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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 耕地の変遷


 地租改正時の田畑面積

 明治六年七月二八日に布告の地租改正条例により、明治九年から新地租の徴集となるが、この時の検地で県下の田畑面積は両者ともに旧藩時代に比較して次表のように、それぞれ三割二分~二割六分増加している。
 この著しい増加は、丈量の間竿の改正によるもので、明治七年県政引継書によると、旧藩時代の検地は各藩それぞれ独自の間尺を用い、西条・吉田・大洲藩は六尺三寸、松山・今治・新谷・小松藩は六尺五寸、宇和島藩は六尺など区々であったのを六尺一間に統一した。三割増加の理由の一つは、この間尺の改正統一にもあるが、間尺の改正比率と、面積の増加率を勘合すると、精度の高い、厳格な検地により、少なからぬ面積の隠田畑が摘発されたことが主たる理由と考えられる。

 耕地の推移

 地租改正後の県下の田畑面積は次のように変遷している。
 地租改正から一〇年後の明治一七年には、水田は、約一、〇〇〇町歩減少し、畑は反対に四、八〇〇町歩増加し、田畑合計では約三、七〇〇町歩増加している。その後耕地は漸増し、明治二一年には最高に達して一一万八、八八五町になっている。以来時代により若干の増減が見られるが、大正末期までおおむね一一万町歩合を維持し、昭和期になってから一一万町歩を割り、昭和四年にはさらに一〇万町歩を下って九万一、六五○町歩となり、この九万町歩台が太平洋戦争の直後まで続いた。
 田と畑の比率は、地租改正時には五九対四一で水田面積が畑面積より多く、明治二〇年まで水田はこの優位を保っていた。この田畑比率が、明治二一年を境にして逆転し、明治末期から両者の比率は四三対五七となりこの状態が昭和初期まで続いた。昭和恐慌を転機として再び水田率が高くなり、両者の比率はおおむね相半ばするようになるが、昭和一二年以降の戦時下では、甘藷・野菜・特用作物などの増産奨励で再び畑率が高くなり、畑面積が若干、水田面積を上回っていた。
 耕地面積が最高に達した明治二一年の一一万八、八八五町歩は、地租改正時の七万七、三九六町歩に対比して約四万一、〇〇〇町歩の急増であるが、この著しい増加は畑の急激な増加によるもので、水田の増加が約三、〇○○町歩であるのに対し、畑は四万町歩増加し、地租改正時の二倍を超える面積になっている。
 明治前期には県内各地に広大な秣場、切替畑、荒地田畑が存在し、明治二一年当時でもこれらの面積が六万町歩を超えていた。
 明治二〇年代の急激な畑面積の増加は、総てが開墾による熟畑の増加ではなく、この切替畑、秣場の多くが含まれていると見てよい。『愛媛県農事概要』は「本県下に於ては上浮穴郡など山間の地方を除けば開墾に適すべき地甚だ少なく明治二一年に於て開墾に従事しつつありしものは総計八百八十余町歩にして其同年中に開墜し得たるものは七百五十余町歩に過ぎず上浮穴郡に於ては荒蕪の地少しとせず加るに近来道路修築の業成りたるにより開墾すべきもの多しと雖未だ調査行届かず」とその辺の実情を伝えている。
 しかし明治の中期は畑地が急激に増加した時代で、南予の段々畑が増加したのもこの時期であるが、畑地の開発増反は大正初期に終結(最高時は大正二年 六万四、一五〇町歩)し同末期から漸減の傾向をたどり始め、昭和以降は急激に減少している。畑面積のこの起伏消長は、製糸業界の浮沈に左右された桑園の増減が主たる要因であった。
 水田は明治中期から昭和初期まで約四〇年間、四万八、〇〇〇町歩で固定していたが、昭和三年の四万八、〇三六町歩を最後にして翌四年は四万六、五九六町歩に減少し、いらいこの面積が太平洋戦争勃発の昭和一六年まで続いた。



表2-9 伊予国新旧反別

表2-9 伊予国新旧反別


表2-10 田畑面積の推移

表2-10 田畑面積の推移


表2-11 秣場、切替畑、荒地面積

表2-11 秣場、切替畑、荒地面積