データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 北米(カナダ・アメリカ)輸出


 ミカンの北米輸出

 温州ミカンの北米輸出は、明治一五、六年ころから、和歌山、静岡などの先駆的業者によって試みられ、輸出が成功したのは、明治二二年和歌山からの温州ミカン二、○○○箱であったとされている。以後幾多の消長はありながら昭和一五年までクリスマス需要として継続された。第二次世界大戦で中絶したが、戦後、カナダは昭和二二年から、アメリカは昭和四三年から今日におよんでいる。しかし、本県の温州ミカンが北米に輸出されたのは、昭和六年の試売輸出(一、〇〇〇箱)からである。このように輸出への進出がおくれたのは、和歌山、静岡などの先駆者の危険負担による永年の輸出努力と、輸出実績尊重の輸出振興政策が、後進産地の進出を阻むものとなったことにある。先進産地においても、柑橘生産者の輸出参入問題が絶えず起こっていたところへ、後進産地(愛媛・広島・山口・九州各県)の輸出進出の要求とが重なり、大正末期から昭和七年ころまで国政を巻き込む熾烈な運動が展開された。その結果前記のように試売輸出をして、西南暖地ミカンの輸出適否をみることになった。試売輸出は極めて好評で、昭和八年から本県へも正式割り当てが実現した。(表4-12)昭和一二年の日中戦争は、北米での日貨排斥をよび、ミカン輸出にも暗影が漂うのであるが、輸出割当数量も伊予果物の場合でみると、昭和八年一万箱、昭和九年一万五、六六一箱、昭和一〇年二万六、〇〇〇箱、昭和一一年四万箱という数量であり、量的には極めて僅かなものであった。

 栗の輸出

 北米輸出の関係では栗の輸出がある。粟の需要は、感謝祭(一一月最後の木曜日)からクリスマスにかけてであり、イタリアが最大の輸出国であった。日本産生栗は、兵庫・大阪のものがアメリカ西海岸(サンフランシスコ・シアトル)へ輸出されていた。昭和四年にイタリアから輸出された粟に害虫腐敗が発生して大問題となり、昭和五年九月から輸入ライセンス(免許制)が実施されることになり、昭和五年には、イタリア産が西海岸の市場から姿を消した。それらが日本からの輸出機会となり、昭和五年帝国農会を中心に関係府県が生粟の出荷組織をつくり、規格の設定、検査実施による輸出体制を整えた。また日本栗北米輸出商組合(神戸)を設立せしめた。栗の有力産地である本県は、それまで輸出の実績もなかったが、前記の動向に参加して、初めて中山産(赤中)栗を神戸の貿易商を通じて試売輸出した。これが極めて好評を博し、輸入希望が本県産に集中することになり、一躍栗輸出の重要な地位を占めることになった。県農会は、昭和六年輸出栗の検査規程を制定、指導斡旋に当たることになった。その要点は次の通りである。

(1) 輸出粟のくん蒸は、検査員立会のもとに容積一、〇〇〇立方尺に付き二硫化炭素四~六ポンドの割合で二四
  時聞以上密閉くん蒸する。
(2) 規格選別 AA(一封度一七粒以下)、A(一八粒~二二)、B(二三粒~二七)、C(二八粒~三二)
(3) 荷造り、透箱五五封度(AA、A)、六〇封度(B、C)

昭和六年の輸出実績は、二、一七六箱(八回に輸出)であった。以後本県産栗の輸出は、中山・内子両地区から実施され、第二次世界大戦前まで継続された。


表4-12 温州ミカン北米輸出の経緯 ≪昭和 (戦前)まで≫

表4-12 温州ミカン北米輸出の経緯 ≪昭和 (戦前)まで≫