データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第七節 明治時代の農村副業


 副業と奨励施策

 日清戦争の直後から、農閑期、夜間、婦女子などの遊休労力を活用して、農家収入の増加を図る副業に対する関心が高まるようになった。明治三四年四月に開催された伊予郡農会の臨時総会で、伊予郡長から郡内で奨励すべき適当な副業について諮問があり、これに対して養蚕・養鶏・果樹栽培・織物の四種類を最適とする答申書が提出されているが、この時期には県内各地で各種の副業が模索され開発されていた。明治三六年に、周桑郡で実施した町村の副業調査によると表2-50の七種類が重要な副業になっている。
 以上のほかに楮・三椏の製皮(千足山村)、野菜(吉井村)があげられている。当時、同郡では既存のこれらの副業のほかに将来性のある新しいものとして藺草作と製織・大麻作・蚕糸業の三者に着目し、蘭草と製織については「麦を耕作する能はざる不毛田に一戸五、六畝宛 藺を栽培して農閑のとき製織し売却するの方法を講ずべし 而して藺跡作としては稲付るなり 如此方法を実行するときは一戸に付百円内外の臨時収入を得べし」とし、大麻作については「広島県安佐郡三河村を手本とすべし、而て畑 或は田に植付べし 田に植付たるときは跡作として稲を植付くべし、而て大麻は荒苧の侭売却する方得策ならん」と説き、蚕糸業については「養蚕、製糸とも年々 講習生徒を養成するは大に希望するところなり 而て農家の蚕業に対する方針として繭の侭売却せず製糸の上 売却するの方針を採るべし 此蚕糸業の件は模範を群馬県碓氷社及熊本県の蚕糸業法を採用すべし 他府県の方法は農家の副業に非れば適せず」と講説し、この三業を有望な副業として勧めている。(県農会報五四号)
 日露の開戦と同時に、副業は戦意高揚の意味も兼ねて積極的に奨励された。明治三八年一月に開催された県農会主催の郡農会技術員協議会で会長(越智茂登太 周桑郡出身)は訓示の中で副業問題にふれ「時局の需めに応じて農民の収利を増進せんと欲せば、副業の発達を奨励するの必要なることは言うを俟たず。養蚕、養鶏、製紙、機織、果樹栽培等、其種類枚挙に暇あらず」として副業奨励の重要性を強調している。(同七一号)
 協議会の諮問事項にも「各郡における副業奨励の順序方法如何」の一項を掲げて各郡の意見を求めているが、この諮問に対して各郡の担当者は次のように答申している。(同七三号)

       記
絣織の奨励       温泉郡
麦棹真田の奨励    温泉郡 伊予郡 越智郡 新居郡
牛馬畜の改良      温泉郡 伊予郡 越智郡 上浮穴郡 喜多郡 西宇和郡 東宇和郡 北宇和郡
蔬菜の奨励       伊予郡
養蚕の奨励       越智郡 新居郡 周桑郡 上浮穴郡 喜多郡 西宇和郡 東宇和郡 北宇和郡
製 俵(塩業用)     新居郡
養鶏の奨励       西宇和郡
果樹の奨励       西宇和郡 北宇和郡
茶業の奨励       上浮穴郡
三椏楮櫨樹の改良  上浮穴郡 西宇和郡 東宇和郡

 麦桿真田

 養蚕・畜産(牛馬鶏)・果樹・蔬菜が重要な副業の対象となっている点に、この時代の特徴を知ることが出来るが、注目されるのは麦桿真田である。麦桿真田は当時の重要な輸出品の一つで、明治三七年下半期の実績では、英米ほか十余か国に六三七万束、二五七万円が輸出されている。近県の香川・岡山・広島・山口の諸県に主産地があった関係から県内(主として温泉郡)でも明治二〇年代に試みられたことがあるが、販路を拓かず漫然と製造を勧奨したことから失敗している。
 温泉郡農会はこの前轍を検討のうえ、先進地の香川県・岡山県の主産地で栽培、加工の技術を精査し、明治三七年から再度の奨励に着手した。計画の動機は香川県の業者が松山市に進出して事業をおこす計画をたて、県庁・郡役所・県農会に原料麦の栽培を要請してきたことが端緒であった。
 明治三七年に麦桿真田用種子(コビンカタギ)一石を導入して原料の生産を始め、同三八年には予算八〇円を計上して先進県から技術者を招へいして現地伝習会を開催している。
 農業団体(主として温泉郡農会)の活動と並行して、県も積極的な奨励を開始し、その第一着手として啓蒙と指導をかね明治三八年に南宇和郡その他で麦稈及経木真田講習会を開催して普及につとめ、翌三九年以降は次の奨励規程により補助金を交付して事業の促進をはかった。

     麦桿経木真田業奨励規程
     (明治三九年四月一七日 愛媛県令第二一号 明治四一年県令第三四号で廃止)

第一条  麦桿経木真田の製造販売又は購買販売若くは製造奨励を目的とする組合には本規程に依り補助金を与う
第二条  補助を為すべき組合は左の要件を具備するものに限る
  一 組合地区は一郡市又は其の以上のもの
   但し特別の理由ありと認むるものは此の限りにあらず
  二 製造販売又は購買販売組合は一か月 真田二百反以上を県外へ販出するもの
  三 製造奨励組合は一定の実業教師を以て製造伝習を為すもの
第三条  補助の金額は左の費途に依り之を定む
  一 製造販売組合に対しては真田販出費用及び実業教師を雇傭したるときは其俸給
  二 購買販売組合に対しては真田の買集及販出費用
  三 製造奨励組合に対しては実業教師の俸給及び製造伝習費
第四条  補助を受けんとするものは前年度一月左の事項を具し知事に願出づべし
  一 製造販売組合にありては製造方法職工奨励方法製造伝習方法職工男女人員賃金額並に給与方法及其年三月三一日
   に至る販売真田の種類数量価額荷造運送費並に販売取引先の商号営業所又は氏名住所の予定
  二 購買販売組合に在ては真田買集の方法并に其費用額及其年四月一日より翌年三月三一日に至る販売真田の種類数量
   価額荷造運送費販売取引先の商号営業所又は氏名住所の予定
  三 奨励組合に在ては其年四月一日より翌年三月三一日に至る期間内に於て実施すべき製造伝習の場所期間伝習人員
   の予定及其他の奨励方法
   前項の願書には組合定款又は規約及経費収支予算組合員の在籍市町村別及其人員調書を添付すべし 但し産業組合法
   及其他に依り既に知事の許可を経て設立したる組合は定款規約の添付を要せず
第五条  補助の許可を受けたるものは翌月五日限り前月間に於ける左の事項を知事に届出づべし
  一 製造販売組合に在ては製造の実況販売真田の種類数量価額荷造運送費梱包個数及び販売先の商号営業所并に商況
  二 購買販売組合に在ては真田買集の実況販売真田の種類数量価額荷造運送費梱包個数及び販売先の商号営業所又は
   氏名住所并に商況
  三 製造奨励組合に在ては製造伝習の場所期間伝習男女人員其他施行したる奨励の実況又製造品を試売したるときは其
   真田の種類数量価額荷造運送費梱包個数販売先の商号営業所又は氏名住所并に商況及売揚金処分方法
第六条  組合に於て実業教師を採用したるときは直に其俸給額を具し履歴書を添え知事に届出づべし
  実業教師の俸給を増減し又は罷免したるときは前項に準ず
第七条  組合は帳簿を整備し事業経営に関する事項及収支計算を明確に登録すべし
第八条  組合は官吏の質問に対し確実に答弁し又営業所若くは工場等の臨検を拒む事を得ず
第九条  組合は引続き十日以上其業務を休止し又解散せんとするときは三十日前知事の認可を受くべし
第十条  組合に於て本規程又は許可条件に違背したるときは補助を取消し既に交付したる補助金の全部又は一部の返還
  を命ずることあるべし

     附 則
第十一条 明治三九年度に限り本規程第四条第一項の出願期日を其月六月三十日とし其第一号乃至第三号の其年四月一日
  を出願時とし之を施行す

 統計資料が欠如し、その後の経過は確認できないが、明治四五年の副業生産調査によると麦棹真田経木真田の生産地、生産量は次の表2-51のように六割を占める越智郡を中心として東予四郡に集中し、温泉郡ほか中予の生産は皆無になっている。

 三間莚

 北宇和郡三間郷では、藁加工の莚を地方の副業として大量に製造し、県の内外に販売するのみならず、農閑期に女子が各地方に出稼ぎで製莚して歩き、多額の労賃収入を得ていた。三間郷の莚は古くから三間莚の名で広く知られ、出稼製莚も藩制時代からの慣行であったが、他郷人の出入が容易でなかった各藩割拠の時代には、出稼の区域は宇和島、吉田の両藩内にとどまっていた。
 維新後は出稼の範囲が次第に拡大し、明治三〇年ころには北宇和郡・南宇和郡・東宇和郡・西宇和郡・喜多郡・上浮穴郡・伊予郡・温泉郡にわたる県内のほか、高知県・大分県・宮崎県の諸県にまで遠く出かけていた。
 自家副業としての製莚作業は、普通朝の六時から夕方の六時まで行い、夕食後から夜半の一一時まで翌日の準備として繩をない、一日(二人掛)の作業工程は、熟練者で一七、八枚 平均して一〇枚以上を製造していた。郷内の製品は馬の背により宇和島町に搬出していたが、年産額は七千円(明治三〇年の米価一石一二円)に達していた。価格は製品の精粗で異なり、佳品は一束八〇銭以上、下品は四〇銭以上が標準となっていた。最優等品の産出所は三間村大字川之内とされていた。
 出稼製莚は婦女子にかぎられ、明治の中期までは年齢一三、四才から二七、八才までの未婚女子であったが、明治三〇年ころからは出稼者の数も増加し、自家労力に余力のある者や零細農家のなかには既婚者も出稼ぐようになった。製莚は二人作業であるため、出稼ぎは二人一組となっていた。
 出稼期間は正月に出発して田植時期に帰る者、養蚕労働のため早く帰る者、稲の収穫期まで帰村しない者など、さまざまであったが、平均五、六か月、長きは八、九か月に及ぶ者もあった。収入は最低二〇円、多きは七〇円~八〇円に達する者もあった。
 出稼先では需要家に雇われたが、雇傭主は食事と原料藁を給与して何十枚、何百枚を請負わせる形式であった。製造量は一日約一一、二枚で、賃金は一枚おおむね四銭五厘であった。一日、四五銭~五〇銭の労賃収入であるが、出稼中は昼夜の別もなく精励し「郷を出て郷に帰るの間は、節倹を勉め儲金するを以て楽みとし帰村の後、初めて貧家は生計の資とし、其他は衣服等を購い又は婚嫁の資に儲貯」えていた。(農会報二七号)
 筵打出稼は帰女子に限られていたために、家庭生活のうえで多少の問題はあったが、農閑期の遊休労力による副芸としては恰好のものであった。郷内で一般的に奨励されていたのは、自家での座家製筵であったが、各戸で製造する少量の製品を馬の背で宇和島の町に搬出する販売方法では、運搬賃が割高となり、出稼ぎの収入に比較して著しく不利であった。

 副業の生産高

 農家の副業には、以上のほかに養蜂・竹細工・製箸などもあったが、養蚕・製茶・麦桿経木真田・織  物・畜産の五大種目を中心として次表のように広く普及し、明治末期には生産額も米の二割に当たる三七九万六、二八四円(明治四五年実績 同年の全国生産額三億円)に達し、農家収入の重要な一部門となった。





表2-50 周桑郡副業調査(明治36年 郡農会調査)

表2-50 周桑郡副業調査(明治36年 郡農会調査)


表2-51 麦桿及経木真田生産量

表2-51 麦桿及経木真田生産量


表2-52 副業生産高(明治45年)-愛媛県農会調査(ア)

表2-52 副業生産高(明治45年)-愛媛県農会調査(ア)


表2-52 副業生産高(明治45年)-愛媛県農会調査(イ)

表2-52 副業生産高(明治45年)-愛媛県農会調査(イ)