。四五年、松山ジュース工場の建設に着手する。

 後期(四六年~)

 松山工場の一期工事(四五~四六年)に引き続き、四九年に二期工事(四八~四九年)が完成する。四七年、一〇〇%天然チルド(冷蔵)ジュースを、明治乳業と提携して発売開始。また同年は大豊作で、ジュース工場が二四時間フル操業を実現する。このころから輸出缶ジュースが飛躍的に増加する。四八年、全国農協系の協同果汁(株)が設立される。コカコーラがミカン果汁飲料ハイシーを発売、製造を愛媛県青果連などに委託。四九年、最新鋭設備の東京ジュース工場が、神奈川県厚木市に竣工し操業を開始する。五一年に、中近東向けジュース四一五万ケースの輸出契約が成立。五二年に、輸出ジュースの合弁会社を台湾に設立する。五七年、酸味軽減技術によるソフトタイプのジュースが開発される。
 このように、愛媛県青果連の果汁加工事業は、その歴史が古いこと、豊富な経験をもっていること、新技術、機械施設の導入に意欲的なこと、新製品の開発と販路開拓に積極的に取り組んでいることなどを、特色としてあげることができる。表6-11に示したように、二八年にわずか一億一千万円の売上げであったものが、五五年には三三五億円と三〇〇億円を超え、愛媛県の果樹産業に大きく貢献していることがわかる。なお三津工場は、五五年秋に、安城寺の松山工場に移転併合された。





表6-8 政府助成による農協果汁工場の設置状況

表6-8 政府助成による農協果汁工場の設置状況


表6-9 愛媛県の果実加工の動向

表6-9 愛媛県の果実加工の動向


表6-10 ミカン用途別消費量 (愛媛)

表6-10 ミカン用途別消費量 (愛媛)


表6-11 愛媛県青果連果汁部門売上高と輸出ジュース

表6-11 愛媛県青果連果汁部門売上高と輸出ジュース