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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第七節 農業団体の統合と農業会の成立


 農業団体統合の胎動

明治以来各時代を背景として設立された農業の諸団体(農会・産業組合・畜産組合・養蚕組合・茶業組合など)を統合し、農業団体の機能の総合化と強化を求める声は大正中期から全国各地で台頭していたが、昭和に入り、特に同五年、六年の経済恐慌以後は農業界の大きい課題の一つになっていた。本県でも大正一三年に松山市で開催された第二三回農事大会で農業団体の統合問題が議題となり、昭和八年に催された県下の産業組合長会議でも県信連(信用組合連合会)と県購連(購買、販売、利用組合連合会)の統合問題が論議された。
 昭和一二年に始まった戦時経済の統制強化と共に、農業団体の統合論は重みを増し、同一三年に中央で結成された国策研究団体の昭和研究会が農業団体統合試案を発表し、同年帝国農会も農林省に対して農業団体の統制を建議、さらに一五年には中央農林協議会が農林漁業団体統制要綱を公表し、この前後から農業団体統合の声が急速に高まるようになった。
 昭和一六年五月に、農林大臣の要請で中央農業協力会が結成された。中央農業協力会は、(一)農業の総合的指導 (二)農業諸団体の行う事業の統制 (三)政府の行う重要農業政策に協力 することを目的とした組織で、中央の農業団体―帝国農会・産業組合中央会・全国購買販売組合連合会・帝国畜産会・全国養蚕組合連合会・茶業組合中央会議所・産業組合中央金庫―の七者が構成団体であった。中央農業協力会は農業団体の統合を戦時農政貫徹の最優先課題として取り上げ、同年九月に農業団体統合要綱を作成して農林大臣に提出し、団体統合について積極的な意欲を表明した。時を同じくして国会からも統合促進の建議があり、農業団体統合の気運が急速に醸成された。
 同年一二月八日の対米英宣戦布告(太平洋戦争の勃発)による急激な情勢変化で、統合問題はしばらく頓挫したが、一年余の検討準備を経て昭和一八年三月一〇日に農業団体法(九月一一日施行)が成立し、大正いらいの懸案であった農業団体の統合が実現し新団体の農業会が設立されることになった。
 本県の協力会は、中央農業協力会の発足から遅れること半年後の昭和一六年一〇月八日に、七団体―県農会・産業組合中央会愛媛支会・県購連・県信連・畜産連・養蚕連・茶業連―によって結成された。発足と同時に各団体の事務所の統合、役員の共通制、幹部職員の相互兼務、事業の調整、総合的な運営の具体的な方針、市町村農業協力会結成指導などの検討に着手したが、同年末に勃発の太平洋戦争による情勢の急変と緊迫のため中央と同様に暫時、活動の休止情勢が続いた。

 農業会の設立

 農業団体法の施行を前にして、昭和一八年一月に全国の農業関係業界紙の一八紙が四職能紙に統合―中央農業協力会(日本農業新聞)・日本木材協会(日本木材新聞)・中央食糧協力会(日本食糧新聞)・肥料協会(日本肥料新聞)―されたのに始まり、農業団体統合の活動が中央、地方で再開され、同年九月二九日に帝国農会・産業組合中央会・帝国畜産会・全国養蚕業組合連合会・茶業組合中央会議所の五団体を統合し中央農業会が設立された。
 本県の農業協力会も同年四月から諸般の準備をすすめ、前記の関係七団体の代表者によって具体案が検討され、一一月五日に団体統合の最終案が決定した。この最終案の決定から一か月余を経た一二月一五日夕刻に既存の農業団体に対して解散命令が発令され、続いて翌一六日に農林大臣から愛媛県農業会設立委員として二三名(次の愛媛県農業会役員中の○印と県経済部長渡部瑞美・山中義貞・黒河順三郎)が任命された。県農業会の設立総会は暮れも迫った二七日午後一時から県会議事堂で開催され、会長以下の役員につき知事(相川勝六)から左記の指名推薦があり、岡本会長には即日、農林大臣から正式な任命があり、同時に会長から大臣あてに設立認可書が提出された。解散受命の団体は職権をもって解散登記され、それぞれの長い歴史を閉じた。解散団体は系統農会・産業組合・同支会・畜産組合・養蚕組合・茶業組合などであった。

        愛媛県農業会役員(○印は設立委員)
  顧問   ○村上半太郎 ○岡田温
  会長   ○岡本馬太郎
  副会長 ○堀本宜実(総務部長兼務)
  理事   ○桂作蔵(指導部長) 島田要(事業部長) 田坂庄三郎 ○村上盛一 〇工藤養次郎 ○相田梅太良
      玉井水澄 ○名本政一 〇西 一 〇越智孝平 ○原真十郎
  監事   夏井万太郎 高橋初次郎(常任) 田中 執 井上正一 酒井 要
  支部長 中矢近太郎(温泉) ○村瀬武男(越智) 多田 隆(周桑) 文野俊一郎(新居) 井川隆重(宇摩)
      ○新谷善三郎(上浮穴) 佐伯嘉美(伊予) 井上喜久馬(喜多) ○得能 彰(西宇和) 二宮又次(東宇
      和) ○赤松則義(北宇和) 中平嘉太郎(南宇和)
  評議員 清水勇三郎 ○近藤金四郎(温泉) 加藤徹太郎 ○稲本早苗(越智) 青野岩平(周桑) 近藤 薫(新居)
      石川信雄 高石藤四郎 鈴木銀蔵(宇摩) 大西 誠(上浮穴) ○窪田 章(伊予) ○宮田愛明 新山吉
      太郎(喜多) 三瀬利孝 上杉若春(西宇和) 高槻 清 竹中 豊(東宇和) 薬師神岩太郎 毛山森太郎
      高田一男(北宇和) 尾崎宗一(南宇和)

 農業団体法によって再編成された新農業団体の農業会は、市町村・県・中央の三段階で、市町村には市町村農業会、県には県農業会、中央には全国農業経済会と中央農業会・農林中央金庫の三者が設立された。市町村と県の農業会は指導・経済・金融を業務の柱とし、地区内の農業者と土地の所有者(地主)は市町村農業会に必然的に加入する当然加入制の組織であった。
 農業会は戦争遂行の国策に即応して農業の発達を図り、会員の農業と経済の発展に必要な事業を目的とし、とくに戦力増強の基盤である食糧の増産確保のため、全農業者の総力を結集し、最高の効率を発揮することを使命としていた。したがってその組織、性格ともに従来の農業諸団体とは全く異質のもので、(一)国策優先 (二)農業の統制 (三)当然加入 (四)役員は主務大臣、長官の任命 などに組織の特徴があり、行政庁の監督権もきわめて強く、団体の構成員以外の者に対して農業会の行う各種の農業統制に服従、協力することを命ずるほか、組織の適正な運営について指導監督(例えば総会の議決が不適当な場合は取り消しを命ず)をする強権が与えられていた。
 農業会は農業協同組合が成立(昭和二二年一一月一九日農業協同組合法制定)するまでの四年間で夭折した薄命の団体であるが、戦局の苛烈化により反対条件が山積するなかで、農業生産の維持、とくに食糧の確保のうえで大きい役割を果たした。