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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 農家の動向


 農家戸数の推移

 昭和九~一一年の平均総農家戸数は、九万二、三五戸であった。その後漸増して一六年には一二万二、七九四戸となった。終戦後農村への還流が続き、昭和二五年には一四万六、一三五戸とピークを示したが、以降漸減をして昭和五七年には戦前の水準に近くなった。
 これは、まず都市産業の復興に伴い、都市に雇用の機会を求めて、再び離村を始めたものである。その後、昭和三五年以降は高度経済成長に伴う都市への流出による減少である。

 自作農家と兼業農家の増加

 自作農家の増加はいうまでもなく農地改革の成果である。農地改革以前には自作農家三五・一%、小自作と小作と合わせて四四・三%であったが、農地改革が終わりに近づいた昭和二五年には自作農家が六二%、小自作と小作を合わせて一三・一%となった。それ以降小作農家が減少して、自作農家が増加し、昭和五七年には自作農家が八九・五%を占めている。
 つぎに、専業農家の動向を見ると、戦後しばらく増加するが、二五年ころ以降は漸減してくる。特に昭和三五年以降は経済成長の影響を受けて、農業外に所得を求める兼業農家が著しく増加してきた。しかも、農業を主とする第一種兼業農家よりも、兼業を主とする第二種兼業農家が増加し、昭和五四年には専業農家戸数は一万五、三二〇戸、一五・一%と最低を記録した。その後、若干増加の傾向を示しているが、昭和五七年の兼業農家は約八三%と圧倒的に高い比率を示している。

 経営規模別農家数の推移

 本県の農家経営規模は小さく、二ha以下の農家がほとんどである。しかも〇・五ha以下が昭和三五年ころまで五〇%を超え、その後若干減少したが五七年なお四六・三%である。ただ、一ha以上のいわゆる自立指向農家は、総農家数の減少傾向の中で、一定の戸数を維持しているため、構成比率は昭和二五年当時の九・二%から二四・三%に増加している。この一haあたりを軸に階層分化が進み始めている。

 過剰から減少への農業人口

 昭和二二年県内の農林漁業就業人口は三二万四、七七五人と、昭和一五年当時の二〇%余りも増加していたが、二五年には二五万九、四二一人と最高を記録している。この時農林漁家人口は八五万九、五七九人で県内総人口の五六・四%を占めていた。また、農家一戸当たり就業者数は二・四人で、当時の非農林水産業の一・七人と比較して多い。
 昭和二九年県の農村経済研究所の調査によると、過剰労働力が三〇・七%という結果であった。
 このような状況の中で、農村過剰人口問題、農村の二、三男対策問題、さらには海外移住問題などに積極的に取り組んだ。
 しかし、一方三〇年代後半ころから第二次産業の着実な復興を見るようになった。これに対応して再び離村する者と、不足する農家収入を補うための兼業化が進行し始めた。そして三〇年には二八万八、五五〇人に減少し、更にいわゆる高度経済成長の進展に対応して、農業就業者は急激に減少して、昭和五五年には一一万一、六五一人と、最高時の実に三一%までに減少してしまった。しかも、その就業者は女性と高年齢者の比率が高いのが特長である。ちなみに昭和三〇年当時は、六五歳以上が一〇・三%であったが、昭和五五年には二一・三%を占めるまでに至った。逆に一五~四九歳の中堅労働力が六六・三%から三六・八%とおよそ半減している。この傾向は年齢が低くなるほど減少率が高くなっており、二九歳末満で見ると約三〇%が四・六%へと激減している。これは、中堅的な農業従事者が兼業の方へ移動し、さらに新規就農者、いわゆる後継者が減少したためである。
 新規卒業者の動向調査から、農業への就職者は五五年以降一〇〇人以下となっている。昭和二六年当時の八、五一三人と比較してその減少は余りにも大きい。新規就農者が三〇年で世代交代をすると仮定して、いわゆる農家補充率を計算してみると、昭和二六年約九〇%であったものが、五七年には一%を割ってしまった。いわゆる農業後継者の確保の難しさと、いよいよ高齢化の速度が早まることが明らかである。




表6-6 専業兼業別・自作・小作別農家数

表6-6 専業兼業別・自作・小作別農家数


表6-7 経営規模別農家数

表6-7 経営規模別農家数


図6-2 経営耕地規模別農家構成の推移

図6-2 経営耕地規模別農家構成の推移


表6-8 年齢階層別就業者数

表6-8 年齢階層別就業者数


表6-9 農家補充率

表6-9 農家補充率