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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

四 食糧需給の緩和と食管制度の変遷


 米麦の需給緩和

 昭和三〇年全国の米の生産量は一、二三八万五、〇〇〇tと史上最高の豊作となった。翌年は一千万t台となったが、三二年、三三年と連続して一、一〇〇万t台の実績をみるに至って、これが平年度水準とみなされるようになった。事実、三四年には一、二〇〇万tを記録し、以降この水準を維持し四二年には一、四〇〇万t台に達した。本県でも同じような傾向で、三〇年に一五万九、三六〇tを記録し戦前最高の記録である昭和八年の一六万六、〇〇〇tに迫り史上二位の記録となった。三一、三二年とこの水準を維持し、三三年には遂に一七万t台になり史上最高を記録するに至り以降この水準が平年化されるのである。
 麦も二八年には戦前一〇~一二年の平均生産量の九万二、〇〇〇tに達し、二九年には一一万四、四一八tを記録している。さらに二五年ころからの輸入食糧の増加もあって、いも類と雑穀類が二五年に統制が撤廃されていたが、麦は二七年になって統制が撤廃された。
 米の統制撤廃問題もこのころから表面化しており、「主食の統制撤廃に関する措置要綱」を二六年に閣議決定までしている。しかし政治的な事情がからみ、また二八年産米の凶作もあって撤廃問題は消えたが三〇年からそれまでの供出割当制度を事前売渡申込制に移行することとなった。これに伴って生産者米価についても米価体系の整理と米価水準の引上げが行われた。すなわち基本価格、時期別価格差、等級間格差、申込加算包装代の体系となり、算定方式も奨励金を基本価格に織り込んだパリティ方式とするとともに、漸次生産費方式を取り入れることとなった。このようにして昭和三〇年産米価は一五〇㎏(一石)当たり一万一六〇円となった。
 需給事情が緩和するとともに、ヤミ米価格も下がり政府への売渡数量は増加した。本県の昭和三〇年産米の売渡数量は三万七、二四〇tで、生産量に対する比率は二二・六%であったが、買入数量は年々増加し昭和四〇年には六万八、六三八t、買入率は四一・三%となった。

 食糧消費構造の変化

 主要食糧需給の緩和に伴って食糧配給基準も緩和され、三〇年から希望配給制と業務用米配給を実施した。三一年の基本配給は生産県で内地米一五日、消費県で内地米八日、輸入米七日計一五日であったが、生産県で一日、消費県で三日の希望配給を認められ、以降漸次増加した。そして昭和三四年は一人一か月内地米六㎏、徳用米二㎏、外米制限なしとなり、内地水稲うるちは三五年八㎏、三六年から一〇㎏、昭和四四年から一五㎏となり他のもち米、準内地米などは希望する数量を配給することとなっている。しかし、現実には消費者が配給制度を意識しなくなってから久しい。
 また、国民一人当たりの食糧消費構造の変化も著しい。終戦当時と二〇年代の消費構造の特長は穀類中心の傾向は同じであるが、米の不足を麦類で補っていた。しかし三〇年代には麦類、いも類が減少し動物性食品が急増し始めた。米の消費量は昭和三七年三二四㎏をピークに減少し四〇年代には二〇〇㎏台となった。



表6-21 国民1人当たり食料消費量の変化

表6-21 国民1人当たり食料消費量の変化