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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 果実加工の発展


 缶詰加工の発祥

 本県における農産物の缶詰加工は、南予地方からはじまり、明治二七年宇和島市に宇都宮缶詰所(後の宇和島缶詰株式会社)、明治三三年吉田町に朝家缶詰所(後の愛媛食品興業株式会社)が創設された。はじめは、水産物及び畜肉の加工を中心に発展し、その後筍・グリンピースなどの野菜缶詰、桃・枇杷・梨などの果実缶詰へとひろがった。朝家缶詰所では夏柑のマーマレードの製造を手がけ、英国へ輸出して、王室から感謝状を授与されたという。
 缶詰は、その保存性から戦争(日清・日露・第一次世界大戦)に際して、戦時食料としての需要が発生し、それが缶詰加工発展の要因の一つともなった。缶詰の国内需要が伸びない時代には、軍需が途絶えると企業維持が困難となり、盛衰をくりかえすことも多いことであった。缶詰企業が、その発展過程において、常に輸出開拓に努力を傾注したのは、それが経営の安定をはかる重要な要素と考えられたからであろう。
 果実缶詰の本格的な発展は、ミカン缶詰の製法が開発された昭和初期(昭和二年)からであり、しかもそれが輸出を中心として飛躍的な伸長を遂げるようになってからである。本県においてミカン缶詰の製造が始まったのは昭和八年ころで、吉田町の朝家缶詰・宇和島市の佐藤缶詰・三津浜の桂缶詰などが製造をはじめたと言われている。昭和九年には、西宇和を一円とする農産加工組合が設立され、ミカン缶詰製造を行っている。昭和一一年には、日産食料株式会社(伊予果物同業組合と三津浜缶詰業者の共同出資)、翌一二年には、明治製菓株式会社三津浜工場と二大工場が中予に出現し、ミカン缶詰を中心とした果実缶詰の本格的な生産が展開されるようになった。その外にも県下各地に缶詰工場の設立が相次ぎ、ミカン缶詰のブームが起こった。(表4-14)
 しかし時代は、日中戦争の拡大、第二次世界大戦へと歩調を速め、昭和一八年愛媛県合同缶詰株式会社に企業統合をすることになった。

 加工の試験研究

 県では、昭和一〇年、農事試験場に農産加工部を設置し、村松伝蔵技師を中心に、農産加工技術の試験研究に当たることになった。ミカン缶詰の製造が本格化しようとする時期であったし、農業恐慌の対応策として、農村の副業に農産加工を奨励し、その指導奨励の必要を認めての政策対応であった。

 農産加工指導所設置

 昭和一四年県は八幡浜市(矢野町)に愛媛県立農産加工指導所(西宇和農産加工組合を買収)を設置した。指導所では、温州ミカン・夏柑の利用についての研究、特に落夏柑の処理を研究(夏柑果汁と脱脂乳の混合によるオレンジミルクの製造に成功)、戦時中における軍需缶詰・輸出缶詰・非常備蓄食・未利用資源の研究・甘藷の有効利用(甘藷麺)の研究などを行い、民間工場の指導にもつとめた。

表4-14 愛媛県缶詰工業組合員一覧表 <昭和一五年> (ア)

表4-14 愛媛県缶詰工業組合員一覧表 <昭和一五年> (ア)


表4-14 愛媛県缶詰工業組合員一覧表 <昭和一五年> (イ)

表4-14 愛媛県缶詰工業組合員一覧表 <昭和一五年> (イ)