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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 農村経済の窮乏


 農産物価の下落

 昭和四年一〇月、米国株式市場の暴落に端を発した恐慌が世界に拡大し、我が国も深刻な経済恐慌に陥った。第一次世界大戦による農村の一時的好況は大正九年で終息し、その後の農村経済は農産物価の下落、大戦に誘発された地方経済の膨張、農民負担の増加などにより窮迫の一途をたどっていた。昭和四年九月、県農会は首相・農相・政友民政の両党本部に対し、農村の窮状を訴え、救農政策の確立を要望する次の陳情書を提出している。
 「最近数年間における米価は常に生産費を償う能わざる状態にて、農家は年々その唯一の収入を減損し今や疲弊困憊の極に達しその窮状 実に惨たるものあるは建国の基本たる農村の前途に対し洵に憂慮に堪えず 政府におかれ最善の方策の樹立を願うものなり、以下略」(愛媛新報昭和四年九月二八日記事)
 世界恐慌の襲来で農産物価の下落はさらに加速し、農村経済の窮乏は深刻の度を加えた。とくに米価と繭価の下落が著しく、昭和五年の米価は大正一五年(一石三五円九一銭)の四七%、昭和七年の繭価(春蚕一貫九円五五銭)は、同元年の二八%に激落した。
 農産物価の暴落により、農業の総生産額も激減し、恐慌が最高潮に達した昭和六年には昭和元年の五五%に低下し、農家一戸当たりの農業総生産額が四四四円(昭和元年の五一%)に減少した。
 大正末期から昭和初期の本県の農業は、稲作と養蚕を両脚とした米蚕農業で、同時期(大正一三年~昭和三年)の農家総戸数に対する養蚕農家の割合(養蚕農家比率)は全県平均で四四%であったが、南予五郡は五八%(喜多郡五〇・三% 西宇和郡四六・九% 東宇和郡六三・一% 北宇和郡七三・四% 南宇和郡五五・二%―昭和八年)の高率であった。米価と繭価の暴落は、米蚕農業県の本県には大きい打撃となったが、養蚕農家比率の高い南予一帯、とくに養蚕農家の打撃は深刻であった。

 農家経済の窮乏

 昭和六年の農家経済は、米麦作地帯を除いて各地帯、各階層とも赤字となり、養蚕地帯では昭和九年まで四年間赤字経済が連続した。農産物価の暴落、農業収入の激減により、大正末期から漸増していた農家の負債額が昭和七年には一億二千万円(全国七四億)に累増し、農家一戸当たり平均九五五円(米穀四五石相当)に達した。同年度の県下の農業総生産額は五千万円、一戸平均四四○円で、負債総額は農業生産額の二倍を超える巨額であった。
 昭和五年一二月に、伊予警察署が実施した管内の貧困家庭調査によると、極貧家庭が七九戸を数え、その中には家族八入で月収が一円の家庭、月収五〇銭でその日の糊口に窮する者、月収五銭で親子二人で暮らしている家庭があった。(愛媛新報昭和六年一月八日記事)農村の窮状も同様であった。
 昭和七年六月に、農村の不況対策を樹立するため、県の農商課が五か村について実施した村の実態調査のうち温泉郡某村の調査結果を次のように公表している。
 「この村の負債は昭和元年には三六万一、一九〇円で、一戸当五七一円であったが、現在では総額四五万一、二九四円に増加し、平均一戸あたり六二三円となっている。負債の内訳は銀行負債七万四、八二〇円、公共団体五万四、二九六円、産業組合一九万七、五八八円、貸金業者(高利貸)五、五〇〇円、その他三万九、一六〇円、頼母子講七万九、九三〇円などである。また税の滞納歩合は、昭和三年には〇・一四%であったのが現在は一・五%に増加し、頼母子の休講は六割に達し、小学校の欠食児童が五名あり、米飯を食するもの一五%、米三分麦七分飯を食するもの八五%で、小作農の中には米を買い喰いしている者が二八〇戸あり、そのうち一升買いをする者が二七〇戸ある。
 不況のため故郷を離れ南米へ渡航したもの三家族、夜逃げしたもの七戸、児童の学用品を購入するため電灯を消したものが一戸あり、電灯の燭光を減じたものは全戸数の七割におよび、街灯はほとんど消灯された。破産したもの三四戸、芸妓娼妓に娘を売ったもの二戸、自転車は村内総数二八〇台のうち四〇台は減税の手段として鑑札を廃した」(愛媛新報昭和七年六月一七日記事)
 養蚕地帯の窮状はさらに深刻で、昭和七年に東宇和郡では全農家八、七七六戸のうち八九%の七、八一七戸が総額一、二五二万二、一一二円、一戸平均一、六〇二円(米換算七六石)の負債をかかえ、その利子は三百万円を超え、郡内の米・麦・養蚕の全収入二四〇余万円を充当しても利子の支払いが不可能な実態であった。
 県下の欠食児童は、昭和七年には七千人、同九年には一万二千人と推定されたが、養蚕地帯、漁村の貧困家庭の児童には、欠席する者、朝食ぬきで登校し空腹のため授業中に卒倒する者、空弁当箱を持参する哀れな小学生もあった。松山市では、昭和六年に貧困家庭救済のため、欠食児童七五名に白米を給与し、三五〇人に日用品、被服を支給したが、県も同年に欠食児童対策費として五千円(昭和七年一万円)を計上し、これに呼応して各市町村でも各種の対策を実施し、昭和六年の一一月からは、社会協会により全国的運動として貧困家庭児童救済の給食週間が設けられた。
 農家経済の窮乏は各方面に波及し、市町村長・市町村役場吏員・小学校教員の減俸のほか、郡農会・市町村農会の解散・廃止、農業団体の統合、県行政の整理による農民負担の軽減、農村モラトリアムの実施、国庫融資金の償還据置、国防費の削減と農村救済予算の増額、農耕用物件に対する県税の免除、医薬往診料の値下げ、などの諸問題が、各地で開催される大会、協議会で決議され、県、国に対して活発な陳情運動が展開された。
 昭和六年の初頭から小学教員は自発的に俸給の五分を寄附し、大半の市町村で村長、吏員の一割減俸が断行された。郡農会の中には経費縮少のため事業を停止する郡もあり、市町村農会には技術員を解雇し、名ばかりを残す農会も少なくなかった。小作料の減免を要求する一般的な小作争議のほか、窮迫地主が小作料の引上げを要求する逆世相の紛争も各地で発生した。




表4-1 農産物価指数

表4-1 農産物価指数


表4-2 農業総生産価額

表4-2 農業総生産価額


表4-3 昭和六年の農家経済(一戸平均)

表4-3 昭和六年の農家経済(一戸平均)


表4-4 農家経済の剰余(一戸平均)

表4-4 農家経済の剰余(一戸平均)