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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 種苗の輸入と試作


 本県で試作の輸入種苗

 外国種苗の輸入は、明治三年の牧草・甜菜・蕪菁に始まり、二〇余年間にわたって継続され、その種類も米麦、玉蜀黍などの穀類から野菜類・特用作物・果樹・牧草など多種多様で、輸入国も米国のほか数か国におよんでいる。これらの輸入種苗は中央の試験場で試作するほか、府県にも分賦され、地方の試験場、農事老練者により栽培試験が行われた。そのうち希望あるいは委託により、本県には上の表2-1のように一二種類が配布され試作された。

 種苗の特性と試作成績

 試作は県の種芸試験場・勧業試験場のほか、主産地の精農家に委託して行われた。一二作物の中には落花生・薬草・大麻など小面積、短期の試作で終わったものもあるが、米麦、とくに麦類については県内の全区域で長期にわたり大規模の試作が継続実施された。
 明治八年に導入したアメリカ麦の試作は、中南予の主産地で八二人の農家に委託し、二五年に配布された四種類の大麦の試作は二八三人に委嘱している。試作の成績は特性が明らかでない未知の品種であるために、播種期・肥培管理が担当者によって異なり、各地各様であるが、本県の風土に適応するものが少なく、最も期待された米麦も在来の品種を更新するほど優れたものがなく試作に終わった。

  1 米

 ハワイ米は生育が旺盛で穂が大きく、一穂の粒数が四〇〇以上に達し、品質も中位で栽培も容易な品種として評価され、明治一三年に北宇和郡の試作担当者から試作品を大蔵省に献納し、同一四年に東京で開催の全国共進会に出品している例も見られるが、一般には (一)食味不良 (二)臭気あり (三)地力の減耗が著しく (四)収量も少ない 品種として関心をよせる者がなく、明治一六年以降は試作を中止している。同一九年に試作したカロリナ米も、陸稲に似て粘気が少なく、冷却すると食味が悪く敬遠された。

  2 麦   類

 明治八年に試作開始(栽培担当者三〇人)の米国産小麦オレゴン種は、その後も継続して試作され、同一六年には平均反当収量二石、在来品種に比較して三斗増収の成績をあげている。明治二三年に配布されたゴールデンメロンは米国産の有芒二条大麦(別名矢羽根麦)、ケープは英国産の長芒の六条大麦で、両者ともに良質多収の品種で、第一年度の試作で次の成績を示している。

  品種名      耕作担当者  平均反当収量  在来品種比較
ゴールデンメロン  三五人     二石四四九    (十)〇石三三〇
ケープ         四五人     二石六七九

 ゴールデンメロンは在来種に比較して一割三分余の増収になっているが、翌明治二四年の成績は担当者二四人の平均で反当収量三石三斗一升五合(全国一位)で、在来種に対比して三割弱(九斗二升七合)の増収になっている。ケープは抜群の多収品種で、全国では反収、三石、四石の実績をあげている府県が多く、在来種に比較して平均三割(約一石)の増収になっている。本県はたまたま何らかの事情でとくに不良であったものと思われる。
 明治二五年の大小麦の試作は前述のように二八三人(全国一、六六〇人)に委託して実施しているが、その実績は全国平均で次のようになっている。(表2-2参照)
 以上のように洋種麦はいずれも在来種に比較すると品質、収量ともに優れていたが、米と同様に現実の農業に定着することなく栽培の実験で終わり、明治三〇年以降は完全に姿を消した。熟期が在来種に比較して二週間前後も遅く、後作(稲)の支障となったことが最大の理由であった。
 明治一一年以来ソノラ小麦の試作を続けた石川県が八年間の実績を総括して、明治一九年に農商務省に次の報告書を提出しているが、本県の実態も全く同様であった。
 「ソノラ小麦は風土に適して能く繁茂し、且つ虫害尠なく収穫も本邦種に比すれば多きこと一割余なり。然れども下種の遅速に拘らず成熟期は二週間乃至三週間の遅後あるが故に跡作仕付の時機を失するより目下之を栽培する者増加せず。加え農家は概ね従来の慣習に泥み之を栽培する者甚尠し」
 このことは、ひとりソノラ小麦だけでなく、洋種麦のすべてに共通していた問題である。ちなみに明治前期に先進諸国から導入した米麦の種子(品種)には、国内農業の改良ではなく、殖産興業・輸出振興策の一環として、輸出農産物の増殖を目的としたものが少なくなかった。農商務省は明治二〇年の農商工公報第三一号「米国かろらいな米の試作成績」で、“かろらいな籾米を愛媛県ほか六県に分配し後来 輸出米となさんが為め……”とその目的を明記している。輸入種苗の大半が本邦の農業に発根定着しなかった背景には、こうした事由が介在していた。

  3 甘   蔗

 米麦についで期待された作物は甘蔗である。明治一〇年に始まった甘蕉苗の輸入と試作は同一七年まで継続実施されているが、本県に配布された最初は一二年に輸入した清国産の苗である。初年度の試作状況は明らかでないが、翌一三年に同じく清国からの輸入苗六担が配布され、県はこれを宇摩郡役所・伊予郡役所にそれぞれ三担を配分し、郡役所は次の者に試作を委託している。

伊予郡下吾川村 田中  庄作  宇摩郡山田井村 尾藤 栄次
同   西垣生村 三原福次郎  同           尾藤善九郎
同   北黒田村 安永助太郎  同           石川平太郎
宇摩郡妻鳥村   前谷嘉九郎  同   寒川村   佐々木幸吉
同   山田井村 石川  富蔵

 続いて翌明治一四年には清国広東産苗が輸入配布され、農商務省の委託により、在来日本種との精密な比較試験が行われた。
 試作蔗は大阪府下玉江町二丁目の真島襄一郎製糖所に送られ、糖分の比較分析が行われたが、その結果は「広東は糖分貧弱にして対照比較分析上、或は日本種蔗の下に位して十分富饒に糖分を含有せざるは甚遺憾なり而其収穫茎量の多寡を量るに殆んど相伯仲せり (にんべんに尺)令日本甘蔗は茎幹甚細しと雖も一株の甘蔗は九茎の多きを発芽し猶其上にも成長中根辺より乙芽を続発せり 然れども是を芟除し其尤強茎と認むるもの八九を残して生育せり 広東種は平均一株より六七茎にして子芽を発すること甚稀なり 是を一反歩の地面上に積りて計算せば茎数は稀少にして重量あるに似たれども糖分は寡少なり 然れば実際在来の甘蔗と比較せば必ずしも甚有益なる種類とも認め難し」と報告されている。(明治前期勧農事蹟輯録下一四二八頁)
 試作はその後も続けて行われ、広東種は日本の風土に適し、成長も良く収量も多く在来種に優る新品種として刮目されたが、糖分が日本種に劣る弱点があり、米麦と同様に単なる試作にとどまり、一般には普及しなかった。広東種に代わり、明治一六年に小笠原産の甘蔗苗が導入され、本県(香川県を含む)にも黄種五五本、紫種二〇本が配布され、県勧業試験場で試作された。本種は「内地産のものに比すれば茎幹肥大、糖分も亦頗る多量」と記録(同上)されているが、試作の結果、その後の経過は明らかでない。


表2-1 輸入種苗の分賦状況

表2-1 輸入種苗の分賦状況


表2-2 大小麦試作成績

表2-2 大小麦試作成績


表2-3 明治一四年甘蔗試作(比較)成績

表2-3 明治一四年甘蔗試作(比較)成績