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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 戦後の農政の変遷


 戦後の農政は当然のことながら、戦争の終結によって始まった。それまでの戦争遂行のための社会経済体制を、平時のそれに復元することである。しかし同時に連合軍による占領という異常な体制の中での、平和と民主主義の為の新しい社会経済体制づくりでもあった。さらに何よりも緊急なことは、経済の破たんによって起きている食糧不足など国民生活の改善であった。農家にとっては、食糧供出の重圧、農業生産資材の不足、農村人口の増加による重圧などの苦悩と共に、食糧品のやみ値の高騰、インフレの激化に悩む時代でもあった。
 たまたま昭和二五年朝鮮戦争が起きて、特需景気により経済の活性化があり、また食糧需給についても大きな成果を見るようになって、戦後約一〇年間でいわゆる戦後処理農政を終わり新しい農業政策の時代に入った。

 食糧緊急確保対策

 昭和二〇年産米の不作と、海外からの引き揚げ人口の増加、供出意欲の減退などによって、都市における食糧事情はまさに飢餓状態であった。そこでまず食糧増産のための「緊急開拓事業要綱」が閣議決定された。昭和二一年五月には食糧メーデーが催されるという事態であった。このような深刻な事態に対応して「食糧緊急措置令」を公布し、供米に対する強権発動を強化するなど、従来の食糧管理制度の中で、食糧の確保と配給に万全を期した。
 その間、食糧増産についても総合的・体系的に施策の整備を図って、昭和三〇年には一、二三八万tと予期以上の成果を収め、食糧管理制度の見直し論が出るまでとなり、この年から米の予約売渡制度に踏み切った。

 農地改革の実施

 戦後の農政で最も画期的なものは、農地改革の実施であった。わが国では既に戦前から、農地統制政策により、小作料・農地価格・耕作権移動が統制されていた。戦時中には食糧管理法によって小作料の金納化と、その引き下げが助長された。これらは戦後の農地改革の準備体制の役割を果たしてきた。終戦の年一一月には早くも第一次農地改革の実施を閣議決定した。その法案審議中の一二月に占領軍司令部は、いわゆる農民解放指令といわれる「農地改革についての覚書」を政府に指令してきた。その後いろいろの経緯のあと、二一年一〇月「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正法律」が公布されて、農地改革は昭和二一年一二月二八日に始動、二三年一二月三一日を完了時として展開された。
 本県では農地改革の推進体制として、昭和二一年一一月農地課が新設され、同じく八月に新設されていた開拓課と旧来の耕地課を所管する農地部が発足した。農地改革の実施機関である農地委員会は、階層代表別によって構成され、市町村委員は二一年一二月二〇日、県委員は翌年二月二五日に選挙された。ついで二二年一〇月には農地委員会愛媛県協議会が結成され、また一方農民組合組織が結成されるなど、農地改革に対する積極的な運動がいろいろな形で始まった。
 農地の買収は自作農創設特別措置法によって、その基準が示されていたが、各県別基準面積は中央委員会で決定した。それによると本県は、①在村地主の県平均面積〇・七haをこえる小作地 ②自作地や国平均二・二haをこえる小作地と決定した。これに基づいて県農地委員会は市町村別基準を①については〇・七、〇・六、〇・五ha ②については二・二、二・〇、一・八haの三段階に区分決定した。
 農地の買収は昭和二二年三月から開始され、一六期二三回にわたって実施された。その実績は表6―1のとおりであるが、農地二万四、二一八haを買収した。その外、開拓用地九、二二三ha、農業用宅地六八八ha、建物五一六棟、牧野六八八ha、農業施設四五haも買収された。農地の買収面積は当初予定面積の一三○%に達した。
 農地の買収価格は、田が賃貸価格の四〇倍(標準七六〇円)、畑が四八倍(同四五〇円)の統制価格となり、小作料も金納化された。支払方法は現金のほかに農地証券(二か年据置、二二か年元利均等年賦払)によって行われ、年利三分二厘であったが、インフレーションの影響か、本県では九二%が現金払いとなった。
 農地の売り渡しも買収以上に難しい問題があった。そこで安い農地を買い受けのできる者について自作農創設特別措置法は明確に規定している。すなわち、「その買収の時期において、当該農地につき耕作の業務を営む小作農、その他命令で定める者で、自作農として農業に精進する見込みのある者」となっている。さらに国は通達で「農業に精進する見込みのある者」の解釈を確定した。しかしそれを要約すると①専業農家は勿論、一兼・二兼農家にも可 ②自作農として精進の見込みない者には売り渡しを行わないが、この場合でも耕作権をはく奪できない。……以下略……。という訳で基本方針は極めて寛大、機械的で、特別な零細農家でない限り、買い受け資格を付与されていた。本県では約一〇万戸を対象に売り渡しが行われた。従って、小作農家が解放されて多数の自作農家層がつくられたが、結果的には大量の零細経営及び兼業農家を抱え込んだこととなった。その後三〇年代の経済成長期に入ると、都市近郊を始めとして農地の転用が激増する中で、地価が暴騰し、解放された小作地を含めて、急速に手離されていった事実を見るとき、「民主化」と「自作農創設」という理想をもって進められた歴史的事業が、「農地改革から農業改革」へつながらなかったところに、この農地改革の限界があったというべきか。
 しかし、いずれにしても、有史以来の農地買収から売り渡しへの作業は大変なものであった。記述することは多いが、特殊な事例を掲示し、内容については『愛媛県農地改革概要』に詳述されているので省略する。

 ① 北宇和郡立間村の集団的自作地認定買収
  これは全国でも例のなかった事例で、果樹園自作地三三ha(買収対象地主三六名)を認定買収にかけ、一二〇名に売り渡し
 たことである。この間二年の歳月をかけ、対立した農協二つが生まれた。

 ② 小作権慣行地帯における集団的対価増額請求訴訟
  本県の東予地方では慣行上の耕作権が広く存在していた。この地帯の農地の買収対価は、中央の方針に従って、慣行小作
 権と所有権の双方を含んだ価格であるとの前提で買収した。地主側はこれを不服として、西条市・小松町・壬生川町の地主が
 中心となって、十数件の訴訟があった。関係農地五〇〇ha、原告三〇〇人という規模であったが、五年の年月をかけたあと和
 解が成立した。

 こうして約二年間で農地改革のおおよその作業を終わったが、その結果小作地はわずかに一二%に減少し、小自作農も一三%となった。自作・自小作農が八六%に増大し、小作料もまた収益率による金納制となった。

 農業協同組合の発足

 農業会の解散と農業協同組合の設立は、昭和二二年一月総司令部の農業協同組合法の作成指示で明確となった。このような情勢を受けて、全国的に農業復興会議の結成が進められていたが、本県では二二年九月結成され、一〇月「農協の組織に関する意見」を公表した。このあと、一一月農業協同組合法が公布された。しかし、政府は総司令部の指示により、農業会解散準備総会が終了するまでは、官公庁・旧農業会役員などが農協設立運動に関与することは、望ましくないという通達が出されていた。これは、民主的な新しい農業協同組合の発足に、旧勢力による農業会の温存策に利用されないために、GHQの配慮であった。また、農業会の役員・幹部職員の責任ある地位への就任禁止などもあった。
 農業協同組合の所管機関として、愛媛県庁に農業協同組合課が設置されたのは、昭和二三年三月であった。このあと急速に設立準備が進み、四月末までには大半の創立総会を終了した。この時点では、一般総合農協が三三四組合、特殊(専門)農協一三八組合、合計四七二組合であった。しかし、翌年までに開拓農協をはじめ専門農協が続々と設立せられて、二四年末には二五一組合に達し、合計で五八五組合となった。戦前の農業会は一町村一会が原則と規定されていたが、農協法では、一五人以上の農民が発起人となれば、自由に設立できるいわゆる地区の制限がなくなったためである。
 また連合会については、新農協法公布以来あった総合連合会設立構想は、旧農業会の温存につながるというGHQの指導もあって実現できなかった。そして新しい構想として、生産農協連・販売農協連・購買農協連・信用農協連が二三年七月一六日設立された。続いて一〇月及び一一月にかけて青果販売農協連・開拓農協連・養蚕農協連が設立され、この年末には七連合会となった。その後、農地改革の終了する二五年ころから農業団体再編成問題が起こって、本県では二五年六月に生産・販売・購買の三連を合併して経済農協連が発足すると共に、新しく指導農協連を設立した。これが二九年に農協中央会となり、二八年には共済農協連が設立され、四〇年に酪農農協連の設立を見るに至って、現在の体制が確立された。
 この間の連合会・単位農協を通じての問題は、農協再建整備促進事業と、農協合併、青果農協連と経済農協連との事業調整問題などであった。

 農業災害補償制度

 農業災害補償法は昭和二二年一二月公布された。この法律はそれまでの農業保険と家畜保険とを一体化して再構築し、内容の拡充強化を図ったものである。従って旧法に基づく権利義務関係は、すべて農業共済組合が継承した。旧法と異なる点は、農業会などに依存せず、共済組合・共済保険組合・政府再保険特別会計という固有の組織によることとしたこと。共済目的及び共済事故の拡充、農家負担共済掛金の合理化、特に共済掛金の農家と国との負担区分を合理化した。
 共済事業の内容については、年々歳々法律・規則などの改正が続き、試行錯誤のようなこともあったが、果たして来た役割は極めて大きかった。また、この中で任意共済事業が認められて、建物共済を昭和二五年一月から実施したが、農協が行う建物共済と激しい競合が起こった。しかし、これも三四年知事のあっせんによりひとまず調停が成立した。また、肉豚共済については県議会の要望もあって、共済掛金の一部を県が負担するという、全国でも例の少ない制度を昭和三七年から県の単独実施の形で開始した。
 さらに、果樹保険臨時措置法(昭・四二公布)による試験実施をしたが、昭和四七年農災法の一部改正により本格的実施に入った。ここで特筆すべきことは、果樹保険法の実施に平行して、いわゆる「所得補償制度」について検討されていたことである。そして昭和四八年から「愛媛県うんしゅうみかん所得共済制度実験実施要綱」が制定された。五〇年からは、国の「果樹共済補完調査事業」に引き継がれ継続実施しているが、国の本格実施までにはなお問題が多い。また、昭和四九年度から、宇摩・越智・伊予・南宇和の四組合で実施していた「園芸施設共済」の実験実施は、五四年から本格的な実施に入った。
 次に、共済組合については、昭和二三年度中に二四九組合、翌年一五組合、その後二七年までに五組合、合計二六九組合が設立された。しかし、昭和二八年「町村合併促進法」が施行され、三〇年から原則として合併後の市町村を区域として組合合併を行うこととなった。本県では昭和三三年一組合が合併し、四三年までに九四組合が合併して七五組合となった。続いて四五年「愛媛県農業共済組合等広域合併推進要綱」を定め強力に推進した結果、四九年に目標を達成し、県下の郡を単位とする一二組合の現体制を確立した。

 農業改良普及事業の発足

 この事業の発端もまた、総司令部の「農民解放指令」にあった、「農民に対し技術上その他の有用な知識を普及する計画」に基づいていた。国はこれを受けて昭和二一年一月「農業技術惨透方策要綱」を策定した。しかし、総司令部は昭和二二年一月の覚書、同二一月のメッセージ、法案の提案などが矢継ぎ早にあった後、昭和二三年四月、エクステンションに関して具体的な指示を行った。そして六月新しい普及制度の実施について司令部の承認を受けた通達があった。そのあと、七月に「農業改良助長法」が公布になった。このような経過の背景には、農地改革と並んで、日本の社会の近代化、民主化を促進する重要な施策の一つにしようとしていた占領軍司令部の意図があった。ともあれこの事業は、農業や農村の主体である農民の知性・人間性を高め、その主体的条件を培養することによって、農業の発展と農村生活の向上を図ろうとするものである。従って、この事業では人を対象としたこと、すなわち、自主的に農業を営むことの出来る農業者の育成といったことに主眼をおいたこと、また従来指導の対象とならなかった農家の主婦・農村の青少年まで含めるようになったことなどが、大きな特色である。
 普及事業は国と県の協同事業とされ、その運営は両者が協議して定めることとされたが、実施主体は県におかれた。すなわち、昭和二三年九月経済部に農業改良課が設置された。また、昭和二四年にはこの事業に県民の意向を反映して運営するため、県に農業改良委員会を設置し、別に地区または市町村の区域に地区委員会をおいた。農業改良委員会は昭和二六年県農業委員会が発足することにより、その中の農業部会に引き継がれた。
 農業改良普及所は昭和二三年「愛媛県農業普及事務所規程」により、八〇名の食糧増産技術員を嘱託として任用した。昭和二四年に「農業改良事業条例」を定め、一二の農業改良普及事務所と四〇の支所を設定した。この時、農業改良普及員一二一名が配置された。普及員は食糧の増産、生産力の向上を重点課題として、緑の自転車に乗って活動した。昭和二五年に生活改良普及員七名が初めて配置された。その後、年々増員されて三〇年には農業改良普及員二七〇名、生活改良普及員二二名合計二九二名となった。この時期は、農業の研究意欲が高揚した時代で、農事研究会・4Hクラブなどが続々結成された。また、試験研究の成果として新技術が次々と開発されるとともに、政策的にも食糧増産五か年計画(昭二七)・農産物種子法(昭二七)・自作農維持特別資金法(昭三〇)・農業改良資金助成法(昭三一)・新農山漁村建設総合対策(昭三一)などの施策・制度が整えられて、普及員はこれらの新技術・新知識・諸制度を駆使して農家の要望に応え、普及活動として最も充実した時代であった。
 昭和三三年改良助長法の改正を受けて、県は二九普及所・六支所制をとったが、昭和三七年にさらに五つの中央農業改良普及所、一五の農業改良普及所に統合された。これは中地区体制による専門普及活動の強化を図ったものである。この時期は高度経済成長期であり、他産業に劣らない高所得農業を目標に活動が進められた。昭和三六年には農業基本法が制定され、農業の構造を改善し、生産性を向上させるための合理化、近代化政策がとられた。これに対応するため技術の専門化・農家への密着・各種事業への対応に重点をおいて活動した。
 四〇年代に入ると、選択的拡大作目の導入や、農業構造改善事業の推進、大規模経営の出現などにより、従来の個々の技術指導のほかに、農業生産体制、流通体制の組織化、地域計画との調整などがより重要になってきた。そこで、県は四二年から広域経済圏に適合する普及活動体制をとるため一四普及所に統合を行った。そして普及員を総合普及員と専門普及員に分け、それぞれ特色のある普及活動をすることとなった。その後昭和四八年には県の新農業政策による一二広域営農圏に合わせて、一二普及所と二支所制に改まった。
 この時期は、みかんの暴落(昭四三)・米の生産調整(昭四四から)・農業人口の減少と兼業農家の増大・後継者の激減など農業の混迷時代であった。ちなみに昭和五三年の普及員数は、農業改良普及員二四二名・生活改良普及員四〇名、計二八二名である。
 いずれにしても、昭和二三年発足以来の活動は、それぞれの時代の農業情勢の変化に対応して、農業者と共に考え、歩み続けて来たもので、それはそのまま戦後の県農業発展の歴史に通じるものである。

 農業委員会の活動

 農業委員会は、昭和二六年農業委員会法の公布、施行に伴い、それまでの農地委員会・農業改良委員会・農業調整委員会の機能を統合し、農業・農民の利益を代表する機関として、市町村及び県に農業委員会が発足した。市町村委員会は一五人の公選委員と五人以内の選任委員、県委員会は知事を会長に公選委員一五人、選任委員五人以内で組織されることとなった。第一回目の選挙は市町村が七月、県は八月全国一斉に執行された。委員会は「農地改革から農業改革へ」をスローガンに独特の活動を行った。その後昭和二九年に農業委員会法の改正により、県委員会を廃止し、それに代わって法人としての農業会議を設置した。
 農業会議・農業委員会の活動は、その経緯から当然のことながら、農地法と自作農体制の維持に重点を置いていた。とくに農地などの転用及び賃貸借の解約などの知事の許可に、あらかじめ農業委員会の意見を聞かなければならないこととなっている。従って、自作農の維持・創設と優良農地の保全のため、知事からの諮問に対して適切な意見を具申してきた。特に新都市計画法・農業振興地域の整備に関する法律などの施行後の、土地政策には大きく関与してきた。その外、農地課税・農地の交換分合あるいは農業構造政策・農業生産組織・農業者年金・災害対策、その他一般的な調査研究・情報活動など、幅広い農政活動に成果をあげている。

 政策的金融制度の整備

 政府の政策的金融の中心をなすものとして、昭和二六年「農林漁業資金融通法」を公布し、翌二七年農林漁業金融公庫を設立して業務を開始した。公庫による融資制度は農林漁業者に対し、農林漁業の生産力の維持増進に必要な、長期かつ低利の資金で、一般の金融機関が融通することの困難なものに対して融通することを目的としている。昭和三〇年からは、農地改革によって創設された自作農を維持し、また新たに自作農を創設する自作農維持創設資金の融通が行われるようにもなった。
 このように、それぞれの時代の政策の要求に従って制度が充実され、当初土地改良・共同利用施設など八資金であったが、現在では二八種にも達している。その中には農業構造改善資金・果樹園経営改善資金・総合施設資金などがあり、地域的には寒冷畑作営農改善資金・過疎地域経営改善資金などがある。
 つぎに「農業近代化資金制度」は、農業者などに対し、農協が行う長期かつ低利の施設資金などの融通を円滑にするため、国が県の行う利子補給に対し助成し、農業経営の近代化に資することを目的に、三六年に創設された。個人対象の建築物・農機・家畜・果樹などの育成資金・農村環境整備資金・営農団地特別整備資金・地域農業再編整備資金・中核農家規模拡大初度的経営資金などがある。
 「天災融資制度」は、暴風雨・豪雨・降雪・低温・干ばつなどの天災によって損失を受けた農林漁業者、及びそれらが組織する団体に対し、経営に必要な資金の融通を円滑にするための融資制度で、昭和三〇年に創設された。
 「総合資金制度」は農業基本法に規定する自立農家を志向し、経営規模の拡大、資本装備の高度化など、総合的かつ計画的に自己の農業経営の改善を行おうとする農業者に対して、総合的に融資する制度で、昭和四三年に創設された。この制度の特長は、経営改善に必要な農地・施設・農機具・家畜の導入について、公庫から総合資金が融資され、これに関して必要な農業近代化資金や運転資金は、農協などからセット融資されることとなっている。また、貸付限度額についても、個人二、三〇〇万円(特認七千万円)とかなり大きな限度となっている。
 また、「農業改良資金制度」は、農業者が①農業経営の改善を目的として自主的に能率的な農業技術の導入をはかること。②農家生活の改善を目的として、自主的に合理的な生活方式の導入をはかること。③農業後継者たる農村青少年が近代的な農業経営を担当するのにふさわしい者となることを助長するため、県が「技術導入資金」及び「農業後継者育成資金」を貸しつけるのに必要な原資を国が一部助成する制度で、昭和三一年に創設された。なお、この制度の趣旨が有効に実現されるために、農業改良普及員・生活改良普及員などの指導が並行して行われる必要がある。いわばこれらの普及組織による普及指導のための経済的裏付けとなっているものである。
 この外、農業近代化資金などの融通の円滑化を図ることを目的として、「農業信用保証保険制度」が昭和三六年から発足している。これは、信用力の弱い農業者が融資機関から融資を受ける時、その債務保証をするものである。
 なお、本県独自の金融制度として、「愛媛県興農資金(後で共同化資金と改称)」がある。この制度は昭和二八年九月県議会で条例が可決された。この制度は、制度金融と農協金融の対象になりにくい農業者及び農協を対象として低利で融資する制度である。発足当初から需要が多かったが、その後農業共同化事業を促進するため、名称を改称したが、共同化だけでなくかなり幅広い範囲で、その時々の政策要請にそって活用されている。
 以上、制度金融について概説したが、戦後の農業及び農村の振興について、制度金融の果たした役割は財政投資と共に高く評価されている。

 新農山漁村建設総合対策

 食糧確保が一段落ついたあと、いわゆる戦後処理後の新しい農政として登場したのが、いわゆる「新農村建設事業」である。昭和三〇年一二月の閣議で「農山漁民、とくに青年の自主的活動を基調として、立地に応じ土地条件の整備、経営の多角化、技術の改良、共同施設の充実等、農山漁村の振興に必要な総合対策を強力に推進する。」ことを明らかにした。そして三一年度から「農林漁業地域」一地域当たり一千万円の振興事業を実施することとなった。
 この構想・内容は極めてユニークで、かつ財政的にも強大な援助であった。他産業との較差の是正・農産物市場の国際化・自由化への対応として、地域の特性に応じ、適地適作の原則に立って、青年・婦人の自主的な活動と共同化を図るというもので、その後の農業基本法農政の原流をなすものであった。
 本県では、三一年から七年間に一一九の農林漁業地域を対象に事業を実施した。しかし、インフレの進行により一、〇〇〇万円がかすんでき、構想の実現についても常に画一的で、上からの押しつけにならされていた農村では、当初の構想通りの実施は望むべくもなかった。そこで、抜本的対策として、農業基本法に引きつがれた。

 農業基本法と農業構造改善事業

 昭和三〇年代に入ってからの重化学工業を中心とした経済の飛躍的発展は、同時に国内の農工間の較差という問題を引き起こし、更に三五年ころからの高度経済成長期に入ってその傾向はますます激しくなった。政府は三四年に「農業基本問題調査会」を設置し、三五年に同会の答申を得、翌三六年「農業基本法」を公布した。その理念は工業に対する農業の持つ不利を是正しながら、高い生産性を発揮する農業の創造にあった。
 その理念実現のための具体的施策として、農業構造改善事業などを推進したが、その具体的目標を示すと、
① まず「自立農家の育成と協業」の推進であった。宿命的な日本農家の零細性は、画期的な農地改革の実施にもかかわらず、規模はかえって零細化し、当時の平均規模は約八〇aにすぎなかった。その規模を約三倍程度の二・五ha程度にすれば、農業だけで自立していける。そのためには兼業的零細農家の減少政策を折ち出した。しかし、このことは容易なことではないので、経営規模の拡大を図るということで、「協業」を強く推進することとなったのである。
② 次は「生産の選択的拡大」であった。国民所得の増大につれて拡大するはずの需要に見合った作目の生産を選択して拡大しようとするものである。これは当然のことでもあるが、新農村以来の「適地適産」の趣旨にも通ずるもので、果樹園芸・施設園芸・花卉園芸・畜産などが、それぞれの適地で振興された。
③ さらに、いわゆる「構造改善」によって農村全体の労働生産性を高めることである。そこで農地の区画、灌排水路・農道などを整備して、大型機械化の実現を可能にした。そして、これらの利用事業などでも農協とか協業を活用することとした。
 農業構造改善事業は、昭和三七年のパイロット事業から開始された。パイロット地区としては、みかんを基幹作目とする松山市道後地区と砥部町麻生地区であった。続いて第一次農業構造改善事業が始まり、昭和四四年まで五六地域で実施した。基幹作目はみかんと畜産が多かったが、稲についても水田の基盤整備とかカントリーエレベーターなどが実施された。
 続いて第二次農業構造改善事業は、いわゆる「総合農政」の主旨にそって、より大型プロジェクトとして実施された。二次構では自立経営農家を対象として、生産性の高い農業経営の育成が目標であったが、数人以上の集団化(組織化)が必要であった。対象作目は一次構よりも幅広くなった。それまでのかんきつ・畜産に若干のかげりが見えたこともあって、たばこ・くり・しいたけ・まゆなどが登場してきた。昭和四五年から五三年にかけて、三一地区一万一、〇三二戸を対象に、約一一〇億円余りの補助事業を実施した。
 第二次構造改善事業の一環として、自然休養村整備事業が実施された。久万町・大三島町・津島町・伊予三島市が対象となったが、久万町の「ふるさと村」は立派に成功している。これは高度経済成長の中で、都市生活者に自然と休息を与えるとともに、農業者の就業機会の増大と、農家経済の安定向上をねらった事業でもある。
 新農業構造改善事業は、二次構のあと昭和五三年度から開始され、五八年度までに三二地区で継続実施中である。















表6-1 農地改革買収農地面積

表6-1 農地改革買収農地面積


表6-2 農業協同組合数の推移

表6-2 農業協同組合数の推移


図6-1 昭和22年農業協同組合法以降連合会の推移

図6-1 昭和22年農業協同組合法以降連合会の推移


表6-3 第1次農業構造改善事業の実績(ア)

表6-3 第1次農業構造改善事業の実績(ア)


表6-3 第1次農業構造改善事業の実績(イ)

表6-3 第1次農業構造改善事業の実績(イ)


表6-4 第2次農業構造改善事業計画認定地区総括表(ア)

表6-4 第2次農業構造改善事業計画認定地区総括表(ア)


表6-4 第2次農業構造改善事業計画認定地区総括表(イ)

表6-4 第2次農業構造改善事業計画認定地区総括表(イ)


表6-5 新農業構造改善事業の実績

表6-5 新農業構造改善事業の実績